柴田錬三郎 決闘者 宮本武蔵(下)   他界の言     一  それにしても——。  幕府|隠密《おんみつ》ならば、この若い兵法者を宮本|武蔵《むさし》とみとめ、九度《くど》山北谷へ入ろうとしているのは、真田幸村《さなだゆきむら》に逢《あ》おうとしているのだ、と合点した上は、黙って、その館《やかた》を訪ねさせ、様子をうかがうべきであったろう。  武蔵が、幸村のやしなう真田六連銭組に入るかどうか、まだ、判然としていないのであった。  あるいは、武蔵は、ただ、幸村の人格を慕うて、挨拶《あいさつ》に立ち寄るだけで、すぐに去るのかも知れなかった。もし、それならば、わざわざ、行手をはばむ必要はないはずであった。  隠密の任務としては、武蔵が真田六連銭組に入るかどうか——その有無をつきとめるのが肝要ではなかったか。  もし、幸村が武蔵をその傘下《さんか》に加えたならば、そのこんたんは明白となる。幸村は、やがて、大坂城に入って、豊臣秀頼《とよとみひでより》に随身するに相違ないのである。  幕府隠密が、武蔵が九度山北谷に入るのを、はばもうとするのは、いささか、早計にすぎはしなかったか。  左様——。  他の幕府隠密ならば、決して、この地点で、武蔵を襲撃したりはしなかったであろう。  五人の刺客は、柳生《やぎゆう》道場の面々であった。かれらは、隠密であると同時に、兵法者であった。いや、隠密であるよりも、兵法者としての意識の方が強い手練者《てだれ》たちであった。  孤剣をふるって、室町兵法所|吉岡《よしおか》道場一門を、滅亡せしめた、師もない無名の兵法者宮本武蔵と出会ったのを、好機|遁《のが》すべからずとして、業前《わざまえ》を競う闘志が、期せずして、柳生流使い手たちの胸中に燃えたのである。  兵法者にとって、端倪《たんげい》すべからざる剣の術を編み出して、それを実戦に用いて、ただの一度も敗北したことのない、文字通りの無敵の芸者《げいしや》を、目前にして、指をくわえて看過《みすご》すことはできなかった。  ——われわれは、吉岡道場の門弟ではない、柳生道場の高足だ!  その誇りが、かれらに、抜刀させた、といえる。  正面の土橋の欄干上に一人、左右から二人ずつ、じりじりと肉薄し、ついに、間合を見切るまでに、現代《いま》の時間にして、およそ二十分が経過した。  この二十分間が、武蔵にさいわいした。  雪が、にわかにはげしく、霏々《ひひ》として、降りつのって来たからである。  武蔵は、なお、身を刃圏内に容《い》れられ乍《なが》らも、二刀を下げた姿勢を変えてはいなかった。  柳生流の極意のひとつとして、石舟斎《せきしゆうさい》が生んだ秘伝に、二刀を持った敵に対する二具足、打物という二つの術があった。  正面欄干上の刺客は、そのいずれかを使うべく、切先《きつさき》を武蔵の頭上二寸ばかりの宙へ向けて、固定させていた。  左右二人ずつ四個の影は、柳生流独特の虎乱《こらん》をはなつべく、隻腕《せきわん》で、白刃を直立させていた。  正面の者が、二具足か打物か、飛電の迅業《はやわざ》で襲うのと同時に、左右から、虎乱片手|斬《ぎ》りの四刀が、撃ちかかって来る——これは、文字通り必殺の戦法であった。  橋袂《はしたもと》の野仏ぎわで、凝視している妻六には、武蔵がはたしてこの陣形を破ることができるか否《いな》か、次第に不安になって来た。修業を積んだ忍者であり、幾度《いくたび》も死地をくぐり抜けて来た妻六だけに、柳生流戦術のおそろしさが、ひしひしと感じられたのである。  もし、雪が降りつのって来なかったならば、あるいは、武蔵は、討たれないまでも、無傷のままで血路をひらくことは、でき難かったであろう。  敵味方の姿が、純白の玉花《たまはな》の中に溶けた。 「しめた!」  妻六が口走るのと、欄干上の敵が、満身からの懸声をほとばしらせるのが、ほとんど同時であった。  妻六の目には、雪華の幕をすかし視《み》て、双方がどう闘ったか、しかと映し残すことは不可能であった。     二  この決闘は、ゆっくりと三つかぞえるほどの、ほんの短い秒間で、訖《おわ》った。  妻六が、橋の上へ奔《はし》って来てみると——。  武蔵の足許《あしもと》に一人、数歩はなれて三人が、仆《たお》れていた。あとの一人は、流れに落ちたのである。 「おやりなされたものだ!」  妻六は、今更に、武蔵の強さに、舌を巻いて、かぶりを振った。 「われ乍ら、よう勝てたと思う」  武蔵は、ふうっとひと息ついた。  正面から欄干を蹴《け》った敵は、脳天から真二つに斬り下げるとみせて、小刀をつかんだ左手を両断する打物の迅業をはなって来たのであった。  武蔵は、野生の生きものの本能に似た直感力で、そうと知りざま、ぱっと身を沈めた。  ただ身を沈めたのではなく、その刹那《せつな》には、正面から翔《か》けて来た敵の胴を、長船祐定《おさふねすけさだ》で薙《な》ぎ斬り、左手の小刀を、左方の一人へ投げていた。小刀は、敵の胸をふかぶかと突き刺した。  一瞬にして、二人を仆した武蔵は、右方から、猛然たる突きが来た時には、もうそこにはいなかった。  欄干上に、武蔵が跳び上っているのを、三人がみとめて、さっと虎乱の陣形をととのえようとしたが、そのいとまはなかった。  一人が、武蔵の代りに欄干を両断した瞬間、一人は、首を刎《は》ねられていた。  次に為《な》した武蔵の動きは、敵の意表を衝《つ》いていた。  武蔵は、高く跳躍して、むかいの欄干へ、移ったのである。  敵が、身をひるがえして、橋板を蹴って攻撃するのと、武蔵が、跳び移った欄干上から、ぞんぶんに斬り下すのと、紙一重の差ではあったが、後者の方が迅かった。  欄干を両断した者は、おのれ一人だけ残ったことに、堪えられぬごとく叫びたてて、まっしぐらに突きかけて来て、袈裟《けさ》がけの一太刀をあびると、自身が両断した欄干へ倒れかかり、流れへ落ちたのであった。 「この隠密連は、どうして、武蔵殿を殺そうとしたのでござろうかな?」  雪中を肩をならべ乍ら、妻六は、その不審を、口にした。 「天下に、もう一度、合戦が起る、という前ぶれであろう」 「合戦が——? もはや、天下は、徳川家のものではござらぬか。徳川家を打倒しようとするような壮大な志を抱いて居《お》る大名など、どこにも見当り申さぬが……?」 「大坂城がある」 「ははあ、なるほど、豊臣家は、厳存して居り申すわい」 「お主は、城内へ忍び込んで、天守の秘庫に、どれくらいの軍用金がたくわえられて居るか、見とどけたのではないか?」 「無尽蔵と申しても、誇張ではござらなんだ」 「おそらく、徳川大御所は、太閤《たいこう》が残した莫大《ばくだい》な運用金を狙《ねら》って居る、と想像できる。われわれには、かかわりのないことだ、と思うていたが、すこしばかり火の粉が、ふりかかって来た」 「真田館を、お訪ねなさるのは、避けられては、如何《いかが》でござる?」 「おれは、兵法者だ。合戦に加わって、功名|手柄《てがら》をたてる存念など、毛頭みじんもない。野望を抱かぬ者なればこそ、虚心|坦懐《たんかい》に、武将中の武将に、敬意を表する。左衛門佐《さえもんのすけ》殿も、おれを、家臣にと誘いはすまい」 「しかし、そのさき、幕府隠密が、待ち伏せて居って、あらぬ疑惑をかけられるのは、迷惑ではござらぬか?」 「妻六——」 「なんで、ござる?」 「柳生|但馬守宗矩《たじまのかみむねのり》ともあろう兵法者が、幕府の走狗《そうく》になりさがって居るのは、気に食わぬ。……兵法者は、あくまで、兵法者として生きるべきだ。……おれは、柳生道場を敵にまわして、闘うことに、なにやら、血がわきたって来た」 「それは、あまりにも、血気にはやられると申すもの——」  妻六は、ぶるっと身ぶるいした。 「妻六——、お主は、なにを生甲斐《いきがい》として、おれにくっついて来て居るのだ?」 「惚《ほ》れたからでござる。お手前様が、兵法者として、こん後、どれほどの闘いぶりを示されるか、それをつぶさに見とどけたく……」 「兵法者ならば、まず、将軍家師範たる柳生但馬守を、敵として、これに勝つのが、生甲斐と申すものだろう」 「お手前様は、どこまで不敵な性根をお持ちなのか、測り知れ申さぬ」  妻六は、やれやれと、首を振った。  風が出て来て、玉花は吹雪になった。  二人は、平然として、山道を辿《たど》って行く。  妻六は、二歩ばかりおくれ乍ら、 「当面の敵は、宍戸梅軒《ししどばいけん》。……次は、佐々木小次郎という狂気に近い天才も、お手前様との試合をのぞんで居る模様でござる。……この上、柳生道場の面々に、敵としてつけ狙われては、いかに無敵のお手前様でも、いずれは、敗れることがあるのではござるまいか。……どうも、真田館を、お訪ねなさるのは、気が進みませぬわい」  独語するように、云《い》った。  武蔵は、きこえぬふりで、大股《おおまた》に、切通しになった坂道を、ゆっくりと降りて行った。     三  同じ日、同じ二人連れが、柳生の里を出ていた。  静重と伊織《いおり》であった。 「本日、おいとまつかまつります」  静重が、離れの茶亭をたずねて、辞去を告げると、石舟斎は、床柱に凭《よ》りかかって、結跏跌坐《けつかふざ》し、双眼を閉じていた。  なぜか、石舟斎は、そのまま、身じろぎもせず、返辞をしなかった。 「ご造作に相成り、お礼の申し上げようもございませぬ。……百歳までのご長寿を、お祈りいたしまする」  静重が、平伏した時、石舟斎は、ひくいしわぶきをして、薄目をひらいた。 「人間というものは……」  と、云いかけて、しばらく声音をとぎらせていたが、 「孤独なものよ」  と、云った。 「は——?」  静重は、顔をあげて、石舟斎を見やったとたん、はっとなった。  石舟斎の顔色が、ただの色ではないことを、みとめたのである。 「石舟斎先生、なにか……お加減がおわるいのでは——?」 「ようやく、わしの寿命が尽きたようだ」 「なんと仰《おお》せられます?!」 「よい、これでよい」 「先生! 御一統衆を、すぐに——」 「呼んではならぬ」  石舟斎の声音は、意外に、力がこもったものであった。 「わしは……、死ぬ時は、孤独でありたいと、……ずっと以前から、願うていた。一人、静かに、この世を去る——これが、わしの、念願であった。……縁もゆかりもない他人のそもじに、別れを告げるのは、なにやら、すがすがしい。……伜《せがれ》や郎党どもの泣き声を、きき乍ら、逝《い》くのは、わしの、好まぬところであった。……八十年の生涯《しようがい》、さまざまのことがあった。それが、すべて、無に帰す。人の一生とは、儚《はかな》いものよのう」 「…………」  静重は、かわいた眸子《ひとみ》で、石舟斎を、瞶《みつ》めた。  このように、物静かに、なんの苦痛もなく、俗世の塵《ちり》をはらって、他界の時を迎える人に、はじめて、接したのである。  胸にあふれる感動が、かえって、静重の態度を、きびしくひきしめたものにした。 「さらば……、去るがよい」 「は、はい」 「……ついで乍ら、あの伊織という子供を、ともなってもらえまいか?」 「かしこまりました」  石舟斎は、再び目蓋《まぶた》を閉ざした。 「奈良みち」もまた、吹雪であった。  伊織は、不機嫌《ふきげん》であった。 「小母《おば》さん、なんで、こんな日に出発するんだい?」 「明日は、お館で、取込みがあるからです」 「なんの取込みだい?」 「…………」  静重は、こたえなかった。  伊織は、静重にうながされて、柳生館を出て来たのであったが、それは石舟斎からそうせよという命令であった、ときいて、やむなく承知したのであった。  伊織は——伊織もまた、茶亭へ、別れの挨拶に行ったが、仏像に似た不動の姿を見受けたばかりで、言葉もかけてはもらえなかった。  伊織が挨拶に行った時には、すでに、石舟斎の魂は、この世から去っていたのかも知れなかった。  伊織は、気がつかなかったのである。 「小母さん、お館になんの取込みがある、というんだい?」  伊織は、かさねて、訊《たず》ねた。 「石舟斎先生が、お逝きになったのです」 「なんだって? ……そんな、ばかな!」  伊織は、叫んだ。 「先生は、一人静かに、誰人にも看取られずに、世を去ることを、念願にされて居りました。まことに、ご立派な大往生でした」 「…………」 「伊織さん——」 「うん」 「わたくしは、宮本武蔵を討つ気持を、すてました」 「ほんとかい?」 「土佐へ帰ります。尼となって、亡《な》き人たちの菩提《ぼだい》をとむらいます。……石舟斎先生のご最期《さいご》を拝見した時、心がきまりました」 「よかった!」  伊織は、吹きつのって来る雪花の中で、双手《もろて》をあげた。 「女子《おなご》を返り討ちしては、おいらのお師匠様の武名に汚点がつくのじゃ。よかった! 小母さん、ようあきらめて下された。おいらからも、礼を云うよ」  滝坂道を降りきったところで、道は二叉《ふたまた》に岐《わか》れていた。 「伊織さん、では、ここで、別れましょう」 「うん。……小母さん、達者でな」 「伊織さんも、立派な武芸者におなりなさい」 「なるとも! おいらは、今日から、宮本伊織と名のることにする。宮本武蔵にまさる兵法者として、天下に名をあげてやる。小母さんの耳にも、やんがて、きこえてゆくぞ」 「そなたなら、きっと、そうなりましょう」  一人息子を喪《うしな》った静重は、いま、伊織を見まもるうちに、おのが心のうちに、母をおぼえたことだった。   男根説法     一  瀬音が、はるか、足下からひびいて来ていた。  |※[#「木+無」]《ぶな》の密林に掩《おお》われていて、「維盛《これもり》路」からは、その渓流《けいりゆう》は、見えなかった。  原始林をへだてて、左方にそびえる、紀州の屋根と称《よ》ばれている護摩壇山《ごまだんざん》が、雪化粧をして、晴れた冬空をゆるやかに截《き》りぬいている。  そのむかし——。  屋島の合戦に敗れて遁《のが》れて来た平《たいらの》維盛が、この山の麓《ふもと》で、愛人お万の方とかくれ住んだ。しかし、源氏の追及の手は、ついに、この山奥にものびて来た。その手をふりきることは、まぬがれがたい、とさとった維盛は、しかし万一の僥倖《ぎようこう》を願って、山頂に登り、護摩を焚《た》いて、平家とわが身の行末を占った。  煙は、渓谷を、西方へ流れ落ちた。維盛は、その方角へ——けものみちをつたって降りて行き、麓ちかくの樵夫《きこり》小屋で、自害して果てた。護摩壇山は、この故事によって、名づけられている。  そして——。  高野山から、護摩壇山を経て、竜神《りゆうじん》に至る十数里の杣道《そまみち》を、地下人《じげにん》は、維盛を偲《しの》んで、「維盛路」と称んでいる。  この「維盛路」を、少年伊織は、胸を張って、辿っていた。  奈良で、静重とわかれた伊織は、まっすぐに、高野山を越えて、竜神をめざしてやって来たのである。  さいわいに、高野山を越える頃《ころ》から晴れた日がつづいていたが、降りつもった雪が凍《い》てついた杣道は、いくども伊織の足を奪って、転倒させていた。  膝《ひざ》がしらや手くびに、擦り傷ができて、疼《うず》いている。寒気は、骨までしみ通るほどきびしい。  しかし、伊織の血汐《ちしお》は、山峡《やまかい》を下るにつれて、闘志に燃えて来ていた。  伊織の脳裡《のうり》には、師匠武蔵の初試合のことが、あった。  武蔵の初試合は、十三歳であった。対手《あいて》は、京畿《けいき》一円でその武名を売っている有馬喜兵衛《ありまきへえ》であった。有馬喜兵衛は、徳川家康《とくがわいえやす》の師範役としてきこえている有馬|豊前守時貞《ぶぜんのかみときさだ》の一族で、三十数度試合をして不敗を誇っていた芸者《げいしや》であった。  十三歳の武蔵は、その一流兵法者に挑戦《ちようせん》して、見事に、その顔を真二つに斬《き》ったのである。  伊織は、武蔵の故郷を訪れた際、その姉の於幸から、凄《すさま》じかった初試合のことを、きかされたのであった。  今年——。  伊織は、十三歳になった。  ——おいらもやる! 敵は、宍戸梅軒だ!  天下にその名をひろめるためには、師にまさるとも劣らぬ試合をしなければならなかった。  有馬喜兵衛がどれだけの使い手であったか知らぬが、宍戸梅軒は、おそらく、有馬喜兵衛以上の手練者《てだれ》である。  梅軒は、伊賀谷《いがだに》に於《お》いて、武蔵と一騎討ちして、圧倒し、もし、柳生宗矩の仲裁がなければ、その鎌《かま》で武蔵の首を、かき斬った、とうそぶいているそうである。  梅軒の強さは、伊丹城址《いたみじようし》で、二十数匹の山犬を一匹残らず斬りすてたことでも、はっきりと、伊織には、わかっていた。  その梅軒を、十三歳の自分が討ちとれば、兵法者として、師以上の道を進むことができるのだ。  伊織の血汐が燃えたっているのは、当然であった。  杣道は、やがて、平坦《へいたん》になり、田畑がひらけ、十数戸の聚落《しゆうらく》が、伊織の目の前にあった。 「ここか!」  伊織は、数百年もそれ以上経た老杉《ろうさん》にかこまれた古刹《こさつ》の前に来て、石段をのぼり、山門をくぐった。  庫裡《くり》の玄関に立って、 「たのもう」  と、声をかけた。  出て来た納所《なつしよ》は、対手が乞食《こじき》同然の身装《みなり》をした少年なので、 「当寺は、高野山の修行僧以外は、泊めぬならわしになって居《お》るが——」  と、云《い》った。 「誰が泊めてくれ、とたのんだ!」  伊織は、納所を睨《にら》みつけて、 「ここが、竜神村かどうか、たずねに来ただけじゃ」 「竜神は、ここから三里ばかり下ったところだ」  伊織は、礼も云わずに、踵《きびす》をまわした。     二  偶然であった。 「伊織ではないか」  呼ばれて、視線を向けると、本堂の廻廊《かいろう》上に、沢庵《たくあん》が佇《たたず》んでいた。  伊織は、妻六とともに、宇治の「昌山庵《しようざんあん》」へ、夕姫をともない、そして、夕姫が奈良の尼寺へおもむくにあたり、その供をするために、二度訪問して、沢庵とは顔見知りになっていた。 「あ——和尚《おしよう》さん。お前様は、こんなおんぼろ寺の住職になられたのかい?」 「いや、なに——清姫の怨霊《おんりよう》をしずめる安珍の役どころで、御坊の道成寺《どうじようじ》で、梵鐘《ぼんしよう》づくりをしたついでに、高野山へおもむこうとしている途中だ。……珍しいところで、出逢《でお》うたものだ。お前も、坊主《ぼうず》になりたくて、高野山へ行こうとしているのなら、一緒に参ろうかな?」 「和尚さん、おいら、夕姫様の敵討《かたきうち》に行くんだぜ」 「敵討?」  沢庵は、眉宇《びう》をひそめた。 「そうさ。敵討だ! おいらの初試合でもあるんだ」 「夕姫の敵、というと、伊賀の忍者の宍戸梅軒《ししどばいけん》のことか?」 「そうだよ。あん畜生、竜神温泉で、山犬に噛《か》まれた傷の手当をしてやがるんだ。おいらが、討ちとってやるんだ!」 「正気か、伊織?」 「正気とはなんでえ、正気とは! 正気も正気、大正気だぜ、おいら——。おいらの先生の宮本武蔵は、十三歳で、有馬喜兵衛に勝ったんだ。おいらも、今年十三になったんだ。兵法者として、天下に名を売る時が来たんだぜ。やるぞ、おいらは!」 「伊織!」  沢庵の顔が、一瞬、きびしいものになった。 「な、なんでえ?」 「宍戸梅軒は、血に狂った餓狼《がろう》ときいて居る。お前が正気であればあるだけ、勝つのぞみは、ないぞ」 「ある! おいら、絶対に、勝つ!」  伊織は、絶叫した。 「どうやって勝つ?」 「おいら、三日前まで、柳生《やぎゆう》の里にいたんだ。柳生|石舟斎《せきしゆうさい》先生の館《やかた》にいたんだ。お館を眺《なが》めているうちに、おいら、身をすてて勝つ覚悟ができたんだい!」 「石舟斎|翁《おう》は、お前に、勝負の一手でも教えてくれたかな?」 「いいや、教えては下さらなんだ。したれど、おいら、あの大往生の姿が、目のうちにのこっているんだ」  伊織が、館を辞去する挨拶《あいさつ》に行った時、すでに石舟斎の魂魄《こんぱく》は、この世から去っていたが、亡き人であることを気づかなかったくらい、その大往生ぶりは見事であった。  静重から、そうきかされて、  ——そうだったのか!  と、胸にひびいた感動は、伊織にとって、口には云い現せない、深く大きなものであった。 「石舟斎翁の往生ぶりを見せられて、剣の悟りをひらいたとでもいうのかな、その若年で——」  沢庵は、ゆっくりと、階段を降りて来ると、 「伊織、どれだけの会得《えとく》をしたか、ひとつ、ためしてくれよう」  と、云った。 「和尚さん、兵法を知っているのかい?」 「坊主が、木太刀など持ったことがあろうはずがない」 「それで、どうして、おいらの剣を、ためすことができるのじゃ?」 「できるのう」  沢庵は、微笑して、 「伊織、まず、身につけているものを、ぜんぶ、脱ぎすてよ。わしも、脱ぐ」 「どうして、そんなことをするんだい?」 「なんでもよい。わしの云う通りにするがよい。お互いに、生まれたままの姿になって、立ち合うのだ」 「よ、よし!」  伊織は、布子も下帯も、地べたへすてた。沢庵も、袈裟《けさ》と白衣を脱いだ。沢庵は、下帯などしていなかった。 「さあ、よいな、伊織。……わしの股間《こかん》へ、目を据《す》えよ。まばたきするな。みじんも、そらしては相成らぬぞ」  沢庵は、云った。 「…………」  伊織は、大きく目をみはった。  流浪《るろう》の孤児である伊織は、これまで、幾度《いくたび》か、大人の男根を見て来ている。しかし、これほど巨《おお》きな|しろもの《ヽヽヽヽ》には、接したことがなかった。 「刀を抜いて、この陽物を狙《ねら》え!」 「………?」 「心気をこめて、狙うのだぞ。狙いつつ、ゆっくりと、十かぞえるがよい。……かぞえおわったら、まっしぐらに、この陽物を突け。わかったな?」 「はい!」  もし見物する者がいたならば、唖然《あぜん》とさせられる光景であった。  前代未聞《ぜんだいみもん》の立合いであった。  現代の温度でいえば、零下四、五度であったろう。無風下の寒気なので、針で突いても亀裂《きれつ》の入りそうなきびしさであった。  しかし、対峙《たいじ》する僧と少年は、一糸まとわぬ全裸にもかかわらず、ともに真空の中に立ったごとく、皮膚にその寒気を刺されてはいなかった。 「……ひとうつ、ふたあつ、三つ……」  伊織は、口のうちで、かぞえ乍《なが》ら、必死に、沢庵の股間を、睨みつけた。 「……七つ、八つ」  そこまでかぞえた時であった。沢庵は、どうしたわけか、目蓋《まぶた》を閉じると、すうっと顔を仰向けた。     三  伊織は、激しい侮辱をおぼえた。  ——畜生っ!  伊織は、ぶるっと身ぶるいすると、  ——本当に、突き刺してくれるぞ!  と、胸で叫ぶと、声をあげて、 「九つ!」  と、かぞえた。  と——。  そのとたん、沢庵の股間から、その巨きな男根が——文字通り太い樹根のように、ふくれ、延びて、すうっと起《た》った。  伊織は、この|しろもの《ヽヽヽヽ》が、このような異常な変化を示すことを知らなかった。  思わず、あっけにとられて、「十」とかぞえるのを忘れた。  瞬間、 「喝《か》っ!」  凄じい懸声が、沢庵の口からほとばしった。  伊織の全身が、じいんとしびれた。  はっと、気づいた時には、沢庵の股間から、一物はダラリと元に還《かえ》っていた。 「伊織——」  沢庵は、笑い乍ら、 「どうだな、判《わか》ったかな?」 「はあ……?」  伊織は、まぶしげな当惑の面持《おももち》で、沢庵を視《み》かえした。 「お前の股《また》の間にあるその小さな|ちんぽこ《ヽヽヽヽ》は、こういうぐあいに、大きくなったり、堅くなったり、起ったりしたことはあるまい」 「…………」 「あと二年もすれば、お前も、こうなる。すなわち、男一人前になった証拠だ」 「…………」 「お前は、まだ、男女の契《ちぎ》りについての知識はあるまい」 「…………」 「よいかな、伊織。男女の契りとは、わしがいまお前に見せたように、この陽物を、大きくし堅くし起たせて、女子《おなご》の股間にある陰所に、さし入れる行為だ。女子の陰所は、変化した陽物を、根もとまで容《い》れるほど深い」 「…………」  伊織は、ごくりと生唾《なまつば》をのみ込んだ。 「この営みが、男女の本能だ。殊《こと》に、男子は、この本能を抑えるのは、容易ではない。……左様、お前は、幼い頃から放浪しているゆえ、あるいは、荒くれの無頼の徒が、女子を犯す現場を、目撃して居るかも知れぬ。……伊織、野伏《のぶせり》山賊のやからだけが、この本能が激しいとは限らぬ。この沢庵も、野伏山賊と全く同じ本能を、所有して居る。本能があるからこそ、こうして、大きくし、堅くし、起つことができるところを、お前に見せたのだ。わしが、目蓋を閉じて、顔を仰向けたのは、わしの知って居る若い美しい女子の柔肌《やわはだ》を抱く場面を想像したからにほかならぬ」 「…………」 「仏門に帰依《きえ》しているわしも、女子を犯す凶暴な本能を持って居る。ただ、抑えているにすぎぬ。……ことわっておく。わしは、この男根を、まだ一度も、女子の陰所にさし入れては居らぬ。何年か前までは、物狂おしいほどの欲情で、幾年も、夜となく昼となく、のたうったものであった。わしは、しかし、ついに、抑え得た。いや、いまも、抑えつづけて居る。この苦痛が、どれほどの堪えがたい拷問《ごうもん》か、お前には、まだ判るまい。この拷問が判った時、お前は、一人前の男子になり、その欲情を抑えることによって、兵法者の道を歩くことができる。……伊織、まだ、そんなちっぽけな|ちんぽこ《ヽヽヽヽ》を所有して、欲情を抑える苦痛も知らぬわっぱの身で、宍戸梅軒を討ちとることなど、とうてい思いも及ばぬ」 「…………」 「湯づけでもふるまってくれよう。庫裡《くり》に参るがよい」  沢庵は、伊織を、座敷にみちびいた。  斎《とき》の膳部《ぜんぶ》が、前に置かれたが、伊織は、俯《うつむ》いて、箸《はし》を把《と》ろうとはしなかった。 「伊織、空腹であろう、喰《た》べるがよい」 「和尚さん——」  伊織は、あと退《ずさ》って、両手をつかえた。 「和尚さんのお教えが、|きも《ヽヽ》に銘じました。おいらは、これから一人前になるまで、修業にはげみます」 「判ってくれたようだな。……お前は、いずれ、宮本武蔵以上の兵法者になるだろう」 「和尚さん、おいらは、半人前じゃった。……二十歳になったら、一人前の兵法者になります」 「よかろう。……ついでに、申しきかせておくが、宮本武蔵とは別個の兵法者になるがいい。お前は、お前流の兵法者になるのだ。決して、宮本武蔵のような人を斬るためだけの兵法者になってはならぬぞ」   毒酒     一 「うっ!」  首まで浸った者の顔が、しかめられた。躯幹《くかん》と四肢《しし》へ受けた無数の傷へ、湯がしみたのである。  湯屋といっても、山腹に重なった巨《おお》きな岩が、深い凹部《おうぶ》を為《な》して、人の手が加えられたものではなかった。岩と岩の隙間《すきま》から、小さな滝になって、湯が流れ落ち、凹部にあふれて、数丈下の渓流《けいりゆう》へ、そそいでいるのであった。  尤《もつと》も、頭上には、石を置いた板屋根が、四本柱でささえられて、ちらちらと舞う雪花を、さえぎっていた。  宍戸梅軒《ししどばいけん》は、この竜神《りゆうじん》温泉に来て、朝昼晩三回ずつ、この湯の中で、小半刻《こはんとき》をすごしていた。  傷口に湯がしみるとはいえ、五体はすでに元の力をとりもどしていた。  ——明日あたり、去ることにするか。  胸の裡《うち》で、呟《つぶや》き乍らも、この男にしては、珍しく、この湯治の日々の安穏な気分をすてがたくなっていた。  それというのも——。  すぐわきの、衣類を脱ぎすてている畳岩に、白布で顔をつつんだ小さな人影が、ひっそりと、うずくまって、梅軒のあがるのを待っているからであった。  奈良の法華寺《ほつけじ》から拉致《らち》して来た若い尼僧《にそう》であった。  十二歳の時に法華寺に入ったという、貌《かお》にも胸にも腰にも、まだ少女の稚《おさな》さをのこした生贄《いけにえ》は、梅軒に、はじめて、手放したくない感情を起させたようであった。  これまでは、梅軒は、どんな美しい女でも、一回だけ抱いて、すてて来たのである。  蓮華尼《れんげに》という十七歳のこの比丘尼《びくに》を、梅軒は、竜神温泉に拉致して来て、三日目に、犯していた。  仏門に帰依して、生涯《しようがい》を清浄なからだですごそうとした蓮華尼にとって、これは、生地獄の法難であったろう。  しかし、犯される時、蓮華尼は、いささかの抵抗もしなかった。  まがまがしい巨躯に掩《おお》いかぶさられた時、蓮華尼は、法華寺を建立《こんりゆう》された光明《こうみよう》皇后が、癩者の|うみ《ヽヽ》を吸った故事を思いつつ、必死に念仏をとなえていたに相違ない。  堅い大きな異物が、股間を破って、体内に押し入って来た瞬間も、蓮華尼は、歯をくいしばって、苦痛の呻《うめ》きをもらさなかった。泪《なみだ》さえも、流しはしなかった。  次の日から、蓮華尼の細い稚いからだは、昼となく夜となく、梅軒から、けものが挑《いど》むように弄《もてあそ》ばれた。  蓮華尼にとって、せめてもの救いであったのは、梅軒が、死体同様のからだを弄ぶことに、なんの焦躁《しようそう》もおぼえなかったことである。梅軒は、女体の微妙な反応など、もとめはしなかった。まことの愛撫《あいぶ》を知らぬ男であった。おのが本能のほとばしるままに、女体を弄んで、精気を放てば、それで、満足した。いや、情欲の営みは、おのれ自身の一方的なものときめてしまっているようであった。  忍者は、女子に心を奪われたり、情欲の営みに溺《おぼ》れてはならぬ、という厳しい戒律があった。その戒律を守ることに於《お》いては、梅軒は、たしかに、伊賀《いが》南谷の頭領にふさわしい非情の持主であった。  梅軒にとって、女は、本能処理の道具でしかなかった。  ということは、女体が官能のよろこびで、呻き、身もだえる経験を、梅軒がいまだ持っていないのを意味していた。 「ううっ、茹《ゆだ》ったぞ」  ぬっと、立った梅軒は、畳岩へ——蓮華尼の前に、毛むくじゃらの、傷だらけの巨躯を、さらした。  蓮華尼は、黙って、その裸身を拭《ふ》きはじめた。  梅軒が、そうするように躾《しつけ》たのである。 「おれに、さからったり、逃走しようとすれば、有無を云《い》わさず殺す」  法華寺から拉致した直後、梅軒は宣告していた。  蓮華尼は、その宣告にしたがって、一切さからわず、命じられるがままに動き、逃走のけはいもみせなかったが、それが、殺されるのをおそれているためではないことにまで、梅軒の図太い神経は働いてはいなかった。  ひたすら、法難に堪えることが、仏門に帰依した者の修行である、と蓮華尼が自身に云いきかせていることは、かえって、梅軒にとって、都合がよかった、ともいえる。  蓮華尼は、拉致された時から、今日まで、完全に唖になって居《お》り、それが唯一《ゆいいつ》の反抗といえばいえた。  もし、梅軒が、 「口をきけ!」  と、命じても、蓮華尼は、それだけは絶対にしないに相違なかった。おのが現身《うつしみ》をすてている者が、口をひらいて、言葉を発する道理がなかった。たとえ、擲《なぐ》られ蹴《け》られ、殺されようとも、蓮華尼は、口をひらかぬであろう。  口をきかせようとしたならば、はじめて、梅軒は、この若い比丘尼の意志の強さを思い知らされたに相違ない。  本能処理の道具でしかない女に、べつに口をきかせる必要もなかった梅軒である。  沈黙が唯一の反抗と気づかぬ梅軒のおろかさが、この一月間を平穏なものにしていた。     二  寐起《ねお》きの小屋は、「維盛《これもり》路」に沿うて、ただ一軒だけ、建っていた。岩風呂《いわぶろ》は、「維盛路」から、勾配《こうばい》の険しい坂を下ったところにあり、この季節には、まれに、樵夫《きこり》が湯治に来るだけであった。高野山往来の修行僧の姿も、絶えていた。  梅軒と蓮華尼が滞在するこの一月の間に、一人だけ樵夫が、湯治に来たが、梅軒の一喝《いつかつ》をくらって、逃げ去った。  二町ばかり降りたところに、伜《せがれ》二人を足軽に取られた老爺《ろうや》が、ひどい跛の娘と住んで居り、その娘が、小屋へ食物をはこんで来た。蓮華尼が、受け取りに行くこともあった。  老爺は、梅軒と蓮華尼のあまりに異常な組合せに、  ——かどわかされたのだ。  と、察しがついたが、それを蓮華尼にきこうとはしなかった。ただ、その眼眸《まなざし》や物腰に、ふかい同情を示した。 「酒がとどけられて居らんぞ」  小屋へ戻った梅軒は、険しい形相になった。  正午——湯からあがったいまの時刻、酒がとどけられているように、梅軒は、老爺に命じて居り、まだ一度も、違約されていなかった。 「取って来い」  梅軒は、蓮華尼に命じた。  蓮華尼は、雪花の舞う中を、路《みち》を降りて行った。  その小屋には、老爺も娘もいた。恰度《ちようど》、貧しい午餉《ひるげ》の膳にさしむかっている折であった。  蓮華尼は、かかえて来た空の酒瓶《さかびん》を、板敷きに置いた。  老爺は、うなずいてから、別の酒瓶を持って、蓮華尼のそばへ寄った。  とどけるのを、忘れていたわけではなかった。思案するところがあったのである。 「この酒には、毒が入って居るのじゃ。雪山の中から、毒草をさがすのに、今日まで、かかった。……並の人間なら、一|椀《わん》飲んだだけで、あの世へ行くのじゃが、あの男、只者《ただもの》ではなさそうじゃから、生命《いのち》を落すまいが、これだけの量を飲み干せば、五体がしびれて、五日や六日は、歩けまい。……倒れたら、逃げ出しなされ。あとは、わしらに、まかせるとよい」  蓮華尼が逃げ出したあとで、梅軒を殺す、という肚《はら》を、老爺は、きめた模様であった。 「………?」  大きく眸子《ひとみ》をみひらいた蓮華尼の白い顔に、不審の色がひろがっていた。  |あか《ヽヽ》の他人の老爺が、まかりまちがえば自分たち親子が殺されるのを覚悟の上で、救ってくれようとする——その親切に、とっさに、蓮華尼は、とまどったのである。今日まで、老爺とも娘とも、ほとんど会話を交したことのない蓮華尼であった。  ただ、遠くから、こちらの身をあわれと眺《なが》めていただけで、どうしてこんな救いの策をはからってくれるのか? 「わしは……」  老爺は、蓮華尼の表情を視《み》かえし乍《なが》ら、急に、声音を張ると、 「刀を腰にさしている者は、大名だろうと、牢人者《ろうにんもの》だろうと、毛虫よりも好かん!」  と、云った。 「…………」 「さむらいが居るから、戦さが起る。戦さが起るから、わしらのような、山奥でひっそりくらして居る者から、伜を奪い取ってゆく。……長男も次男も、むりやり足軽にされて、関ケ原の合戦で、殺されたのじゃ!」 「…………」 「わしらの伜どものような善良な臆病者《おくびようもの》は、戦場で殺され、そもじをさらって来たあんな狂い猪《じし》のような悪党めは、のうのうと、生きのびて居りくさる。わしは、あんな悪党を、生かしておきたくはない。……伜どもが殺された上は、あんな悪党にも、死んでもらわにゃならん! そもじをふびんに思うて、救うてあげたいためだけで、あいつを殺すのではないのじゃ」 「…………」 「さ、この毒酒を、あいつに飲ませてやりなされ。さすれば、そもじも身が自由になり、わしらも、伜どもを殺されたくやしさが、すこしは、うすらぐ」  老爺は、酒瓶を、蓮華尼へ、渡そうとした。  すると、蓮華尼は、一歩|退《さが》って、かぶりを振った。 「わたくしには、できませぬ」  意外な言葉を、口にした。 「なんじゃと——?」  こんどは、老爺の方が、怪訝《けげん》の面持《おももち》にならざるを得なかった。 「そもじ、逃げ出しとうはないのか?」 「逃げとうございます」 「ならば、この手段《てだて》しか外にはないのじゃぞよ」 「わたくしは、みほとけにつかえる身でございます。人を殺すことは、できませぬ」 「そもじは、逃げ出すだけじゃ。殺してやるのは、このわしの手で——」 「毒酒を飲ませるのは、わたくしですから、殺すのと同じでございます」 「ばかな!」  老爺は、激しい苛立《いらだ》ちの気色をみせた。 「そもじは、あいつが憎うないのか? 尼ならば、さらわれて、犯されて、下婢《はしため》のようにこき使われても、その男を憎めない、というのか? ……それとも、いつの間にやら、女子になってしもうて、あの悪党めに、抱かれることが、|よう《ヽヽ》なって居るというのか?」  云いつのる老爺に対して、蓮華尼は、顔を伏せて、 「わたくしは、生まれてはじめて、人を憎む心が自分にあることを知りました」 「知ったのなら、毒酒を飲ませるぐらい、なんでもなかろうに——」 「いえ、憎むことと、殺すことは、ちがいまする。わたくしには、できませぬ。人を殺すよりは、自分が死のうと思います。……わたくしは、憎しみに堪えて、道心を失わぬようにつとめるのも、修行のひとつであろうかと存じます」 「しかし、あの悪党には、懺悔《ざんげ》の気持など、塵《ちり》ほどもないのじゃぞ」 「けだものではありませぬゆえ、あの男といえども、お前様ぐらいの老齢になれば、懺悔心が生じましょう」 「それまで生きながらえさせておけば、あいつは、どれだけの人命を奪い、そもじのような生贄を何人つくるかのう」  老爺は、吐き出したが、蓮華尼の態度がかわらぬのを看《み》て取ると、毒酒の入った瓶と蓮華尼がかかえて来た空の瓶を持って、台所へ、ひっ込んだ。  老爺は、それきり姿をみせなかった。  娘の方が、一歩|毎《ごと》に大きく上半身を右へ傾け乍ら、蓮華尼が持参した瓶をかかえて来た。  蓮華尼は、それを受けとると、はじめて、娘へ、微笑をみせた。しかし、娘の表情は、かたくこわばっていた。     三  蓮華尼が、小屋の板戸を開けるのと、梅軒の呶声《どせい》がとぶのが同時だった。 「なにを手間取っていた、のろま尼めがっ!」  蓮華尼が、土間から上って来ると、梅軒は、酒瓶をひったくりざま、寒気で凍《い》てついたその顔へ、平手打ちをくらわした。  仰のけに倒れた蓮華尼へ、一瞥《いちべつ》もくれずに、梅軒は、木椀《きまり》へ、酒を、どくどくとつぐや、口へはこんだ。  しかし——。  ひと口飲むや、梅軒は、 「む!」  と、眉宇《びう》をひそめ、ぐるっと頭をまわして、起き上りかける蓮華尼へ、凄《すさま》じい眼光を射た。  いきなり、いったん飲んだ酒を、ぐうっと口腔《こうこう》内へもどすや、ばっと、蓮華尼の顔へ、噴きかけた。 「おのれ! おれに、しびれ酒をくらわせようと計ったな!」  流石《さすが》は、伊賀の南谷の頭領であった。舌がきたえてあった。 「うぬらの浅智慧《あさぢえ》で、この宍戸梅軒が殺せると思ったら、大まちがいだぞ。おれが、伊賀の上忍《じようにん》であることを忘れるな、この間抜け尼めが!」 「…………」  蓮華尼にとって、これは愕然《がくぜん》とさせられる出来事であった。老爺が、毒酒ではなく、ただの酒を渡してくれたものとばかり思っていたのである。  老爺は、やはり、毒酒を、この瓶に移しかえておいたのである。そういえば、瓶を手渡した娘の表情は、かたくこわばっていた。父親のやったことを、見ていたからである。  ——あれほど、できぬ、と云うたのに!  蓮華尼は、殺される恐怖をおぼえた。  たしかに、梅軒の眼光は、兇暴《きようぼう》な殺気をみなぎらせていた。「さからえば、有無を云わさず、殺す」と宣告していた梅軒である。  と——急に、梅軒は、ふふ……、とせせらわらった。 「うぬは、あの老いぼれに浅智慧をつけられたのだろう。うぬが一人だけで、思いついた計画ではあるまい。第一、この雪山から毒草を採ることのできるのは、あの老いぼれしか居らぬ。……もう一度、老いぼれの許《もと》へ行って来い。策略は水の泡《あわ》になった、と報《しら》せて来い。……毒草採りなどに精を出すよりは、もちっとましな酒を造れ、とおれが云って居る、とな——」 「…………」 「わかったか! わかったら、すぐに、行って、酒を取って来い」  自分を殺そうとした者に対して、梅軒は、思いがけなく、寛大な態度を示した。老爺と蓮華尼の首をかき斬《き》ることくらい、梅軒にとって、蠅《はえ》を打ち落すようなものであろう。  老爺を殺せば、食事と酒に不便をきたし、蓮華尼を殺せば、欲情の処理ができなくなる。ただ、それだけのことであった。  場合によっては、父親、兄弟とも、敵味方にわかれて、闘わなければならぬ宿命を背負うている忍者が、殺意を抱く者を、そばに置いて平然としているのは、べつに、意外なことではなかったのである。   妻六出現     一  蓮華尼が、その小屋へ入って行くと、跛の娘は、さっと様子を一変して、 「お父さん! 尼さんが……」  と、奥へ通じた。  杉戸を開けて、出て来た老爺は、蓮華尼に、 「わるう思わんで下され。わしは、どうしても、あの悪党が、のうのうと生きのびて居るのに、我慢がならんのじゃ。……さ、お前様は、はよう、維盛《これもり》路を降りて行かれるがよい。この竜神《りゆうじん》で起ったことは、悪夢として、忘れなされ」  と、云《い》って、土間へ降りようとした。その片手には、楮縄《こうぞなわ》がにぎられていた。毒酒をくらって倒れた梅軒の頸《くび》を締めて殺すつもりであったろう。  蓮華尼《れんげに》は、土間へ降りようとする老爺を、さえぎった。 「毒酒は、飲まれては、居りませぬ」 「なんぞ?」  老爺は、皺目蓋《しわまぶた》をひき剥《む》くように、瞠目《どうもく》した。 「飲んで居らんと?!」 「あの男は、伊賀《いが》の上忍です。ひと口飲んだだけで、すぐに、毒酒と気づきました」  そう告げられて、老爺は、手負うた野獣が放つような唸《うな》り声をあげた。 「ただのお酒を、いただきに参りました」  蓮華尼は、老爺の形相を見るに忍びず、顔を伏せて、云った。 「芯底《しんそこ》からの悪党とは、あいつのことじゃな。……毒酒を飲まされようとしたにもかかわらず、また、そもじに、酒を取りに寄越すとは!」 「わたくしたちの手で、討ち果せる男ではありませぬ」 「いずれは、そもじもわしらも、あいつに殺されることになるのじゃ。あいつが、ここを発《た》つ時にはの」 「…………」 「殺されるよりは、殺した方が、世のためにもなる。というて、そもじに、道心をすてさせることはできぬか」  老爺は、絶望の面持になっていた。  蓮華尼は、ただの酒を容《い》れた瓶《びん》を、渡されて、坂道へ出た。  雪花は、小やみなく、宙を舞い狂っていた。  一町ばかり登った地点で、不意に、蓮華尼の眼前に、立ちはだかった者があった。 「宍戸梅軒《ししどばいけん》に、法華寺《ほつけじ》からさらわれて来た尼僧どのは、そなたか?」 「………?」  黙って、視かえす蓮華尼に向って、対手《あいて》は、にやっとしてみせた。 「身共は、宍戸梅軒とは、幼い頃《ころ》から、同じ伊賀者として、育ち、前世からの因縁のように、敵として幾度《いくたび》も闘うて参った者でござる。妻六と申す」 「…………」 「法華寺には、関白|秀次《ひでつぐ》様のご息女夕姫君が、身を寄せてござろうがな。夕姫君が、尼となられたのも、あの宍戸梅軒に犯されたためでござるよ。……彼奴《きやつ》め、この世に在っては、害にこそなれ、益にはならぬ蛇蝎《だかつ》でござるわい」 「…………」 「そなたは、これより、身共が供して、逃げて、法華寺に戻られい。左様、梅軒は、必ず、韋駄天《いだてん》のごとく、追って参ろうず。そこが、こっちの思う壺《つぼ》でござる。……夕姫君やそなたに代って、梅軒を討ってくれる御仁が——宮本武蔵という天下一の兵法者が、御坊に近いところで、待ちかまえておいででござる。おのぞみならば、この試合、ごらんに入れ申そう」 「…………」 「さ——、お供いたす。逃げましょうて」  妻六が、うながすと、蓮華尼は、かぶりを振った。 「なんとしたぞ? 逃げるのは、いやとは?! これは、あきれた!」  蓮華尼は、老爺|父娘《おやこ》のことを、考えたのである。  ——自分が逃げれば、梅軒は、追って来るついでに、あの父娘を殺すに相違ない。 「のう、尼僧どの、逃げ出すのが、どうしていやなのじゃ? おそろしいのか?」 「いいえ」 「ならば、さっさと、身共の供で、逃げましょうて。足弱に相違なかろうから、途中で、走れなくなったら、背負うて進ぜる。これでも、伊賀の忍者のはしくれでござれば、綿入れを一枚はおったぐらいにしか、感じ申さぬ。——さあ、参ろう」 「わたくしは、逃げませぬ」 「やはり、梅軒がおそろしいのじゃな。……たしかに、彼奴は、人間と申すより、鬼に近い。しかし、その鬼よりも、もっと強いのが、宮本武蔵殿でござる。しかと、請け合い申す」 「それならば、その兵法者殿に、この竜神まで参られるように、おつたえのほど、お願い申します」  蓮華尼は、そう云いおいて、妻六のわきをすり抜けて、坂道を登って行った。 「はてな?」  妻六は、その後姿を、見送って、小首をかしげた。 「まさか、鬼めの女房になった、と自分に云いきかせてしもうたわけではあるまいが……?」     二  蓮華尼が、小屋へ戻って来てみると、梅軒の姿はなかった。  ——湯屋へつかりに行ったのだ。  蓮華尼は、自分に課せられたつとめをはたさなければならなかった。  勾配《こうばい》の険しい岩蔭《いわかげ》の径《みち》を降りて行ってみると、はたして、畳岩に、梅軒の衣類が脱ぎすててあった。  岩風呂《いわぶろ》に、首までつかっていた梅軒は、蓮華尼が、そこにそっとうずくまるのをみとめて、 「お前は、酒を受けとって、戻りがけに、音羽の妻六に、呼びとめられたな」  と、云った。  どこかの物蔭から、ちゃんと見とどけていたのである。 「妻六は、お前に、逃げようとすすめたであろう」 「…………」 「どうして、一緒に逃げなんだ? この梅軒が、それほど、おそろしかったか? それとも、妻六から、おれを殺す妙計をさずけられたか?」 「…………」 「おいっ! 返辞をしろ!」  梅軒は、はじめて、蓮華尼に、口をきくことを要求した。  当然——蓮華尼は、沈黙を守った。  じろりと、蓮華尼を睨《にら》んだ梅軒は、はじめて、この竜神温泉へ拉致《らち》して来て以来、この十七歳の比丘尼《びくに》が、一言も口をきいていないことに気づいた。完全な唖になって、押し通していたのである。 「おい、はだかになって、ここへ入って来い!」  梅軒は、命じた。  蓮華尼は、その命令にはさからわなかった。白衣と襦袢《じゆばん》と二布《こしまき》を、ゆっくりと脱ぎすてた蓮華尼は、肩をすぼめ、片手で胸を、片手で股間《こかん》をかくして、そうっと、岩風呂の端から、下肢《かし》を入れて来た。  肩も胸も腰も、臀部《でんぶ》も腿《もも》も、まだ少女の稚《おさな》さをのこしていて、肌理《きめ》も躯線も、ほっそりとして、いたいたしいほど繊細であった。  その哀《かな》しげな肢体が、梅軒の嗜虐《しぎやく》の性情をあおるのであった。  梅軒は、猿臂《えんぴ》をのばして、蓮華尼の手くびをつかんで、引き寄せた。  巨樹の根のように鍛えられた太い巨《おお》きな五指に、肩から胸、そして腹部へ、撫《な》でられ乍《なが》ら、蓮華尼は、じっと、身をかたくしている。  急に——。  梅軒は、荒々しく、蓮華尼を前へひき向けると、おのが膝《ひざ》へ、またがらせた。  蓮華尼は、目蓋を閉じた。 「妻六から、おれを殺すどんな妙計をさずけられた、云え!」 「…………」 「白状せぬと、陰部《ほと》へ差し入れ乍ら、頸を締めあげるぞ。それでもよいか?」  梅軒の陽物は、すでに、巨きく堅く膨れあがって、直立していた。  それを、柔襞《やわひだ》へあてがいつつ、臀部へまわした双手《もろて》で、押しあげるようにして、徐々に、その恥部を破った。  梅軒は、湯底の岩へ、どっかと腰をかけていた。 「云え! 白状せい」  梅軒は、その細頸へ、十指をあてがって、徐々に力をこめた。  その折——。 「梅軒!」  どこからともなく、鋭い声が、ひびいた。 「なに? ……妻六か?」 「もし、その哀れな女子《おなご》を、殺してみろ。毒矢が、おのれの心の臓を、貫くぞ!」 「ふん——」  梅軒は、嗤《わら》ったが、なにしろ、湯につかっている不利は、まぬがれなかった。 「待て! 妻六——尋常の勝負をしてくれる」 「あいにくだが、勝負の対手は、わしではない。おのれがのぞんでいた、宮本武蔵だ」 「おっ! 武蔵は、どこに居る?」 「明日にも、ここへ参る。その尼僧を、解き放ってやれ。法華寺へ帰してやるのだ。約束しろ。拒絶するなら、毒矢は、おのれの心の臓を、ぶち抜くぞ!」 「よし——」  梅軒は、蓮華尼を、突き放した。 「それでよし! おのれを斬《き》るのは、宮本武蔵だ。充分に覚悟しておけ」 「ふふ……、この梅軒が、武蔵に敗れると信じて居るようだが、笑止!」  梅軒は、ぬっと湯の中から、立ち上った。 「動くな、梅軒! 尼僧殿が、当地から立ち去るまで、湯につかって居れい」 「よかろう」  蓮華尼は、畳岩に上ると、大急ぎで、衣類をつけた。 「尼僧どの、そなたは、この下の食事はこびの父娘の身の上を案じて、逃げなかったのであろうが、案じることはない。すでに、小屋をすてさせて、身をかくさせた。……この上は、大急ぎで、維盛路を、つっ奔《ぱし》るのだ。……この妻六が、こやつを、湯の中で動かせぬようにしておく。……梅軒、そうだろう。あの老爺や跛の娘や、この尼僧を殺したところで、はじまるまい。……お主に残されているのは、宮本武蔵との試合だけだ」 「ふうん。考えたのう」 「さいわいに、高野山から降りて行く修行僧に出会うたので、大急ぎの使いをたのんだ。……明朝には、武蔵殿が、ここへ参る。それまで、体調をととのえて、待って居れ。この妻六も、必死だぞ。一命をすててかかっていることを忘れるな!」 「ふん。いつまで、湯につからせておくつもりだ?」 「まず、二刻《ふたとき》だのう。いい加減、茹《ゆだ》るだろうが、やむを得んな」  妻六といえども、梅軒と幾度も死闘をくりかえした強者《つわもの》であった。しかも、いまは、絶対の有利の立場にある。  梅軒としても、容易に動くことはできなかった。     三  武蔵は、御坊の道成寺《どうじようじ》近くの旅籠《はたご》にいた。  高野道で、柳生《やぎゆう》隠密《おんみつ》五人を、瞬間の裡《うち》に斬り仆《たお》した武蔵は、いったん、九度《くど》山北谷の真田幸村《さなだゆきむら》を、その館《やかた》にたずねようとしたが、急に考えを変えて、和歌山城下へ出て、海沿いに旅して、御坊へ至ったのである。  妻六には、云わなかったが、幸村を見張る柳生隠密衆の襲撃が、幸村を訪問したあとで、執拗《しつよう》に為《な》されることを思い、  ——無駄《むだ》だな。  と、さとったのである。  蔭の存在である隠密衆を、幾人斬ったところで、世間には、全くきこえぬ。  ——それよりも、江戸へ出て、柳生道場へ押し入って、但馬守宗矩《たじまのかみむねのり》に、挑戦《ちようせん》してくれよう。  思案が、飛躍したのである。  武蔵は、まだ一度も、出府していなかった。  江戸には、十指にあまる剣豪が、道場を構えている。これらの一流の強者に、片はしから挑戦してやろう、という気持は、以前から、心中にあった。  限りある身の力をためすことが、武蔵の生甲斐《いきがい》であり、敗北して死んでも、いささかの悔いもなかった。  まず——。  宍戸梅軒を、斬らねばならなかった。  次は、佐々木小次郎との試合である。  佐々木小次郎が、大坂城三の丸紅葉広場で、阿蘭陀《オランダ》剣士グスタフ・バリニヤニと決闘して、これに勝った噂《うわさ》は、細川家大坂屋敷に滞在した時に、武蔵の耳にも入って来た。  小次郎の勝利ぶりは、かなり誇張して、ひろがっているようであった。  対手の剣士は、阿蘭陀随一の使い手であった、という。  そういう噂をきくと、武蔵の血汐《ちしお》は、急に湧《わ》き立って来た。  ——佐々木小次郎は、余人の手には斬らせぬ。おれが、必ず仕止めてやる。あの物干竿《ものほしざお》の秘法を、どう破るか、これが、おれの二十代の課題である。……まず、その前に、出府して、但馬守宗矩の柳生流を破ってくれる。  決闘者としての闘志は、胸中に無限に湧き立って来るようであった。  さしずめ、目下の敵は、宍戸梅軒であった。  伊賀谷では、あきらかに、こちらが圧倒された。  しかし、こちらには、吉岡《よしおか》一門七十余人を対手にして、死にもの狂いの修羅場《しゆらば》をくりひろげた、おそらく一生一度の経験が、大きくおのが剣の冴《さ》えを増しているはずであった。  ——あの鎖鎌《くさりがま》を破れば、必ず、新しい目がひらけるに相違ない。  小女が、膳部《ぜんぶ》をはこんで来た。  ごく粗末な精進料理がならんでいた。 「お酒は、召し上りますか?」 「飲まぬ」  武蔵の返辞は、にべもなかった。  小女は、こんな無愛想な客は、はじめてであった。必要以外は、絶対に無駄口をきかぬのである。五体からただよい出ている雰囲気《ふんいき》が、なんとなく、無気味であった。  午《ひる》すぎに旅籠についたが、いくらすすめても、風呂に入らぬのも、奇妙であった。  ——兵法者らしいが、こんなに若いのに、なんと薄気味わるいんだろう。  小女は給仕をする気もしなかった。  夕餉《ゆうげ》をおわって、一刻半も経《た》たぬうちに、妻六が、帰って来た。  蓮華尼《れんげに》を、ともなっていた。途中、背負うて疾駆したに相違ない。普通の旅客ならば、一日を費す道程《みちのり》であった。 「高野山の修行僧に、使いをたのんでおきましたが、立寄りましたかな?」 「いや——」 「どうも、近頃《ちかごろ》の坊主《ぼうず》は、信用ならぬ。……竜神《りゆうじん》温泉で、梅軒が、待ち受けて居り申す。尤《もつと》も、この尼僧殿のあとを追って、いま頃は、坂道を、ふっ飛んで来て居るかも知れ申さぬが……」  武蔵は、冷たい視線を、蓮華尼に向けた。  ——こんな若い尼僧が、さんざ弄《もてあそ》ばれて、またもとの、単調な誦経《ずきよう》にあけくれる尼寺の日常にもどれるものであろうか?  ふっと、そんな疑念が、わいた。   水中策     一  払暁《ふつぎよう》——。  宍戸《ししど》梅軒は、鬱蒼《うつそう》たる密林の中の道を、歩いていた。  日高川に沿うたこの道は、その流れよりもはるか数丈もの上につけられていた。いわゆる紀州木という針葉樹は、この頃は、そのほとんどが、斧鉞《ふえつ》を入れられて居らず、他の土地ならば、千年杉と称《よ》ばれるであろう巨樹が、無数に道に添うているのであった。  道は、御坊に通じていた。地下《じげ》の人々は、これを「高野みち」といっていた。高野山から、竜神に至るまでは、「維盛《これもり》路」であるが、竜神から下る道は、高野山へ通じている、というので「高野みち」と呼ばれているのである。  空も川も、すべて、巨樹でさえぎられて、道は、薄闇《うすやみ》の中にあった。  時折、ちらとのぞく下方の日高川は、目のさめるような清冽《せいれつ》な青さをたたえて、この上もなく美しいが、もとより、梅軒は、一瞥《いちべつ》もくれぬ。  渓谷《けいこく》と山岳の間に、わずかの平地も持たぬ地形は、人家を置く余地を与えず、「高野みち」は、山腹をめぐって、無限に蜿々《えんえん》とつづくようであった。  梅軒が降りて行く足どりは、常人の小走りよりも速かった。  日高川の川幅がひろがるにつれて、ようやく、道は、その流れに近くなり、景色がひらけた。  紀州木が伐《き》り出されて、筏《いかだ》に組まれる地域になったのである。田畑もところどころに、ひらけて、密林を背負うた人家も、二つ三つ、見受けられた。  流れをはさんで、磧《かわら》もひろがった。拭《ふ》き込んだような滑らかな肌《はだ》の巨岩の蔭に、瀞《とろ》が美しい水面をたたえていた。  伐り出しに行く親子らしい樵夫《きこり》が、すれちがったが、梅軒の巨躯《きよく》と面貌《めんぼう》にみなぎる異常な険しい気色《けしき》に、おびえて、一瞬、立ちすくんだ。  梅軒が、これほどの凄《すさま》じい闘志を総身に沸きたたせて、道を往くのは、はじめてであった。それでなくてさえ、尋常一様の容姿ではない男であった。妻六に先手を打たれて、蓮華尼を奪われた屈辱と、妻六にそうさせた宮本武蔵に対する憎悪《ぞうお》は、梅軒をして、敵を殺して、その肉をくらわずばやまぬ羅刹《らせつ》と化さしめていた。  これは、誇張した表現ではない。梅軒は、これまで、幾度も、殺した敵の肉を焼いたり煮たりして、食っている経験を持っていた。  ——武蔵の腕を、食ってくれる!  梅軒は、おのれに云《い》いきかせていた。  武蔵が、竜神へやって来るのを、悠々《ゆうゆう》と待ち受ける余裕など、梅軒にはなかった。  ……道は、磧に沿うて、まっすぐに彼方《かなた》まで見渡せるようになった。神社があり、その左右に、聚落《しゆうらく》があった。  厳冬の早朝、人影はなかった。  聚落をすぎると、霜柱の立った田畑がひろがった。  磧と道のあいだに、巨岩が重なり合っているのは、そのむかし、大洪水《だいこうずい》で落下したものであろう。田畑の中にも、たくさんの岩が居据《いすわ》っている。  と——。  とぎすまされた神経が、鋭く反応した、というべく、梅軒の足が、ぴたっと停《とま》った。  視線は、巨岩のあわいから、磧へ、投げられた。  水際《みずぎわ》に、一個の人影があった。 「武蔵っ!」  呻《うめ》きざま、梅軒は、岩へ躍り上った。  意外であった。  梅軒は、武蔵が、蓮台野《れんだいの》に於《お》いて吉岡清十郎を撃ち斃《たお》した時のこと、阿弥陀《あみだ》ケ峰《みね》の豊国廟《とよくにびよう》に於いて清十郎の舎弟伝七郎を斬《き》り殺した時のこと、そして、一乗寺|下《さが》り松における吉岡一門との死闘のことも、くわしく、きき知っていた。  武蔵は、いつの場合も、必ず、対手《あいて》の意表を衝《つ》いて、不意の出現をしている。  蓮台野に於いては、前夜のうちにやって来て、雑木林の中ですごし、突如として、清十郎と門弟たちの背後に、歩み出ている。阿弥陀ケ峰に於いては、同じく、前日のうちに豊国廟へ登って来て、唐門の屋根に身をかくしていて、不意に、姿を現し、伝七郎を愕然《がくぜん》とさせている。  一乗寺下り松に於いては、吉岡一門の誰もが知らなかった地下道を通り抜けて来て、石塊《いしくれ》の蔭《かげ》から躍り出ざま、飛鳥の迅《はや》さで名目人である十一歳の少年の首を、一太刀で刎《は》ねている。  武蔵は、常に、戦術を考究して、勝つべくようにして、勝っている。  一人対一人の勝負を、斬り合い、または、果し合い、といい、国持ちの大名の領土争い、野戦または城攻めなどの勝負を、軍陣というが、いずれも、兵法であることに変りはない。武略、智略、計略を用いるのが当然である。  武蔵は、それを用いて、勝ち抜いて来ているのであった。     二  そのことを知る梅軒は、竜神温泉の小屋で待っていれば、必ず武蔵から不意を衝かれるであろうと思い、自ら進んで、「高野みち」を下って来たのである。梅軒は、妻六が去ったのち、湯屋から出ると、小屋にはもどらず、昨夜は、密林の岩穴の中ですごしていた。  ——武蔵に不意を衝かれてなるものか!  梅軒は、こちらから、突如として仕掛ける肚《はら》であった。  ところが……。  武蔵は、この美しい渓流の景色を愛《め》でるごとく、水際に立っているのであった。 「宮本武蔵っ!」  岩の上から、梅軒は、呶号《どごう》を送った。 「…………」  武蔵は、黙然として、梅軒へ視線を返して、佇立《ちよりつ》している。 「おのれとの試合の場所は、ここか?」 「左様——」 「おのれらしくもなく、この梅軒を待ち受けていたとは、解《げ》せぬ」  梅軒は、磧へ跳んで、一歩一歩、距離を縮めた。 「おのれは、これまで、いつも、敵の不意を衝いた。今日は、なんとしたことだ?」 「…………」 「そうか、伊賀谷《いがだに》に於ける立合いで、おのれは、おれの宍戸|八重垣流《やえがきりゆう》の強さを、|きも《ヽヽ》に銘じたな。……そこらあたりの岩の蔭に、助勢の妻六を伏せて居るのだな」 「それがしは、いまだ曾《かつ》て、試合に、助勢をたのんだことはない」  武蔵は、こたえた。 「では、昨夜、竜神の小屋を襲撃しようとして、この梅軒の姿が見当らないまま、ひきかえして、ここで、次の襲撃の手段《てだて》を思案していたか?」 「そのような徒労はせぬ。お主が下って来るであろうと思い、ここで、待っていた」 「宍戸八重垣流を破る手を編んだ、とでもいうのか?」 「闘ってみなければ、わからぬ」  武蔵は、こたえた。はたして、梅軒の鎖鎌《くさりがま》を破る思案が、成っているのかどうか。  曾て——。  伊賀谷に於ける決闘では、一度は、五分と五分の立場になったが、それは、武蔵が刀を鞘毎《さやごと》抜いて、それに分銅鎖を巻きつかせたところまでであった。  しかし、梅軒が、とっさに、ひきしぼった鎖をゆるめて、鉄球を鞘からはなすことを思いついた瞬間、武蔵の防禦策《ぼうぎよさく》は、愚かであることが明白となり、五分の立場は崩れることになった。  そして、梅軒が、もしそうしていたならば、あるいは、武蔵の頭蓋《ずがい》は鉄球で砕けたか、あるいは、鎌で頸《くび》をかき斬られていたに相違なかった。  武蔵にとって、幸いであったのは、その折、柳生《やぎゆう》宗矩《むねのり》の仲裁が入ったことであった。  宗矩のおかげで、武蔵は虎口《ここう》を遁《のが》れたわけである。  あの日の闘いを思い知りつつ、武蔵は、敢《あ》えて、広い磧上を、試合場にえらんで、梅軒を待ち受けていた。  ——吉岡の当主、舎弟、一門に勝ったことで、おのれ自身は不死身である、とうぬぼれたか。  梅軒は、そう受けとった。  距離を、七、八歩に迫らせた梅軒は、やおら、腰から鎌を納めた黒い二尺の棒を抜きとり、胴を二巻きにした分銅鎖を解いた。  棒から、刃渡り一尺の鎌を、はね出して、直立させた梅軒は、ゆっくりと鎖を振って、鉄球を旋回させ乍《なが》ら、 「武蔵、こんどは、この分銅鎖を鞘に巻きつかせる手法は、きかぬぞ!」  と、うそぶいた。  顔面には羅刹の酷薄な笑みが、刷《は》かれていた。 「同じ愚は、くりかえさぬ。……申すならば、お主に立ちむかった時、こちらは、自身も不測の防禦方法が、とっさに思いうかぶのではあるまいかと、いままで無心の状態にいた」  不敵な返辞を、武蔵は、した。 「ほざくものぞ! うぬぼれも、対手によりけりだぞ!」  梅軒は、分銅鎖の旋回を、速いものにして、その凄《すご》い唸《うな》りだけをのこして、分銅も鎖も宙に溶いた。  武蔵は、梅軒から、じりっじりっと距離を縮められ乍らも、なお、双手《もろて》を空けたなりであった。ただ、すこしずつ、水際を左方へ、移動した。 「武蔵! ふせぎのてだては、成ったか!」  あと二歩進めば、完全に、鉄球圏内に武蔵を容《い》れる距離まで迫って、梅軒は、にやりとした。  武蔵は、こたえぬ。     三 「ゆくぞっ!」  予告しざま、梅軒は、だっと踏み込むとともに、鉄球を、武蔵めがけて、飛ばした。  瞬間——。  武蔵は、飛沫《しぶき》をあげて、流れの中へ跳び退《すさ》った。自らの身を、すすんで、動きをにぶらせる最も不利な立場に置いたのである。  その時、梅軒は、武蔵がなぜそうしたか、疑うべきであったろう。  梅軒は、ただ、こちらの猛烈な襲撃に、武蔵がそうせざるを得なかったもの、と単純に解釈して、 「おうっ!」  吼《ほ》えつつ、第二撃の鉄球を襲わせた。  と同時に、武蔵は、脇差《わきざし》を抜いて、これに、その分銅鎖を、受けて、ぎりぎりと巻きつかせた。  脇差を直立させたので、鎖は、ぴいんと、宙に一直線にひきしぼられた。  長船祐定《おさふねすけさだ》は、まだ腰に納められたままであった。 「ふん!」  梅軒は、この一瞬、勝利はわがものと確信した。  伊賀谷に於ける決闘の時よりも、梅軒は、はるかに有利な立場を得たのである。  武蔵は、膝《ひざ》までつかる水中に在って、跳び躱《かわ》す速力を減殺されているのであった。  梅軒から看《み》れば、こちらが、渾身《こんしん》の力をこめて、鎖をひきしぼっておいて、一瞬、その鎖をゆるめるや、武蔵は、抜きつけの大刀をあびせて来る心算であろうが、それは、笑止というものであった。  梅軒には、その抜きつけの大刀の一閃《いつせん》を、鎌で受けとめる業《わざ》が、成っている。  次の刹那《せつな》、分銅鎖は、一旋回しざま、武蔵の首に、巻きつくであろう。たとえ、武蔵が小刀で払おうとしても、鎖の長さは、それを許さず、小刀もろとも、首を巻いて、鉄球は、顔面を砕くに相違なかった。  こうして、梅軒が、鎖をひきしぼっている限り、武蔵が大刀を抜きつけて来るのは、徒労であった。鎖は、九尺の長さだったからである。  武蔵としては、あくまで、小刀へ分銅鎖をからみつかせて、梅軒にひきしぼらせておいて、機をつかんで、大刀で斬り込む以外に、手段はないように、みえた。  ところが、梅軒の方には、ひきしぼるだけひきしぼっておいて、突如、鎖をゆるめて、分銅を小刀からはずすやいなや、間髪を入れず、鎌を撃ち込む業があるのだ。  そうなると、武蔵が大刀を抜くのは、当然、受け身の業となる。  鎌と大刀が、がっきと噛《か》みあった瞬間に、勝負は、決するであろう。 「武蔵! こんどこそ、勝負は、みえたぞ!」  梅軒は、叫んだ。  武蔵は、依然として、深い沈黙を守ったなりで、石像のごとく、水中に佇立していた。 「うむっ!」  梅軒は、ありあまる膂力《りよりよく》にものいわせて、鎖をひきしぼっておいて、ぱっと左手を突き出した。  鎖は、じゃんと音たてて、ゆるんだ。その反動で、分銅は、くるっとまわって、小刀からはなれた。  と見た時、梅軒は、磧《かわら》の小石を蹴《け》って、猛然と跳躍した。  武蔵が、目にもとまらず抜いた大刀に、鎌は、食らいついた。  同時に、梅軒は、左手につかんだ分銅鎖を、頭上にぶうんと旋回させて、武蔵の首めがけて、飛ばした。  一刹那——。  武蔵は、膝を折って、水中へ身を沈めた。  分銅鎖は、武蔵の首へ巻きつくかわりに、小刀を、空高くはじきとばした。  はじきとばしつつ、再びぶうんと旋回して、武蔵を襲おうとした。ほんの一秒足らずの、その隙間が、勝負を決した。  武蔵が、水中から、ばっと、突っ立ち、分銅鎖は、たしかに、渠《かれ》の肩を、ぐるぐるっと巻いた。  しかし、その時——。  梅軒の胸には、ふかぶかと、手槍《てやり》が突き刺さっていた。  武蔵が、流れの中へ飛び退いたのは、そこの水底へ、手槍をかくしていたからであった。その手槍には、片足をひっかける工夫が施してあったのである。  武蔵は、身を沈めて、分銅鎖に小刀をはじきとばさせておいて、突っ立ちざま、水中にかくした手槍を、足をはねあげて、梅軒の胸へ飛ばしたのである。 「う——むっ!」  梅軒は、悪鬼の形相になって、だだっとあと退った。  胸に一槍をくらったくらいでは、梅軒は、仆《たお》れはしなかった。  武蔵は、肩をひとゆすりして、巻きついた分銅鎖をはずすと、 「おれの勝だぞ、梅軒!」  その言葉を、あの世へ送る引導代りにして、長船祐定を、たかだかとふりかぶるや、ずうん、と斬り下げた。  梅軒は、脳天から、顔面を一直線に真二つにされて、噴水のように、血汐で、宙を彩《いろど》ると、|※[#「手へん+堂」]《どう》と、のけぞり仆れた。   市仏《いちぼとけ》     一  決闘者として六十年の生涯《しようがい》をつらぬいた者にも、無為な空白の期間がある。  日高川の磧で、宍戸梅軒《ししどばいけん》を討ち果した武蔵は、まっすぐに、江戸へ下った。  そして、江戸で、ただ一度の試合もせずに、三年余をすごした。  ——まず、柳生|但馬守《たじまのかみ》宗矩に、挑戦して、これに勝ち、ひきつづいて、高名の兵法道場を破ってくれる!  この野心が、封じられたのである。  すでに、江戸にも、室町兵法所|吉岡《よしおか》道場を、滅亡せしめた武蔵の剣名は、きこえていた。  しかし、武蔵自身が、考えていたよりも、江戸の一流兵法者たちの、武蔵に対する評価は、ひくかった。  吉岡|憲法《けんぽう》という兵法者は、すでに遠い過去の人物に追いやられ、「室町兵法所」は、足利《あしかが》将軍指南という虚名を保っただけの道場であり、憲法の嫡男《ちやくなん》清十郎も舎弟伝七郎も、当代の一流|芸者《げいしや》と、一度も試合したことのない者たちであった。  吉岡憲法は、たしかに強かったに相違ないであろうが、清十郎、伝七郎兄弟が、どれだけの才能を具備していたか、疑問である。  吉岡道場は、京都でこそ、直元《なおもと》、直光《なおみつ》、直賢《なおかた》と天稟《てんぴん》を備えた達人がつづいたおかげで、天下にきこえていたが、二十歳そこそこの無名の兵法者に、当主兄弟が、あえなく討たれたのは、すでに、虚名のみをのこしていた証左である。  宮本武蔵という若者が、あながち、無双の手練者《てだれ》であったわけではあるまい。  また——。  一乗寺|下《さが》り松に於《お》いて、わずか十一歳の少年を、名目人であるがゆえに、無慚《むざん》にも斬《き》り殺した行為は、兵法者の面目を示したことにはならぬ。  江戸に集っている一流の剣豪たちは、師もない我流の腕前を、江戸で示そうとする若者に対して、きわめて冷淡な態度をみせた。  武蔵は、柳生道場の門をたたいて、但馬守宗矩に、会見を申し入れたが、すげなく断られた。妻六を使者として、果し合いの書状を送ったが、|なし《ヽヽ》のつぶてであった。  他の道場からも、判で捺《お》したように、主《あるじ》が不在であるという口上で、門前ばらいをくらわされた。  武蔵は、江戸城大手門前の広場に、兵法試合所望の高札を立てたが、番士によって、すぐに抜きすてられてしまった。  京都に於いてこそ、三条大橋ぎわに立てた、吉岡清十郎に対する挑戦の高札は、評判を呼んだが、江戸にあっては、高札を立てることさえも拒否された。  江戸は、将軍家の権威を示そうとしている新興の府であった。兵法者たちは、将軍家にみとめられようとのぞんで、江戸へ集って来ているのであった。その数は、尠《すくな》くなかった。  武蔵も、その一人とみなされた。将軍家に、その業前がみとめられる機会など、容易に得るべくもなかった。  将軍家師範たる柳生但馬守宗矩は、自身はもとより、門下の面々にも、他流試合をせぬ掟《おきて》をつくっていた。  ——兵法者たる者は、他流試合をして、勝ち抜いてこそ、その面目があるのではないか!  武蔵は、憤懣《ふんまん》を抑えがたかったが、対手《あいて》にされぬ以上、その道場へ押し入るわけにはいかなかった。  曾《かつ》て——。  兵法者は、すべて、決闘者であった。挑戦されて、拒否した者はいなかった。  いまは、兵法者必ずしも決闘者ではなかった。  業前を買われて、将軍家はじめ諸侯に召抱えられるのを目的とするか、または、道場をひらいて門弟を数多く擁するか——いわば、兵法を職とする時代となっていた。  決闘のみを生甲斐《いきがい》とする武蔵のような一所不住の流浪人《るろうにん》は、あとを断とうとしていた。  出府したはじめの一年余は、武蔵は、細川家はじめ、縁故をたどって、大名や旗本の屋敷に、転々として、食客となった。  吉岡道場を滅亡せしめた実力を買って、 「当家に仕える気はないか」  と、すすめてくれる大名旗本もなくはなかったが、武蔵には、毛頭みじんも、そんな気持はなかった。  ——柳生宗矩との試合が、叶《かな》わなければ、せめて、一流の兵法者と決闘して、おのれの強さを、関東一円にひろめたいものだ。  その望みをすてきれずに、武蔵は、三年余を、江戸で、無為にすごしたのであった。     二  一年余の各家の食客ぐらしののち、武蔵が、仮寓《かぐう》としたのは、高縄手《たかなわて》(現在の高輪《たかなわ》)の高台にある大風屋敷であった。  大風とは、癩病の別名であった。  すなわち——。  徳川家の家人で、癩病に罹《かか》った者が、江戸城の近くに住むのを遠慮して、家族とはなれて、移って来て死を待つ、いまわしい隔離屋敷であった。  高い板塀《いたべい》でかこまれた千坪余の敷地内には、十棟あまり小さな家が、ちらばっていた。  しかし、天刑病者が、住んでいるのは、四棟だけで、あとは、空いていた。  武蔵は、その空家を仮寓としたのであった。  妻六は、武蔵からそこに住むと云《い》われて、 「なにも、かったい屋敷をえらばずとも、それがしが、手頃《てごろ》な家をさがして進ぜますが……」  と、反対した。  武蔵は、しかし、 「ここが静かでよい」  と、云って、腰を据《す》えたのであった。  たしかに、人の忌《い》みきらう業病《ごうびよう》患者が隔離された屋敷であってみれば、一日中ひっそりとして、その家族が訪れて来るのも、きわめてしのびやかであった。  小さいとはいえ、徳川家の家人の住居であるから、造りはちゃんとして居《お》り、座敷の襖《ふすま》など、水墨画が描かれてあり、居間にも台所にも、故人となった者が使った道具が、そっくりのこされてあって、入ったその日から使用できた。但《ただ》し、業病をおそれる常人にとっては、夜具にしても鍋釜《なべかま》にしても、手をふれることさえ薄気味わるいが、武蔵は、平気であった。  妻六は、夜具を、どこからか、はこんで来て、故人が残したものには、武蔵を寐《ね》かせなかった。食器類も、あらたなものに代えた。  それにしても、妻六は、武蔵の強靱《きようじん》な神経には、今更舌を巻き乍《なが》ら、解毒《げどく》の薬草を採って来て、これを煮た熱湯で、屋内のことごとくを拭《ふ》ききよめるのに、一月もついやしたことであった。  江戸は、まさしく、天下人の居城を中心として、日々にその眺《なが》めを変えている、あわただしい繁栄ぶりを示していた。  慶長八年、家康《いえやす》が征夷大将軍《せいいたいしようぐん》に任命されたのを期として、江戸城造りと町造りが、一日も休まずに、いまもなお、つづけられているのであった。  道という道が、石材や木材の運搬で、土埃《つちぼこり》をたてていたし、その道に面して、武家屋敷や町家が、つぎつぎと普請《ふしん》されていた。  江戸城は、すでに、五層の大天守閣を完成させていた。大坂城の倍の規模を持つ内郭、外郭の工事は、このさき幾年かかるか知れぬが、すでに、その巨大な構えをみせていた。大手門も偉容を誇っていたし、外濠《そとぼり》も八間の高さの土堤《どて》をめぐらしていた。  町造りの方も、家康が入府した頃、高くそびえていた神田《かんだ》山(現在の駿河台《するがだい》)は、あとかたもなく、掘り崩されて、その土で、南方の海四方三十余町の埋めたてがなされて、人家が建ちならんでいた。  慶長七年頃は、現在の日比谷公園附近まで、汐入《しおい》りの浜辺であった。京橋も新橋も、まだ海であった。  それが、二年を経ずして、埋めたてられ、長さ三十七間四尺五寸、広さ四間二尺五寸の日本橋が架けられて、そこを起点として、品川まで、東海道に入る道路が一直線に設けられていた。この新道を往《ゆ》き来する諸人の姿は、夜も絶えることがなかった。  高輪に大木戸が設けられ、明け六つ(午前六時)に開かれ、暮れ六つ(午後六時)に閉じられるようになったのは、ずうっと後年になってからのことであった。  大名の行列も、旅商人も、夜半といえども、江戸出入は自由であった。  夏など、月夜には、昼とかわらぬほど、人の往き来は、はげしかった。  それほど、天下人の居城とその城下町造りは、急がれていた。  六年の間に、八倍以上に人口のふくれあがった府内で、病み臥《ふ》す者以外、働かず動かずにいるのは、大風屋敷内に仮寓をもとめた武蔵だけ、といってもあながち誇張ではなかったろう。  将軍|秀忠《ひでただ》以下、児童までが、覇府《はふ》造りに専念していた、といえる。     三  大風屋敷に入ってからも、武蔵の明け暮れは、相変らず、四方に木屑《きくず》を散らす仏像造りであった。  菩提《ぼだい》心の皆無な決闘者のこの作業は、無心を保つためのひまつぶしであったとはいえ、つぎつぎと完成される仏像の貌《かお》は、しだいに、見事なものになっていた。双手の印相も、翻波《ほんぱ》式の衣の襞《ひだ》も、流麗になっていた。  有名な古刹《こさつ》を経巡《へめぐ》って、さまざまな如来《によらい》や菩薩《ぼさつ》の像を、眺めて、知識を得て、研究したわけではないので、武蔵が作る仏像は、釈迦《しやか》如来とも薬師如来とも弥勒《みろく》菩薩とも、区別のつかぬものであった。  おのれで、勝手に想像力の働くままに、貌や双手の表情をつくり、衣や瓔珞《ようらく》を彫ったのである。  我流の刀法が示す繊細な美しさは、武蔵の天賦《てんぷ》といえた。  妻六も、その美しさをみとめて、床の間に並べられた二十数体を、 「このまま、ここに据えておくのは、もったいのうござるゆえ、ひとつ、これを、市《いち》で売っては如何《いかが》でござろうか?」  と、云った。  武蔵は、反対しなかった。くらしの費用の工面は、妻六の才覚にまかせているのであるから、仏像を金にかえるのも、渠《かれ》の自由にさせることにした。  妻六は、早速に、三体ばかり包むと、背負って、出て行ったが、暮れがたには、にこにこして、戻って来た。 「のこらず、売れ申した。それも、かなりの代価でな」  もし、京畿《けいき》の市で、路傍にならべたとしても、やすやすとは売れなかったろう。  なにもかも、新しくつくりあげなければならぬ新興の首府であった。  如来とも菩薩とも観音《かんのん》とも区別のしがたい仏像でも、出来ばえがよければ、 「床の間に飾るのによい」  と、気前よく、云い値で買ってくれる木材成金や普請人足の親分などが、いくらでもいたのである。ぼろ儲《もう》けした者は、まず、立派な家を構える。当然、室内を装飾することになるが、それには、仏像など恰好《かつこう》の置物であった。べつに、信仰深いわけではなかった。  なんとなく、有難そうな顔容をしていれば、それでよかったのである。  武蔵は、妻六が、日本橋|袂《たもと》の市で、仏像を売った、ときかされたが、べつに、自身でおもむいてみようとはしなかった。  いつの間にか——。  床の間には、三体しかのこっていなかった。  日本橋袂の市は、五日|毎《ごと》に立ったが、二月も経《た》たぬうちに、妻六は、二十体以上を売ったのであった。  その日も——。  三体を背負って、妻六は、大風屋敷を出た。  日本橋の雑沓《ざつとう》は、あらゆる職種の人間の波であった。江戸の名所といえば、江戸城の大天守閣と日本橋と、まだこのふたつしかなかったのである。  はじめて出府して来た者は、大名も牢人者《ろうにんもの》も商人も職人も、必ずまず最初に、日本橋を渡ってみるのであった。  さまざまの商い船が、入って来ていて、荷揚げは、朝から夕方まで、絶えることはなかったし、むこう河岸《がし》は魚の市が毎日立てられていた。そして、これらの河岸の広場は、五日市が立ち、刀剣具足、衣類、履物、陶磁器、鍋・釜・鉄瓶《てつびん》などの鋳物《いもの》類、椀《わん》や皿鉢《さらばち》、唐櫃《からびつ》、長持、掛物、琵琶《びわ》、琴、将棋、雛《ひな》人形、はては、南蛮渡りの骨牌《カルタ》まで、ありとあらゆる品が、路面にならべられて、売り声がかまびすしかった。  貧窮した公卿《くげ》や豪族の家から出た品や、盗品などが多く交っているので、掘り出し物もかなりあった。  妻六は、どこから手に入れたか、金ぴかの厨子《ずし》に、仏像を安置して、売っていた。  値段も、思いきり高くしていた。高値であればあるだけ、有難いものと受けとる無知な成金の足もとにつけ込んだわけである。  一人の雲水が、前に立った。  旅塵《りよじん》によごれた托鉢僧《たくはつそう》など、客にならぬので、妻六は、仰いで見ようともしなかった。  ——邪魔だな。  妻六は、いつまでも雲水が前をふさいでいるので、少々|苛々《いらいら》した。  と——、雲水が、云った。 「発心せざる者も、彫りつづけているうちに、慈悲の温容がつくれるとは、奇妙!」 「え?」  妻六は、その声音をききとがめて、ふり仰いだ。  |まんじゅう《ヽヽヽヽヽ》笠《がさ》の下には、沢庵《たくあん》の顔があった。 「これは、和尚《おしよう》殿! 出府なされましたか」 「盗賊|稼業《かぎよう》からは、足をあらったのかな、お主?」  沢庵は、笑った。 「しっ! お声が高うござる」 「武蔵と一緒とみえるが……武蔵は、この江戸では、まだ、大きな試合をして居らぬようだな」 「左様でござる。柳生《やぎゆう》道場はじめ、どの道場も、大層尊大ぶって、一向に、武蔵殿の申入れを、受けてくれぬのでござる」 「そこで、仏像ばかりつくって、お主が、売って、くらしのたつきにして居るという次第か。わびしいことよ」 「それがしは、この江戸は、好き申さぬ。いたずらにさわがしゅうて、町人どもは、一にも金、二にも儲けと血眼《ちまなこ》になって居り、大名がたは、徳川幕府を公儀とあがめて、その卑屈な奉仕ぶりは、遠目にも、あさましゅうてなり申さぬ。……どだい、大道場を構えた兵法者が、他流試合をこばむとは、何事でござろうかや。武蔵殿が、どうして、いつまでも、こんなところに、腰を据えていなさるのか、合点が参りませぬわい」 「ひさしぶりに、武蔵に逢《あ》おうか」  沢庵は、云った。  妻六は、まだ仏像が二体、売れのこっていたが、沢庵を案内するために、ひきあげることにした。 「住居はどこだな?」 「高縄手の大風屋敷でござる」 「ほう! 癩病人の住む場所を、寓居にしているのか。武蔵らしい」  沢庵は、笑い声をたてた。   小野次郎右衛門     一 「ほほう、なるほど、ここは、たしかに静かだな」  妻六の案内で、大風屋敷の門をくぐった沢庵は、笠をあげて、見まわした。 「えらぶに、ことかいて、なにも、こんな場所にせずとも、と思うのでござるが……」 「武蔵のこういう頑固《がんこ》さ、図太さが、お主は好きで、いつまでも、くっついて居るのではないかな」 「それは、まア、そういうわけでござるが……」 「類を以《もつ》て類を計る、か。武蔵の気持も判《わか》らぬではない」  沢庵|宗彭《そうほう》自身、大徳寺派では群を抜いて俊才であり、すでに和泉堺《いずみさかい》の南宗寺をあずけられて居り乍ら、相変らず、諸方|流浪《るろう》の雲水ぐらしをつづけるのを、止《や》めていなかったのである。  武蔵の反骨精神を、沢庵は、買っていた。 「幾年ぶりかな」  沢庵は、武蔵が散らした木屑をはらいのけもせず、坐《すわ》ると、微笑した。 「もう三年も経つが、お主が、日高川の磧《かわら》で、宍戸梅軒《ししどばいけん》を討ち果した時、わしは、ちょうど、竜神《りゆうじん》よりすこしさかのぼったところにある古寺にいた。伊織《いおり》と一緒にな」 「そうでしたか。すこしも存じませんでした」 「伊織は、目下、伊賀上野に住む、世間に名を知られては居らぬが、飯綱《いづな》使いの松山《まつやま》主水《もんど》にまさるとも劣らぬ兵法者の許《もと》で、修業いたして居る。もはや六十を越えた老人だが、魔術とも思える迅業《はやわざ》を使う。伊織は、いずれ、その迅業を伝授されて、お主以上の兵法者になろうな」 「その御仁に、一度、それがしにも、お会わせ頂きとう存じます」 「お主は、会わぬ方がよかろう」 「何故です?」 「その老人は、いまだ、ただの一度も、試合をしたことがない。お主は、会えば、必ず立合いをのぞむだろう。老人は、決して、受けぬ。会っても、無駄《むだ》だ。……わしは、老人に、伊織を、宮本武蔵のような、人を斬《き》るためだけを生甲斐《いきがい》としている兵法者には、決してしてくれるな、とたのんでおいた」 「…………」 「それはそれとして、お主、出府して来て、どの道場主とも、試合をして居らぬそうだな?」 「江戸の兵法者は、おのが功利とならぬ試合はせぬ模様です」  武蔵は、吐きすてるように云《い》った。  沢庵は、ちょっと考えていたが、 「お主、小野道場を訪ねたかな? 小野次郎右衛門なら、立合いを避けはすまいが……」 「小野次郎右衛門殿も、旅に出た由《よし》、門弟のこたえでありました。他の道場主と同様、それがしとの試合を避ける口実と存じました」 「いや、小野次郎右衛門ならば、お主の挑戦《ちようせん》を避けはすまい。神子上典膳《みこがみてんぜん》といった頃《ころ》より、数知れず、真剣の勝負をして参って居る。……柳生|但馬守《たじまのかみ》とちがい、将軍家師範となってからも、薩摩《さつま》の島津家抱えの手練者《てだれ》はじめ、試合をした対手《あいて》は、二、三にとどまらぬ、ときいて居る」  沢庵の言葉をきくや、武蔵は、大きく双眸《そうぼう》をみひらいた。  武蔵は、今日まで、小野次郎右衛門|忠明《ただあき》の前身が、神子上典膳であることを、全く知らなかったのである。  神子上典膳には、武蔵は、吉岡清十郎を撃ち仆《たお》した直後、奈良の月ケ瀬街道上で、出会い、その剣の冴《さ》えを目撃している。  武蔵の縁戚《えんせき》である新免《しんめん》新九郎が、三人の牢人者とともに、典膳を要撃して、逆に斬られたのである。  典膳は、四人に襲われ乍ら、他の三人と比較にならぬ強さをそなえた新免新九郎だけを、斬っておいて、さっさと立ち去ったものであった。  その時、武蔵は、われを忘れて、典膳に試合を挑《いど》んだのであったが、冷やかな拒否をくらったことであった。  拒否の理由は、 「吉岡《よしおか》清十郎は、兵法者である誇りをすてて、隠居|遁世《とんせい》して、詩人として生きたい意嚮《いこう》を抱いていた。……すでに、兵法者たる面目をすてた者に、試合を挑んで、これに勝ったところで、なんの意義があるのか」  それであった。  武蔵は、理をふまえたその叱咤《しつた》に、棒立ちになり、遠ざかる典膳の後姿を、見送った光景を、まざまざと、昨日のことのように思い泛《うか》べた。  ——そうか。あの神子上典膳が、小野次郎右衛門忠明となったのか。     二  沢庵は、云った。 「小野次郎右衛門ほどの稀有《けう》の使い手も、この江戸へ出て来て、一年余は、道場をひらいても、門弟は集らず、高名の兵法者たちからは、対手にされなかったのじゃな」  沢庵は、その当時の轗軻《かんか》不遇ぶりを、じかに、次郎右衛門の口から、きかされていた。  十年余の諸国遍歴ののち、神子上典膳は、江戸へ出て、駿河台《するがだい》に小さな道場を構えたのを機に、改名したのである。  姓は、自分が勝った兄弟子小野善鬼を偲《しの》んで取り、名は、父次郎左衛門の左を右に変えて、「小野次郎右衛門忠明」としたのであった。  その小さな道場の門口には、   「天下一流一刀根元             小野次郎右衛門忠明」  という看板を、かかげ、姓名のわきには、「懇望之衆中者可被尋」と記した。  次郎右衛門に、道場を構える金子《きんす》を、貸与してくれたのは、小幡勘兵衛景憲《おばたかんべえかげのり》であった。  小幡景憲は、伊藤一刀斎景久《いとういつとうさいかげひさ》と旧知の間柄《あいだがら》であり、その弟子神子上典膳の業前をみとめていたのである。  世は、徳川家のものとなり、家康に反抗する武将は、誰一人いなくなったとはいえ、なお、大坂城には、豊臣秀頼《とよとみひでより》が、莫大《ばくだい》な軍用金を天守閣の庫中にたくわえて、健在であった。一剣一槍をもって、功名を挙げる機会は、必ず到来すると確信して、諸方を横行している牢人者の数は、おびただしかった。  後世の傘貼《かさは》り楊枝《ようじ》削りの、尾羽打ち枯らした浪人者とは、その気概に於《お》いて、雲泥《うんでい》の差があった。また、武名を持った牢人者は——たとえば、後藤又兵衛|基次《もとつぐ》のごとき——、どこへ行っても、食客として厚遇されたし、その気になれば、すぐ禄《ろく》を得ることができたのである。  尤《もつと》も——。  そういう時世だからこそ、千軍万馬の間を生き残って、功名手柄を誇る武辺は別として、戦場にあらざる場所で、剣や槍《やり》の名を天下に売るのは、容易ではなかった。刀創槍傷を自慢にする面々が蝟集《いしゆう》している江戸に於いては、猶更《なおさら》のことであった。  小野次郎右衛門忠明と改名した典膳が、その剣名を売るためには、それくらいの傍若無人の看板をかかげざるを得なかった。  甲州流軍学の祖述者として、徳川家にかなりの地位を与えられている小幡景憲を、後楯《うしろだて》とし乍《なが》らも、なお、門前は雀羅《じやくら》を張る月日が長くつづいた。  やがて——。  次郎右衛門に、その剣名を売る好機が与えられた。与えたのは、小幡景憲であった。  某日、馬蹄《ばてい》の音高く、駿河台の小野道場へ乗りつけて来た景憲は、馬から降りようともせず、次郎右衛門を呼んだ。  道場の窓から、次郎右衛門が顔をのぞけると、景憲は、「お主の業前を必要とする。これからすぐに、わしと同道してもらいたい」  と、せかした。  次郎右衛門は、甕割《かめわ》り刀をひっさげると、景憲の曳《ひ》き馬に、うちまたがった。  景憲は、馬首をならべて、駆け乍ら、 「府下膝折村に、鬼眼という中条流の達人が居る。これを、お主に、斬ってもらわねばならぬ」  と、云った。  近頃、府下の村里を荒しまわって、斬取り強盗を働く曲者《くせもの》がいて、容易に、正体がつかめなかったが、ほんの些細《ささい》な争いで、膝折村に寓居《ぐうきよ》をかまえた鬼眼という修験者が、一人の百姓を手討ちにしたことから、下手人がこの男であると判明した。  膝折村の庄屋《しようや》が、この旨《むね》を、検断所へ訴え出たので、かなりの頭数の捕方が、召捕りに向ったところ、またたく間に、三人が斬られた。  斬った鬼眼は、庄屋の屋敷にたてこもり、その妻女と幼い子二人を、人質にした。  尋常の手段では、召捕ることが叶《かな》わず、捕方は、庄屋の屋敷を、遠くから包囲しているばかりであった。 「罪科はきまって居るゆえ、お主の働きをのぞみたいのだ。……鬼眼を討ち取れば、道場もはやり、徳川家に禄を得る足がかりと相成ろう」  景憲は、役人たちの目の前で、次郎右衛門に、その強さを発揮させたかったのである。  次郎右衛門は、しかし、べつだん、気負う気色もなく、膝折村に至った。  庄屋の屋敷は、武蔵《むさし》七党《しちとう》の末裔《まつえい》と称するだけあって、膝折坂という坂路の上に、なかなかの構えをみせていた。  次郎右衛門は、坂下で馬を降りると、捕方たちに見送られて、すたすたと、膝折坂をのぼって行った。     三  冠木門《かぶきもん》から玄関までの距離も、かなりの長さであった。  次郎右衛門が、六、七歩進み入ると、一矢が飛来した。  次郎右衛門は、身を沈めて、それを頭上に掠《かす》めさせた。 「そこから、一歩でも進むと、生命《いのち》はないと思え!」  呶号《どごう》が、玄関の衝立《ついたて》の奥から、ひびいた。  檜《ひのき》の一枚板の衝立に、孔《あな》を開けて、そこから、鬼眼は、矢を射放って来たのである。  次郎右衛門は、いったん立ち停《どま》って、 「それがしは、小野次郎右衛門忠明と申す兵法者。御辺《ごへん》の業前と競いたく参上いたした。表へ立ち出て、尋常の試合をされたい」  と、云った。 「黙れ! おのれは、この鬼眼を屋外へおびき出すために、役人からやとわれた男だろう。小ずるい策には、乗らぬぞ!」 「もし、御辺が、出て参るのを拒否いたすのであれば、やむを得ぬ。当方より踏み込み申す」 「来てみろ! こんどこそ、その咽喉《のど》を射抜いてくれる!」 「この距離では、まず、御辺は、あと一矢しか放つことが叶わぬ。三矢目をつがえた時、御辺の一命は相果てて居る」 「ほざいたな! 来い!」  矢というものは、距離が遠ければ、一流兵法者ならば、これをはずすのは、さして難事ではない。しかし、二間以内になると、とうてい躱《かわ》すことは不可能である。  次郎右衛門の立つ地点と玄関の衝立の距離は、十五、六歩であった。  すでに、鬼眼は、問答の間に、第二矢をつがえているに相違ないが、次郎右衛門としては、さしておそれるに足りなかった。  ただ、鬼眼が、こちらを二間以内にひきつけて、射かけて来るのを、次郎右衛門はおそれたのである。そこで、わざと、そう云って、ひとつの心理作戦をこころみたのであった。  次郎右衛門が、すっと足を踏み出すや、第二矢が、衝立の孔から噴いて出て、唸《うな》りをあげた。  次郎右衛門は、それを、第一矢と同様に、頭上へ掠め過ぎさせておいて、五体をけものの敏捷《びんしよう》さで、玄関へ奔《はし》り込ませた。  鬼眼は、第三矢を放ついとまはなかった。 「おっ——くそっ!」  衝立を蹴倒《けたお》しざま、七尺の巨躯《きよく》を出現させると、藤巻柄《ふじまきづか》の刃渡り三尺余の大太刀を抜きはなった。  次郎右衛門が、倒れた衝立に足をかけるのと、鬼眼が、懸声|凄《すさま》じく、斬りつけるのが同時であった。  次の瞬間——。  次郎右衛門の足がどう動いたか、衝立が、生きもののように、はね起きた。鬼眼は、次郎右衛門の代りに、その衝立を割りつけた。  刹那《せつな》——。  次郎右衛門は、腰から甕割り刀を鞘走《さやばし》らせて、矢を放った衝立の孔へ突き込んだ。  切先三寸が、鬼眼の鳩尾《みぞおち》を刺した。  鬼眼は、屈せず、後退すると、柱に凭《よ》って、次郎右衛門を、睨《にら》みつけた。  次郎右衛門は、平然として、肉薄した。 「ええいっ!」  鬼眼は、最後の力を、その一撃にこめた。  首を刎《は》ねようとした横薙《よこな》ぎであった。  次郎右衛門は、片膝《かたひざ》ついて、身を沈めざま、甕割り刀を、一閃《いつせん》させた。  鬼眼の双手《もろて》が、長剣をつかんだまま、両断され、腕からはなれると、廊下へ飛んだ。  双手を喪《うしな》った鬼眼は、苦痛と無念を喚《わめ》きたてつつ、ずるずると崩れ込んだ。  その時には、もう、小幡景憲はじめ、役人、捕方が、門内へ馳《は》せ入っていた。  次郎右衛門はやおら、景憲を視《み》かえって、 「いかがいたしますか? 首を刎ねますか?」  と、訊《たず》ねた。 「その姿を、高木へしばりあげて、家族を殺された者たちの目に、さらしてくれよう」  景憲は、冷酷な宣告をした。  この功によって、次郎右衛門は、景憲の推挙で、徳川|家康《いえやす》に目通り叶い、新規旗本にとり立てられたのであった。禄高三百石であった。  小野次郎右衛門ほどの稀有の兵法者でも、こうした機会がおとずれぬ限り、江戸で、剣名を売って、幕府に召抱えられることはむつかしかったのである。 「和尚《おしよう》——、小野次郎右衛門殿|宛《あて》の添状をしたためて下され。お願いいたす」  武蔵は、両手をつかえて、たのんだ。 「うむ。小野次郎右衛門ならば、お主と立ち合ってくれるかも知れぬ。が、この沢庵の予想では、まず、十中八までは、お主に勝目はあるまいな」 「あるかないか、試合をしてみなければ、判《わか》りますまい」  吉岡清十郎に勝った直後には、神子上典膳であった次郎右衛門から、きわめて冷やかな侮蔑《ぶべつ》の言葉をあびせられたものであった。  しかし、こんどは、武蔵には、返す言葉があった。  一乗寺|下《さが》り松に於いて、名目人佐野又一郎を斬ったのは、月ケ瀬街道上で、典膳が、四人の襲撃者のうち、新免新九郎一人だけを斬っておいて立ち去った——そのことを参考にしたためであった。  ——あの兵法者が対手《あいて》ならば、敗れても、悔いはない。  武蔵は、自分に云《い》いきかせていた。   江戸兵法     一  武蔵が、赤坂|溜池《ためいけ》の小野道場を、たずねたのは、それから三日後であった。  玄関で、取次の門弟に、沢庵《たくあん》の添状を渡すと、しばらくそこで待たされてから、道場へ通された。  さして広くない道場は、天井も張っていない、荒壁の、ごく粗末なつくりであった。  床の間には、『無』という一文字の朱拓の掛物があるだけで、具足とか太刀とか、そのようなものは飾られていなかった。  門弟の名札も見当らず、一方の荒壁に、十数本の木太刀が、かけられている簡素さであった。  同じ将軍家師範でも、柳生《やぎゆう》道場とは、構えも門弟の数も、比較にならず、武蔵が訪れたいくつかの町道場の方が、ずっと立派であった。  巳刻《みのこく》(午前十時)過ぎであるにもかかわらず、稽古《けいこ》をしている門弟の姿は、一人も見当らず、武者窓から縞《しま》を織ってさし込む陽《ひ》ざしが、あかるく、板敷きに落ちているばかりであった。  待つほどもなく、次郎右衛門が、姿を現した。  七年ぶりの再会であった。  次郎右衛門は、座に就くと、無表情で、 「御辺の面《つら》だましい、あの時と、すこしも変って居《お》らぬな」  と、云った。  きき様によっては、これは、侮辱の言葉であった。  二十一歳の時から、七年の歳月を経ても、全く同じ顔つきをしている、ということは、人間として、一向に成長していない、と蔑《さげす》まれている、と受けとれる。 「いまだ未熟者でありますれば——」  武蔵は、軽く頭を下げた。 「いや、御辺の剣は、あの時よりは、五倍も十倍にも、冴《さ》えたものになって居ろう。……ただ、御辺という兵法者は、老年になっても、その面だましいは、いささかも、変るまい」 「…………」 「御辺の持つ精気と業力《ごうりき》は、幾万いや幾十万人のうちの一人だけしか、天から与えられて居らぬもののように、見受ける。精気と業力は、熾烈《しれつ》であればあるだけ、兵法者としては、超人の業《わざ》が発揮できよう。……円熟とは、凡夫が、努力を積み、修練を重ねて、どうやら、その境に達するものかと、考えられる。御辺には、円熟の境地など、無縁であろう」 「…………」 「沢庵和尚の書状によれば、御辺は、この江戸に於《お》いて、一流の兵法者との試合をのぞんで、すでに三年余を無為にすごして居る由《よし》だが、……御辺の対手は、この江戸には居らぬ。この次郎右衛門が、将軍家師範となってみて、よく判った。剣が無敵であることを、誇りとさせぬのが、この江戸という府だ。政治の首府に於いては、無敵の剣など、むしろ、無用と申せる」 「…………」  武蔵は、次郎右衛門の言葉が、納得しがたいまま、対手の眼眸《まなざし》を受けとめていた。  次郎右衛門は、徳川家康が、剣法の理解者であり、自身も修練している、ときいて、仕官を希望し、その師範になるを得たのである。  兵法——殊《こと》に、剣術という武芸は、戦国中期になって、塚原卜伝《つかはらぼくでん》、上泉《かみいずみ》伊勢守《いせのかみ》信綱《のぶつな》ら天才の出現によって、発達したのであるが、戦国武将たちは、武田信玄《たけだしんげん》にしろ上杉謙信《うえすぎけんしん》にしろ、天下人となった織田信長《おだのぶなが》も豊臣秀吉《とよとみひでよし》も、一向に、それを高く買おうとはしなかったのである。  武将のうちで、剣術を重く視て、塚原卜伝に師事し、修業にはげみ、卜伝の秘伝「一の太刀」の奥旨《おうし》を会得《えとく》したのは、ただ一人、伊勢の多芸御所・北畠具教《きたばたけとものり》だけであった。具教は、伊勢、志摩、熊野《くまの》、南大和百六十万石の太守であった。その具教も、信長の権謀術数にかかって、最期《さいご》は、悲惨であった。 「大将が、刀槍《とうそう》の術を学ぶなど、笑止の沙汰《さた》」  信長は、高言していたし、秀吉も、一流の兵法者の業前など、観《み》ようともしなかった。  戦場に於ける闘いは、技でも芸でもなく、度胸と経験と膂力《りよりよく》である、という考えかたが、殆《ほとん》どの武士の心を占めていた。就中《なかんずく》、一軍を指揮する大将は、謀計と戦略に長《た》けていれば、勝利者となれたので、剣術とか槍術など、軽視していた。     二  しかし——。  北畠具教以後、兵法を重視したのは、徳川家康であった。剣は、奥山流の流祖|奥平《おくだいら》急賀斎《きゆうがさい》から七年間も学んでいた。奥平急賀斎は、三河|作手《つくて》の城主奥平|貞久《さだひさ》の四男に生まれ、孫二郎公重といい、剣の天稟《てんぴん》の所有者であった。若年から上泉信綱に学び、奥山明神に祈願をかけ、三年余の神前に於ける冥想《めいそう》の挙句、自得して、奥山流を創《はじ》めた兵法者であった。  家康は、この稀世《きせい》の兵法者に、木太刀で数限りなく撃たれて、幾度も気絶した、といわれている。さらに、家康は、上泉信綱の甥疋田豊後《おいひきたぶんご》からも学んだし、塚原卜伝の新当流を、有馬大膳からも学んでいる。  兵法の理解者であるその家康が、天下を取ったのであるから、その首府である江戸に、一流兵法者が、四方から集ったのは当然である。  小野次郎右衛門も、その一人で、ついに、好機を得て、将軍家師範になることができたのである。  小幡勘兵衛景憲《おばたかんべえかげのり》の推挙により、江戸城へ召された次郎右衛門は、その業前を、家康自身によって、試されたものであった。  家康は、縁側に立って、次郎右衛門に、白刃を構えさせて、長いあいだ、じっと、凝視していたが、突如として、手にした扇子を、発止《はつし》と、投げつけた。  次郎右衛門は、飛来した扇子を、刀の柄《つか》から右手をはなしざま、|しか《ヽヽ》と受けとめた。しかし、左手のみの青眼《せいがん》の構えは、みじんも崩さず、一分の隙《すき》もみせなかった。  もし、次郎右衛門が、扇子を白刃で両断していたならば、家康は、渠《かれ》を召抱えはしなかったに相違ない。  次郎右衛門が、家禄《かろく》三百石をもらって出仕するようになってから、家康が江戸城に在った期間は、きわめて短かった。  家康は、秀忠《ひでただ》に将軍職をゆずって、駿府《すんぷ》に退隠した。  その時を境として、次郎右衛門の将軍家師範としての立場は、かなり不利なものとなった。  二代将軍秀忠は、父家康の教えを遵奉《じゆんぽう》して、剣を学ぶことにも熱心であったが、もともと刀をふるう才能には乏しかった。  柳生|但馬守宗矩《たじまのかみむねのり》は、それを看抜《みぬ》いて、将軍家が、べつに兵法の達人になる必要はないので、もっぱら剣の心を説き、実技は適当にあしらって、撃ち据《す》えて、気絶させるようなことはしなかった。尤《もつと》も、用いたのは、撓竹《しない》であったので、手加減すれば、秀忠は、痛い思いもせずにすんだ。  次郎右衛門は、ちがっていた。用いるのは木太刀であり、対手が将軍家といえども、決して、容赦せずに、撃ち据え、しばしば、秀忠を、板の間に倒した。  秀忠は、対峙《たいじ》して、次郎右衛門の眼光を射込まれただけで、四肢《しし》がこわばり、怯《お》じ気づくようになっていた。  次郎右衛門は、剣は理屈ではなく、無からはじまって、無に還《かえ》る、と主張した伊藤一刀斎《いとういつとうさい》の弟子であった。  柳生宗矩が、将軍家に、剣の心を説いて、実技の方は適当にあしらうのを、次郎右衛門は、にがにがしく思っていた。  ある時——。  秀忠は、側近たちを対手に、剣術上の理《ことわり》と事《わざ》に就いて、自説を述べていた。秀忠は、理論をしゃべるのが好きな人物であった。  秀忠は、柳生宗矩からきかされた剣と禅との一如論《いちによろん》に、自分の考えをあたらしく加えたつもりで、かなり得意げであった。  すると、不意に、襖《ふすま》を開けて、次の間から次郎右衛門が現れて、 「申し上げます」  と、声をかけた。 「剣の道に於いて、理《ことわり》を以《もつ》て、事《わざ》に先立てるのは、如何《いかが》なものか、と存じます。わが師一刀斎もかねて申して居りましたが、臨機応変のことは、思量をもって転化するのではありませぬ。……上様は、只今《ただいま》、構えというものに就いて、しきりに、理を説かれておいであそばしましたが、構えを以て利せんと欲する者は、外、実にして、内は必ず虚であり、これを、構えに心をとらわれる、と申します。内外虚実の差別なきを、無形の構えと申し、敵に向う時は、勝負の是非を念《おも》わず、一心生死を放ち、命は天運にまかす——これこそが、千万剣一剣の秘密と存じます。……剣の道を、口舌で達者におなりあそばすのは、かたく自戒なさるべきかと存じます。とかく、兵法と申すものは、腰の一刀を抜いて、その危亡を顧《かえりみ》ず、その間《ま》に一手を容《い》れず、存分に使い、死地をくぐり抜けてこそ、語る資格があるものにて、座上の兵法など、畳の上の水練と同じこと、心いたさねばなりませぬ」  次郎右衛門は、はばかることなく、云いはなった。  これは、いまだ一度も真剣の勝負をせず、一人も人を斬《き》って居らぬ柳生宗矩に対する痛烈な皮肉でもあった。  秀忠は、みるみるうちに、不興のていになり、何も云わずに、ぷいと座を立って、奥へ入ってしまった。  それが、ちょうど、一年前のことであった。  爾来《じらい》、次郎右衛門は、秀忠に対して、一度も、稽古をつけていなかった。  徳川家に仕えてから、三年も経《た》たぬうちに、有名無実の将軍家師範の立場に追いやられてしまった次郎右衛門であった。  そのことは、武蔵に語ろうとはしなかったが、言外に、江戸という首府は、もはや、一流の兵法者が、その業前を充分に発揮するところではなく、後世にのこる試合など、不可能だ、と教えたのである。     三 「しかし乍《なが》ら、それがしは、せっかく、出府した上からは、生死を賭《か》けた試合をせずには、退去することは、できませぬ」  武蔵は、云った。  次郎右衛門が、立ち合ってくれることは、あきらめた。いわば、次郎右衛門は、目下、謹慎|蟄居《ちつきよ》同様の身であり、門弟さえも出入りするのを遠慮している模様であった。  武蔵は、しかし、次郎右衛門が、これは、と思う強い対手をえらんでくれるのを、のぞんだのである。  次郎右衛門は、かなり長い沈黙を置いてから、 「明後日——払暁《ふつぎよう》、日本橋に於いて、御辺の剣を披露《ひろう》するがよろしかろう」  と、云った。 「日本橋、でござるか?」  武蔵は、いささか唖然《あぜん》として、問いかえした。 「左様、御辺が、剣名を売るには、これ以上の場所はなかろう」  すでに、先に述べた通り、数年前に架けられた日本橋は、江戸の中心地点になっていた。  家康は、日本橋が完成すると同時に、ここを全国里程の基点と定めて、諸道に一里|塚《づか》を築かせている。  江戸に集中する重な街道は、五つあった。東海道、中仙道《なかせんどう》、日光街道、奥州街道、甲州街道であった。その基点が、日本橋であった。  東海道は、日本橋から京橋・新橋・芝口・高輪を経て、品川宿から、いわゆる五十三次に入る。  中仙道は、東山道とも称し、日本橋から室町を過ぎ、筋違橋《すじかいばし》から本郷へ出、巣鴨《すがも》・下板橋・浦和・大宮・熊谷《くまがや》・高崎を経て、碓氷《うすい》峠を越え、下諏訪《しもすわ》に出て、木曾路《きそじ》に入る。  奥州街道は、日本橋から、室町・本町を通り、浅草橋を渡って、蔵前・花川戸・山谷から千住《せんじゆ》に至る。草加・粕壁《かすかべ》・幸手《さつて》・古河・宇都宮を経て白河に至る。  日光街道は、宇都宮に至るまでは奥州街道と同じであった。尤も、この頃《ころ》は、勿論《もちろん》、日光東照宮はなかったから、宇都宮から左折した街道は、ただの狭い野路にすぎなかった。  甲州街道は、日本橋から呉服町・八重洲河岸《やえすがし》・外桜田・麹町《こうじまち》・四谷通りを経て、内藤新宿に至り、そこから高井戸・府中・八王子を過ぎて甲州に至る。下諏訪で、中仙道と合する。  但《ただ》し、いまだ大坂城に豊臣家が健在である時代であるから、元和《げんな》年間とは沿道の様相はちがって居り、例えば、家康が植えさせた東海道の並木の松も、若く小さかった。  それにしても、日本橋の雑沓《ざつとう》は、もはや、京都の三条大橋のそれをしのいでいた。  たしかに、剣名を売るには、日本橋の橋上に於ける決闘こそ、最もえらび甲斐《がい》のある場所であった。  まだ、欄干の白木も新しい日本橋で、果し合いをした者はいなかった。 「して、試合の対手は、何者でありましょうか!」 「御辺と五分の勝負のできる使い手をえらぶ。拙者にまかせておいてもらおう」  次郎右衛門は、なぜか、わざとその名を口にしなかった。  武蔵は、礼をのべて、小野道場を出ると、その足で、まっすぐに、日本橋に向った。  今日も——。  その雑沓ぶりは、大変なものであった。  武蔵は、日本橋の中央に立って、しばらく、四方を見渡した。  すでに——。  西方には、江戸城本丸には、五層の大天守閣が、竣工《しゆんこう》し、富岳を背景にして、金色さんぜんたる鯱《しやちほこ》を碧落《あおぞら》にはねあげさせていた。  頭をめぐらせば、出船入船の彼方《かなた》に、海原がひらけ、水平線を潤《うる》ませていた。  ——ここで、おれは、決闘をやるのか!  武蔵は、おのれに、云いきかせてみた。  夜明けといえども、通行人は、かなりの数であろう。  ——もしかすれば、五街道の基点たる日本橋を、血汐《ちしお》でけがした罪を問われて、追放処分になるか、あるいは、捕えられて、切腹させられるかも知れぬ。  その危懼《きぐ》が、脳裡《のうり》を横切った。  ——それも、また、やむを得ぬ。  武蔵は、京橋側の河岸の広場へ入った。  ありとあらゆる品物が、路面にならべられて、売り声は、耳を聾《ろう》せんばかりであった。  武蔵は、厨子《ずし》に安置した自分作の仏像を売っている妻六を、見つけて、歩み寄った。 「あ! ……はじめて、来て下された。もう、半刻《はんとき》うちに、一体が売れ申したぞ」  妻六は、にこにこして、告げた。 「一体だけは、売りのこしておいてくれ」  武蔵は、云った。  大風屋敷の床の間には、もう一体も残っていなかったのである。 「どうしてでござる?」  妻六は、不審げに、武蔵をふり仰いだ。 「わしの形見になるかも知れぬからだ」 「な、なんですと?」  妻六が、おどろいて大声をあげた時、武蔵は、もう踵《きびす》をまわして、そこを離れていた。   夢想権之助《むそうごんのすけ》     一  東の空が、うっすらとしらんで来た。——払暁というには、暫時《ざんじ》待たねばならぬ頃合。  日本橋の橋上には、まだ人影はなかった。  雲影をとどめぬ空は、濃い灰色の凪《な》いだ海原に似ていた。その灰色の空に、溶けていた江戸城の天守閣が、ようやく、黒い輪郭を現そうとしていた。  下界に、まだ動くものはない時刻であった。  沖あいから漕《こ》ぎ寄せられて来る魚船が見わけられるようになって、河岸にも、橋上にも、人影の動きが、あわただしくなるのであった。  と——。  ひとつの黒影が、ゆっくりと、室町方面から、歩いて来た。  もし通行人がいたら、一瞬、悸《ぎよ》っとなるであろう、人間ばなれした、といっても誇張ではない巨漢であった。六尺を二、三寸超えていよう。  まとっているのは、布子で、袖《そで》は肱《ひじ》まで、裾《すそ》は膝《ひざ》までしかなかった。背中から、頭上たかだかと、指物《さしもの》らしいものを立てていたが、なんと記してあるのか、この昏《くら》さでは読みとりがたかった。無腰で、左手におそろしく長い得物《えもの》を、ひっ携《さ》げていた。  槍《やり》と見えたが、穂先がなかった。九尺はあろう棒であった。  常人が小走るよりも速い大股《おおまた》で、橋袂《はしたもと》に達して、ずうっと、京橋側へ視線を投げて、 「まだか!」  と、呟《つぶや》いた。 「はようせぬと、人通りが繁《しげ》くなっては、試合ができぬ」  小野次郎右衛門が、武蔵の試合|対手《あいて》として、えらんだのが、この巨漢であった。  橋の中央に進んだ時、不意に、七、八歩へだてた海側の欄干からひとつの首がひょいとのぞいた。 「なんだ? 宮本武蔵とは、お主か?」  巨漢は、すかし視《み》て、呶鳴《どな》った。 「いや、それがしは、妻六と申す、宮本武蔵の、いうならば、家人《けにん》でござる。お手前様が、小野次郎右衛門殿より遣された御仁でござるか?」 「左様——。神道《しんとう》夢想流《むそうりゅう》| 杖 術 《じようじゆつ》の開祖・夢想権之助」  巨漢は、名のった。 「ほう、棒ノ手を使いめさるか」  妻六の目は、闇《やみ》に利《き》いた。背負うた指物には、 「兵法天下一 日下開山《ひのしたかいさん》 夢想権之助」  と記されてあるのを、読んだし、左手にひっ携げられた九尺の棒が、八角で、双の先端を疣打《いぼう》ちの鋼鉄で包み、さらに、八角柄を、五分幅ばかりの薄鉄で、螺旋状《らせんじよう》に巻いてあるのを、みとめた。 「棒ノ手ではない。杖術だ!」 「ははあ、なるほど——」  妻六は、欄干につかまり乍ら、下方を見下した。  いま、すがって登って来た綱が、まっすぐ垂れたところに、小舟があり、その舳先《へさき》に、黒影がいた。  武蔵であった。 「あるじ殿、試合対手は、杖術とやらを使われる、夢想権之助という御仁でござる」  妻六は、告げた。  武蔵は、夜半に、妻六に漕がせて、小舟を、この日本橋の橋下へ寄せて、いままで、睡《ねむ》っていたのである。 「うむ。いま、上って行く」  武蔵が、京橋側の橋袂に立った時、すでに、夜は明けはなたれていた。  もうその折には、旅へ出る者や職人や人足や、乗りかけの駄馬《だば》を曳《ひ》いた馬子や魚市の兄哥《あにい》などが、姿を現していた。  いずれも、急ぎ足で、橋を渡りかかろうとして、急に、足をすくませた。  夢想権之助が、凄《すさま》じい懸声をほとばしらせて、九尺の杖を、構えたからである。  まだ、武蔵との間に、二十数歩の距離があった。 「果し合いだっ!」 「こりゃ、見物《みもの》だぞ!」  通行人は、どっと、東西の橋袂へ、後退したり、馳《は》せ寄った。  武蔵は、夢想権之助の八双に似た九尺の棒を直立させた構えを、じっと凝視していたが、われから、ゆっくりと、進みはじめた。  欄干につかまっている妻六の傍へ来ると、武蔵は、黙って、大刀を——長船祐定《おさふねすけさだ》を、鞘毎《さやごと》、腰から抜いて、妻六へ投げ渡した。 「なんぞや?」  妻六もあきれたが、夢想権之助は、それ以上に、不審の面持《おももち》になり、次の瞬間、双眸《そうぼう》の光に、憤怒の色をこめた。 「わが杖術をあなどるか、武蔵っ!」     二  夢想権之助も、兵法者であるから、この宮本武蔵なる男が、ただ一人で、室町兵法所|吉岡《よしおか》道場を滅亡せしめたことを、とっくに耳に入れていた。  また、昨日、小野次郎右衛門から呼ばれて、 「武蔵は、ただの兵法者ではない。その強さには、あるいは、わしも及ばぬかも知れぬ」  と、きかされていた。 「あなどりはせぬ」  武蔵は、こたえた。 「お主のその長棒に対しては、脇差《わきざし》の方が、使いやすいと心得たまでのこと」  そう云《い》って、脇差を抜くと、峰を下にして、だらりと下げ持った。 「ばかなっ!」  権之助は、吼《ほ》えるように叫んだ。 「わが杖に対しては、長柄《ながえ》の槍でこそ、ようやく、五分の勝負を為《な》し得るものを、わざと、大刀をすてて、小刀をえらぶとは、増上慢のほど、許せぬ!」 「…………」  武蔵は、黙して、こたえず、構えもとらなかった。 「参るぞ!」  権之助は、つつ……と進むや、まず、その杖術の迅業《はやわざ》を誇って、武蔵めがけて、びゅん、と水車のごとく旋回させた。  六尺二寸の巨躯《きよく》が、十人力の膂力《りよりよく》ときたえ抜いた腕前を一如《いちによ》のものとして、武蔵に送りつけた一撃であった。  刹那《せつな》——。  武蔵の五体は、橋板に吸われるように、沈んだ。  権之助は、旋回させた杖を、次の瞬間には、目にもとまらぬひとしごきで、武蔵の顔面へ向って、突き出していた。  まさしく——。  九尺の杖は、千変万化する得物といえた。振り下せば太刀となり、突き出せば槍となり、薙《な》ぎはらえば薙刀となり、如何様《いかよう》にも使えるのであった。  すでに、武蔵は、備前|熊山《くまやま》の山頂で、狂気の修験者がうち振る金剛杖《こんごうづえ》との闘いを、経験していた。  その闘いに於《お》いては、武蔵は、金剛杖を両断して、果し合いを終らせている。  金剛杖は、長さ六尺であり、修験者の修行は、もっぱらなぐりつける迅業の連続であった。  したがって、これを両断することに、思念を集中すればよかった。  同じ杖でも、夢想権之助のそれは、金剛杖とは、全くちがった得物であった。  長さは九尺もあり、太刀となり槍となり薙刀となって、攻めたてて来るのであった。  しかも、刀で両断できぬように、薄鉄で螺旋状に巻いてあるのであった。かりに、これを半ばから両断し得たとしても、その手には、なお四尺余がのこるのである。  そこで——。  武蔵は、敵の懐《ふとこ》ろに飛び込む一手しかない、と看《み》て取って、あえて、長船祐定を、妻六にあずけ、脇差を武器にしたのであった。  峰をかえしたのは、日本橋を血汐《ちしお》でけがすのを避けるためであった。  それにしても……。  千変万化する杖の攻撃は、あまりにも迅く、あまりにも測りがたく、遠く蝟集《いしゆう》して固唾《かたず》をのむ見物人たちの目には、それを避け躱《かわ》す武蔵が、いっそみじめなものに映った。  ——いまに突き仆《たお》される?  ——もう撃ち殺される?  どの顔も、その表情になっていた。  尋常の兵法修業をした者ならば、とうてい、剣で闘える敵ではなかった。  太刀と化して撃ち込んで来た杖が、次に、槍と化すか、薙刀と化すか、全く予測できぬからであった。野生のけものに似た、天性の反射神経が、武蔵の身にそなわっているからこそ、どう変化して来ようとも、これを、避け、躱し、遁《のが》れ得たのである。  と——一瞬。  凄じい唸《うな》りとともに、杖が円弧を描くや、宛然《さながら》、それにはじきとばされたように、武蔵の体躯が、宙に躍りあがった。  そして、その足が、欄干へつくかつかぬうちに、権之助は、猛然たる突きを放った。  権之助にすれば、いずれ、武蔵が、跳躍して、欄干へ立つであろう、と測っていたとみえた。  そこを間髪を入れず、突きを放って、武蔵を、落下せしめて、水煙をあげさせる——いわば、敵の先《せん》を取る、文字通りの必殺の迅業であったろう。  ところが、武蔵は、権之助が取った先《せん》のその先《せん》を取った。  すなわち。  足を欄干につけるとみせて、突きが来るや、ぱっと脚を左右へはねあげて、一直線にひらいた。  とみるや、さしのばされた九尺の杖の上を、すうっ、と滑った。  権之助の懐ろに入ったのである。  あっ、と権之助が狼狽《ろうばい》した時には、もうどうするいとまもすべもなかった。  武蔵の小刀は、権之助の眉間《みけん》を、丁と峰撃ちした。 「う——むっ!」  権之助は、がくっと顔を仰向け、ぐうっと身を弓なりに反らすと、その巨躯で、橋板に激しい音をたてた。 「やったっ!」  妻六が、欄干を越えて、奔《はし》り寄ると、仰向けに倒れて動かぬ権之助の顔をのぞき込み、 「気絶でござる」  と、云った。     三  後年、武蔵は、その『五輪之書』の中で記している。 [#この行1字下げ]『三つの先《せん》という事。三つの先《せん》——ひとつは我方より敵へかかる先、懸《けん》の先という也《なり》。またひとつは、敵より我方へかかる時の先、これは待《たい》の先という。またひとつは、我もかかり敵もかかり合う時の先、待々《たいたい》の先という。この三つの先也。いずれの戦いはじめにも、この三つの先より外なし。先の次第を以《もつ》て勝つことを得るものなれば、先ということ兵法の第一也』  第一が、懸《けん》の先《せん》。  第二が、待《たい》の先。  第三が、待々《たいたい》の先。  武蔵は、この第二の待の先を以て、夢想権之助に、勝ったのであった。 [#この行1字下げ]『第二、待の先とは、敵、我方へかかり来る時、すこしもかまわず弱きようにみせて、敵、近くなって、|ずん《ヽヽ》とつよくはなれて、飛びつくように見せ、敵の|たるみ《ヽヽヽ》を見て直に強く勝つこと、これひとつの先。また、敵のかかり来る時、我もなお強くなって出る時、敵のかかる拍子の変る間を受け、その勝を得る、これ待の先の理《ことわり》也』  さらに、武蔵は、同書で、「山海の変《かわり》」という事を述べている。闘っているうちに、同じ業をたびたび使うのは、まずい。二度までは、やむを得ないが、三度もやるのはいけない。のみならず、格別の業をしかける必要がある。敵が、山と思ったならば、海としかけ、海と思ったならば、山としかける心を、兵法の道として、吟味しなければならぬ、と——。  小野次郎右衛門は、その日の午《ひる》すぎ、道場へ戻って来た夢想権之助を、前にすると、 「敗れたな」  と、笑った。  その眉間にのこる傷を、みとめたのである。 「無念|乍《なが》ら、もう一度、修業しなおさねばなりませぬ」  権之助は、云った。 「兵法天下一 日下開山」と大書した指物を、背負うて、大道を闊歩《かつぽ》していたのも、おのが工夫の杖術が、無敵である自信があったからである。  その自信が、うち砕かれたのである。  指物を背負い、夢想などという姓をつけて、奇を衒《てら》っていたのも、無敵の自信があったればこそであった。  権之助自身、べつだん、狂人と紙一重の天才ではなかった。  必死に刻苦し精励して、神道夢想流を編んだ努力家であった。 「お主ならば、武蔵と五分の勝負ができる、と思うていたが……」  次郎右衛門は、試合の次第を、くわしく権之助から、きいた。  ききおわると、次郎右衛門は、ふかくうなずいて、 「お主が、敗れたのは、やむを得ぬ仕儀であったな。お主の業前が、武蔵に劣っていたからではない」  と、云った。 「敗れたのは、劣っていた証左ではありませぬか?」 「いや、武蔵は、勝つべくようにして勝ったのだ。腕に優劣があったわけではない。……たとえば、武蔵が、吉岡一門と闘ったように、二刀を持って立ち合っていたならば、お主の方が、勝っていたかも知れぬ」 「…………」 「お主の杖は、九尺ある。懐ろへ飛び込まれたならば、どう致し様もない。鉄砲の名人でも、鷹《たか》に手許《てもと》へ飛び込まれたならば、撃ち殺すすべはあるまい」 「それは、そうでありますが……」 「武蔵に負けたのを、慙《は》じることはない。……武蔵は、お主の杖の九尺の長さに、欠点を観《み》たのだ。お主は、これまでの数十度の試合に、九尺の杖によって、勝ち抜いて来た。余人では、とうてい、使えぬ杖であった。お主の膂力《りよりよく》があってこそ、使うことができた。三尺の剣では、まともに、立ち合えるものではない。この次郎右衛門も、お主の杖に勝つ自信はない。……ところが、武蔵は、とっさに、九尺の長さに、欠点を観た。お主は、闘う前に、すでに、敗れていたことになる」 「…………」 「武蔵という男、生まれついての勝負者だ。闘えば、必ず勝つであろう」 「先生が、武蔵と試合をなされて、敗れるとは、考えられませぬ」  権之助は、云った。 「ははは……」  次郎右衛門は、高い笑い声をたてた。 「わしは、武蔵とは、試合をせぬ。だから、勝ちもしなければ、負けもせぬ。それだけのことだ」   自然方則     一  大人にとって、三年という歳月は、合戦でも起らぬかぎりは、さして変りもせぬ日々のくりかえしの短さであるが、少年にとっては——殊《こと》に、天下に一流の名をとどろかせようという大志を抱いている少年にとっては、おのれ自身を大きく変貌《へんぼう》させる長さであった。  十六歳になった伊織《いおり》が、それを示していた。  三年前、沢庵《たくあん》に連れられて、伊賀上野の山中へやって来た時のおもかげは、もはや、どこにもとどめてはいなかった。  伊織を変貌させたのは、洗心洞幻夢という人物であった。  自身で、そう名のっているのではなかった。  むかしの砦跡《とりであと》と思われる場所に、ごく粗末な草庵をつくって住んでいたが、柵門《さくもん》のあったあたりに、山桜を植え、その幹を削って、「洗心洞」と彫って居《お》り、そして、草庵の柿葺《こけらぶ》きのふかい庇《ひさし》の下に、「幻夢」と記した舟板額をかかげていたのである。  そこへ移り住んで来てから、二十余年が経《た》っているために、山桜の幹が年輪を増し、「洗心洞」の三文字はほとんど読みがたくなっていた。  地下《じげ》の人々は、いつの間にか、洗心洞先生とも、幻夢殿とも、呼んでいた。しかし、その前身を知る者は、いなかった。  伊織を連れて来た沢庵は、その前身を知っていた。  しかし、沢庵とても、草庵を訪れて、顔を合せるのは、はじめてであった。 「和泉堺《いずみさかい》の南宗寺をあずかる沢庵|宗彭《そうほう》と申す者でございます」  そう名のって、うやうやしく拝礼したのは、この人物が、もしそのむかし僧職をはなれなければ、いま頃《ごろ》は、大徳寺派の最も高い地位——紫衣の長老になっていたであろうからであった。  沢庵は、自分は名のったが、その人物が、僧職に在った時の名を、口にはしなかった。ただ、自分が、はるかな後輩であることを、教えるために、名のったのである。 「何卒《なにとぞ》、この子供を、一流の兵法者に、仕立て上げては下さいますまいか?」  沢庵は、その仔細《しさい》を、洗心洞幻夢に説明した。  室町兵法所|吉岡《よしおか》道場を、滅亡せしめた宮本武蔵を師と仰ぐこの少年を、武蔵のような決闘者にさせたくないゆえに、お願いするのだ、と。  洗心洞幻夢は、すぐには、引き受けなかった。  沢庵は、云《い》った。 「お手前様は、二十年も以前になりましょうか、大徳寺長老より、もう一度、心を変えて、わが職を継いでもらえまいか、とおすすめがあった時、長文の返書を、なされました。拙僧は、それを拝読いたしました。いえ、一字一句あまさず暗記つかまつりました。——お手前様は、僧職に在るよりは、兵法の修業をしていた方が、おのれを知り得る、としたためておいででございました。……この沢庵自身、貴文を拝読したために、還俗《げんぞく》して、兵法を学ぼうか、と一度は|ほぞ《ヽヽ》をかためたくらい深い感銘を受けたものでございました。……実は、お詫《わ》びいたさねばならぬのは、旧知の間柄《あいだがら》である柳生又《やぎゆうまた》右衛《え》門宗矩《もんむねのり》が、徳川家に師範として召抱えられたときき及んだ時、お手前様の長老|宛《あて》のご返書を、無断にてぬすんで、手渡したことを白状つかまつります」  七年前のことであった。  沢庵は、柳生宗矩が、「昌山庵《しようざんあん》」へ訪れた際、『不動智』と表記したひと綴《つづ》りの帖を、贈ったのであった。   一、無明住地|煩悩《ぼんのう》   一、諸仏不動智  そういう書出しで述べた長い文章の内容は、沢庵の独創ではなかったのである。  洗心洞幻夢が、もう一度僧職にもどるようにとすすめた大徳寺長老宛にしたためた返書の内容を敷衍《ふえん》したものであった。  それは、沢庵が、暗誦《あんしよう》できるまでに深い感銘を受けて、いつの間にか、その述べるところを、おのが血とし肉としていた証拠であった。     二  不動智。  不動とは、文字通り、動かぬ、ということ。智は、智慧《ちえ》の智。  動かぬ、といっても、石や木のように動かぬのではなく、前後左右、八方十方へ、心を自由自在に動かし乍らも、一瞬も、その一方へ心をとどめぬ心を、不動智、という。  右手に剣を掴《つか》み、左手に縄《なわ》を握《と》って、目をいからせ、歯をひき剥《む》いた不動明王の姿が、この不動智をよくあらわしている。  不動明王は、仏法をさまたげようとする悪魔を降伏《ごうぶく》せしめるために、出現している。悪魔は、いつ、どこから、どのような形で、襲いかかって来るか、測りがたい。したがって、不動明王は、一方一物を睨《にら》んでいても、その一方一物に心をとどめてはいない。心は、どのようにでも動きたいように動いていなければ、とうてい、悪魔の不意の襲撃を躱《かわ》して、これに勝つことは不可能である。  禅の修行も、剣の学びも、所詮《しよせん》は同じものであり、心法と兵法の行きつくところは、「無」である。  洗心洞幻夢が、禅僧たることをすてて、兵法者になったのは、不動明王を凝視しているうちに、突如、  ——結跏趺坐《けつかふざ》して、無念無想にいたるよりは、剣を構えて無念無想にいたる習練の方をえらんでみよう。  と、決意したからであった。  この人物が、大徳寺から、姿を消した頃、沢庵は、まだ稚《おさな》い小僧で、備前の末寺にいた。  洗心洞幻夢が、どれほどの業前《わざまえ》をそなえているか、まだ誰も見た者はいなかった。  沢庵は、しかし、長老宛の返書を読んで、  ——おそらく、闘えば、無双に相違ない。  と、信じたのであった。  柳生宗矩の太刀も、宮本武蔵の剣も、この人物の携《さ》げ持つ木太刀には、とうてい及ぶまい。  そう信じたからこそ、伊織を連れて行ったのである。  幻夢は、ようやく、沢庵のたのみを肯《き》き入れてくれたのであった。  幻夢が、まず、伊織に教えたのは、 「自然にさからってはならぬ。自然にしたがって生きることだ」  それであった。  夜が明けるとともに、目覚めて、起きる。日が暮れるとともに、牀《とこ》に就いて、睡《ねむ》る。人間とは、このように自然にしたがって生きる生きものなのである。  伊織は、それを、実行させられた。  午前中は、畠《はたけ》をたがやしたり、焚木《たきぎ》をつくったりの平凡な作業であった。  昼食後、幻夢は、無手で、伊織に立ち向わせた。 「どこからでもよい、撃ち込んでみよ。わしのからだに、ふれることができたら、修業は進んだものとみとめる」  伊織は、必死に撃ち込んだが、幻夢の身に、木太刀をふれさせることは、叶《かな》わなかった。  午後は、読書であった。幻夢は、和漢の書、仏書、兵法書を与えた。身じろぎもせず、読書をするように命じた。  そのほか、礼儀作法を教え、結跏趺坐を課した。  幻夢は、粗食ではなかった。伊織に、充分、鳥や魚や猪《いのしし》や鹿《しか》の肉を摂《と》らせた。 「からだをきたえるには、充分にさまざまの料理を摂らねばならぬ」  幻夢は、云った。  冬になれば、あたたかい夜具を与え、夏には、蚊帳《かや》を吊《つ》って、藪蚊《やぶか》をふせいだ。 「牀に就くと、すぐに睡るようにつとめること。夜明けに目ざめたら、即座に起きること」  炊事、掃除、洗濯《せんたく》も課した。  一年が過ぎたが、伊織は、まだ、幻夢の小袖《こそで》に、木太刀をふれさせることも、できなかった。 「叶いませぬ」  伊織が云うと、幻夢は微笑して、 「心の置きどころだ。お前は、わしの動きに、心をとらわれすぎる。わしの身の動きに、心をとらわれて、撃とうと気があせるゆえに、わしにはお前の打太刀が看破《みやぶ》れる。また、お前は、おのが得物《えもの》に気をとらわれるゆえに、得物に心がとどまってしまう。……わしは、ただ、自然に立っているだけだ。お前は、わしの姿やおのが構えや、ぜひとも撃とうとすることに、心がとらわれすぎている。少年ゆえ、やむを得ぬ仕儀だが、そのうちに、不動の智をさとるであろう。……申さば、撃ち込もうという心をすてることだ。お前が、撃ち込もうと、それに心をとらわれると、わしには、即座に、その心が、通じる。……撃とうと思うな。動こうと考えるな。お前の心よりさきに、自然に木太刀が撃ち込んで来る。その時、わしは、容赦なく、撃ち据《す》えられるであろう」  幻夢の教えはやすく、伊織が不動智によって撃ち込むのは、至難であった。  仏法修行に、五十二位というのがあった。そのうちで、物に対して心をとどめるのを、避ける、という教えがあった。  伊織は、それを会得《えとく》せぬ限り、幻夢を撃ち込めそうもなかった。 「やああっ!」  懸声もろとも、猛然と撃ち込む迅業《はやわざ》は、一年、二年と過ぎるうちに、目にもとまらぬものとなったが、しかし、幻夢のからだにふれさせることは、依然として一度も叶わなかった。  そのうちに——。 「いつでも、いかなる場合でもよく、不意に撃ちかかってみよ」  幻夢は、命じた。  食事中、伊織は、突如、囲炉裏の燃木をつかんで、撃ちかかってみたが、見事に、はずされた。  伊織には、判《わか》らなかった。幻夢には、どうして、間髪を入れず躱すことができるのか。  言葉の上では、物を見て、その物に心をとらわれぬ、というのは、やさしいが、これ以上至難の習練はなかった。  ただ一度——。  伊織は、突如、囲炉裏の燃木をつかんで、撃ちかかった瞬間があった。夕餉《ゆうげ》のあとであった。幻夢は、もう、こくりこくりと睡魔にひき入れられているようであった。  にも拘《かか》わらず。  幻夢は、鍋《なべ》の蓋《ふた》を把《と》るやいなや、伊織が、びゅんと撃ち込んで来た燃木を受けとめていた。目蓋《まぶた》を閉じたままであった。     三  自然にさからわず、自然にしたがう生きかたと、木太刀の習練、読書、礼儀作法その他の日課は、伊織にとって、すこしも苦痛ではなかった。  伊織は、幻夢が命ずるがままに、動いた。いやだ、という気持など、一度も起さなかった。  ただ——。  ひとつだけ、伊織にとって、当惑せざるを得ぬ営みが、その草庵では、月に二、三度、なされていた。  伊賀上野にも、「いくさ後家」と称《よ》ばれる女が、多勢いた。  そのいくさ後家たちが、つぎつぎと、洗心洞を訪れて来たのである。  幻夢の説法を、聞くためではなかった。幻夢に抱かれて、女体のよろこびを、あじわうためであった。  いつの頃から、そのならわしができたのであろう。 「男女のまじわりも、自然にしたがうもの」  幻夢の意見を耳にして、一人のいくさ後家が、そっと、訪れて、幻夢自身に、|それ《ヽヽ》をもとめたのが、はじまりであったに相違ない。  いくさ後家たちは、それぞれ舅姑、子供をかかえて一家の柱となっているため、訪れるのは、田畑仕事の暇をぬすむので、時刻は不定であった。  幻夢は、夜の訪問を拒絶していたので、彼女たちの姿が現れるのは、朝はやばやであったり、昼食後であったりした。  幻夢は、すべてのいくさ後家を、心よく迎えた。  その際には、伊織は、すばやく、屋外へ抜け出していたが、気がつかずに外から入って来た時、営みの最中であるのにぶっつかって、いやでも目撃させられる場合も、しばしばあった。  幻夢は、伊織に目撃させて、平気であった。  幼児の頃から流浪《るろう》の身であった伊織は、野伏《のぶせり》山賊の徒が、女を拉致《らち》して来て犯す光景を、眺《なが》めた経験があったし、沢庵から、その逞《たくま》しい男根の隆起のさまを見せつけられ、これが男子の本能だ、と教えられていた。  したがって、無知識な少年のように、おどろいたり、あわてたりすることはしなかったが、洗心洞に住んで一年余過ぎた頃から、伊織自身が、その本能に目覚めたのである。  男女の営みも、自然にしたがうことであれば、伊織は、幻夢に、 「わたくしも、やってみとう存じます」  と、申し出ても、叱《しか》られはすまい、と思えたが、流石《さすが》に、申し出ることを、はばかった。  伊織は、外から戻って来て、その光景を、目撃させられると、すぐに、おもてへ身をかわすようにしたが、おのれ自身、その本能に目覚めると、幻夢の下で、下肢《かし》を大きく拡《ひろ》げて、呻《うめ》き、もだえる女の姿態が、目蓋の裡《うち》に、焼きついて、容易にはなれなくなった。そして、おのが股間《こかん》の|しろもの《ヽヽヽヽ》が、にわかに、大きく、かたく変化するのを、知った。  ——お師匠様は、|あれ《ヽヽ》だけは、どこか、ほかでやって下さらないものかな。  伊織は、そう願わずにはいられなかった。  男女の営みもまた自然にしたがうものであっても、伊織は、本能の昂《こう》じるままに、それを経験しようとは、思わなかった。  沢庵の言葉が、耳にのこっていたからである。 「……わしは、この男根を、まだ一度も、女子《おなご》の陰所にさし入れては居らぬ。何年か前までは、物狂おしいほどの欲情で、幾年も、夜となく昼となく、のたうったものであった。わしは、しかし、ついに、抑え得た。いや、いまも、抑えつづけて居る。この苦痛が、どれほどの堪えがたい拷問《ごうもん》か、お前には、まだ判るまい。この拷問が判った時、お前は、一人前の男子になり、その欲情を抑えることによって、兵法者の道を歩くことができる」  伊織には、ようやく、本能を抑えることの苦痛が、判りかけて来ていた。拷問とまではいかぬが、股間の|しろもの《ヽヽヽヽ》を、元にもどすまでには、時間がかかった。  ——お師匠様は、どうして、いくさ後家を抱かれるのじゃろう?  そのことだけは、抑えるべきではあるまいか、という反撥《はんぱつ》があった。  幻夢自身は、すこしも愉《たの》しんでいる様子はなかったからである。 「止《や》めて下され」  と、たのむか、 「どこか、|よそ《ヽヽ》でやって下され」  と、ねがうか、いずれかにして欲しい、と伊織は、頭を下げる機会を、うかがっていた。   血統願い     一  幻夢が住む草庵《そうあん》「洗心洞」は、上野と名張《なばり》の、ふたつの小盆地をへだてる低い山中に在った。  慶長十五年のこの頃《ころ》は、すでに、伊賀《いが》国は、地侍たち(国衆と称ばれる土豪)は全く滅び、二年前、伊予から移封されて来た藤堂高虎《とうどうたかとら》の治領となっていた。  もともと——。  伊賀国は、荘園《しようえん》や公領の名主からのしあがった国衆たちが、それぞれ山野を分け取って、上に大名を持たず、一族郎党の団結をかためて、独自の社会層を形成していたのである。  国衆という地侍は、下人、被官という隷属者《れいぞくしや》を擁し、家と土地を守っていた。一朝事ある時には、下人、被官は、農具をすてて刀槍《とうそう》を把《と》り、国衆の指揮の下に、目ざましい働きをした。一種の農民団であるが、農閑期に於《お》いては、もっぱら、武芸の習練にはげんだので、ただの農民兵ではなかった。  国衆同士は、ほんのひとにぎりの土地を奪いあい、絶えず攻防の血の雨を降らせていた。  さらに、盆地を領する地侍のほかに、山間部には、忍者が住んでいた。  忍者の歴史も、古い。|平 《たいらの》将門《まさかど》の叛逆《はんぎやく》、藤原《ふじわらの》純友《すみとも》の謀叛《むほん》が起った時、伊賀高尾には、藤原千方という土豪がたてこもって、藤原政権に、頑強《がんきよう》な反逆を示した。藤原千方の部下に、陰鬼、火鬼、土鬼、風鬼という四人の忍びの者が居《お》り、その変幻自在の働きは、人間ばなれしたものであったという。  忍びの術を発達させたのは、修験道の山伏であった。かれらは、呪文《じゆもん》、印、医療、薬品など密教の諸法を、兵法の中にとり入れて、源平争乱期から足利《あしかが》時代にかけて、その術を、異常に発達させた。  これらの忍者たちは、盆地の国衆と相互扶助の関係をつづけた。  百年にも及ぶ戦国時代に、伊賀国だけが、他国の武将の侵略からまぬがれたのは、地侍と忍者の団結力が強く、なまじの兵力では、占拠できなかったからである。地侍同士は、狭い土地の争奪をくりかえしていたが、外敵に対しては、一致団結した。  伊賀国へ、はじめて、怒濤《どとう》の勢いで、攻め入り、これを蹂躙《じゆうりん》した武将は、織田信長《おだのぶなが》であった。  伊勢国司|北畠具教《きたばたけとものり》の養子となり、二百五十万石の太守となった信長の次男|信雄《のぶかつ》は、天正《てんしよう》七年九月、父信長にも相談せず、一万二千の手勢を三手に分けて、一挙に、伊賀国を攻略しようとして、むざんな大敗を喫した。  信長は、信雄の独断行動をきいて、激怒し、安土《あづち》城へ呼びつけて、これを、鞭《むち》で打ちのめした。 「伊賀を攻め取ることのできるのは、この上総介《かずさのすけ》だけだ」  信長は、一向一揆《いつこういつき》を平定したのち、天正九年九月、総勢四万二千余を催して、伊賀国へ突入した。  たかが伊賀一国を攻めるには、あまりにも大軍であったが、これは、いかに伊賀の国衆や忍者が、強かったかという証左であった。  迎撃したのは、国衆、忍者あわせて二千に足らなかった。伊賀土豪勢の闘いぶりは、阿修羅《あしゆら》の働きというべき凄《すさま》じさであったが、丹羽長秀《にわながひで》、滝川一益《たきがわかずます》、蒲生氏郷《がもううじさと》、脇坂安治《わきさかやすはる》、堀秀政《ほりひでまさ》、筒井順慶《つついじゆんけい》、浅野長政《あさのながまさ》ら、千軍万馬の猛将たちの、徹底的な焦土作戦、掃滅策に遭うては、とうてい、ふせぎきれるものではなかった。  織田勢は、老幼婦女子であろうとも、容赦せずに、殺戮《さつりく》をほしいままにし、神社も仏閣も民家も、ことごとく、焼きはらった。  千年にわたってたくわえられた貴重な文化財は、この合戦で、のこらず灰燼《かいじん》に帰した。  国衆の殆《ほとん》ど全員が討死し、わずかに生き残った忍者たちは、山奥ふかく、姿をかくした。  乱後、伊賀国は、北畠信雄の所領となったが、やがて、豊臣秀吉《とよとみひでよし》の天下になるや、信雄は追われ、脇坂安治に与えられ、天正十三年には、脇坂安治が淡路に移ったあと、筒井順慶の養子|定次《さだつぐ》に与えられた。  筒井定次としては、伊賀領主となることは、大いに不満であった。定次は、筒井家代々の郷国大和を、秀吉に取りあげられたからである。  その不満が、慶長五年の関ケ原役には、定次をして、徳川家康《とくがわいえやす》側につかせた。  その筒井定次も、慶長十三年には、政務怠慢の咎《とが》を蒙《こうむ》り(実はキリシタンの改宗を拒否したのが真相だが)、改易となった。  代って、藤堂高虎が、新領主として、伊予から入国して来た。  高虎の領地は、伊賀国全部、伊勢国|安濃《あのう》郡全部、一志・奄芸《あんき》・鈴鹿《すずか》・河曲《かわわ》・三重・飯野《いいの》・多気各郡の一部、そのほか、山城国相楽郡、下総《しもうさ》国香取郡の一部など、合せて三十二万三千九百五十余石であった。  高虎は、津に本城を築き、上野に支城を置いた。     二  つまり——。  洗心洞幻夢は、羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》が、豊臣秀吉となった頃、この山中に、住み着いたことになる。  その当時、伊賀領主であった筒井定次は、キリシタン大名の寛容さで、信長に滅された国衆の家族が、故郷の堡《とりで》(中世の城)趾《あと》に帰って来るのを許したし、また、忍者たちにも、元の山寨《さんさい》に家を構えるのをみとめたし、さらに、幻夢のような|えたい《ヽヽヽ》の知れぬ放浪者が、砦趾《とりであと》に住みつくのも、黙許した。  藤堂高虎が移封して来た時には、伊賀国は、国衆こそ滅び果てていたが、再び、そのむかしのくらしぶりと気風をとりもどしていたのである。  農耕のかたわら、武術にはげみ、いつでも得物を把れるように身をきたえておく——ただの百姓ではない面々がそろっていた。  そして、山間、渓谷《けいこく》は、再び「忍び」の里となっていた。  伊賀国には、応仁《おうにん》の乱以前から、十一家の上忍《じようにん》がいたが、再び、その十一家が復興していた。下柘植《しもつげ》の大猿《おおざる》を長老として、同小猿、野村の大炊孫《おおいまご》太夫《だゆう》、新堂の小太郎、楯岡《たておか》の道順、上野の佐《すけ》、山田の八右衛門、神戸の小南、音羽の城戸、甲山の太郎四郎、同太郎左衛門ら。  これら、十一家から、さらに、二十数家の、上忍が分れていた。百地三《ももちさん》太夫《だゆう》も藤林|長門守《ながとのかみ》も服部半蔵《はつとりはんぞう》も、そして、武蔵に斬《き》られた宍戸梅軒《ししどばいけん》も、いずれも、分家の上忍であった。  尤《もつと》も、分家の上忍が、本家の上忍よりも、忍びの術が秀《すぐ》れ、擁する下忍《げにん》の頭数が多くなったりしているのは、いったん散り散りになり、ようやく再興したことによる。  いずれにせよ、伊賀とはふしぎな国であった。  僧職をすてた幻夢が、この地に、終《つい》の栖《すみか》をつくったのは、地下人《じげにん》たちのくらしぶり、気風が、他郷と全く異なっていたからである。  伊織は、「洗心洞」の三文字の消えかかった山桜の根かたに腰をおろして、ぼんやり、空を仰いでいた。  草庵には、客がいたのである。いくさ後家の一人であった。  まだ午《ひる》まえであった。  ——もうそろそろ終るだろう。  伊織にとって、この草庵でのくらしの上で、唯一《ゆいいつ》の不快な時間であった。  そのいくさ後家がやって来てから、もう小半刻《こはんとき》が過ぎていた。  伊織は、木ぎれをひろうと、ぶんぶん飛びまわる蠅《はえ》を、狙《ねら》って、撃ちおとしてくれようと、目を光らせはじめた。なにかして、気をまぎらわせずにはいられなかったのである。  びゅっ!  びゅん!  木ぎれを振る音だけは、鋭かったが、蠅は、いっぴきも落ちなかった。 「くそ!」  伊織は、蠅にあざけられ、さげすまれているような腹立たしさをおぼえた。  と——。  いつの間にか、むこうに——なだらかな坂道の下に、人が現れているのに、伊織は、気がついた。  女であった。  ——ちぇっ! また、もう一人来たのか!  不快を露骨に表情にした伊織に向って、女は近づいて来た。二十代半ばで、面高《おもだか》で、色白で、整った顔だちの女であった。しかし、肩がいかり、胸も厚い、五尺四、五寸もある大女であった。 「それでは、蠅を落せませぬぞえ」  女は、微笑し乍《なが》ら、云《い》った。 「…………」  伊織は、むっと、口をひきむすんで、女を睨《にら》んだ。  女は、木ぎれをひろうと、飛ぶ蠅を目で追っていたが、一瞬、すっと無造作に突き出した。蠅は、ぽとりと、伊織の足もとへ、落ちた。  伊織は、あきれて、女の顔を見まもった。 「蠅にも、それぞれ、飛びかたにくせがあります。それを見さだめて、飛ぶ先へ、一瞬はやく、棒を突き出せばよいのです。蠅は、自身で、ぶっつかって、落ちます。撃ち落すのは、よほどの達人でないとできませぬ」  伊織は、——そうか、と合点し乍ら、 「お前様は、お武家の後家どのですか?」  と、訊《たず》ねた。 「いえ、武家ではありませぬ。忍び屋敷の者です」  上忍の家を、忍び屋敷と総称するようになったのは、天正十三年以後であった。信長に伊賀平定をされる以前は、それぞれ、下柘植屋敷とか楯岡屋敷とか服部屋敷とか百地屋敷とか、戸別に呼ばれていたのである。 「忍び屋敷では、女子衆《おなごしゆう》にも、忍びの術を修業させるのですか?」 「そうではありませぬが……、わたしの家では、男子が生まれなんだので、父親が、つい、なんとなく、わたしに、習練させたまでのことです」  それをきくと、伊織は、にわかに、顔をかがやかせて、 「お前様の父上に、お願いすれば、わしにも、教えて下さるか?」  と、訊ねた。 「他人には、教えてはならぬ掟《おきて》になって居ります」  女は、こたえた。 「お願いでござる! お前様でもよい。わしに、忍びの術を、教えて下され」  伊織は、土下座した。  その時、女は、急に、くるりと伊織に背中を向けると、足早やに、遠ざかった。  草庵から、いくさ後家が出て来たので、顔が合うのを避けたのであった。それが、女同士の作法であった。  そろそろ四十に手がとどくいくさ後家は、悦事を了《お》えて、なおその官能の疼《うず》きを五体にのこした、上気した面持で、伊織のわきを通り抜けて、去って行った。     三  どこか物蔭《ものかげ》に、身をかわして、そのいくさ後家をやりすごしたものであろう、忍び屋敷の女は、すぐに、坂下に姿を現して、すたすたとのぼって来た。  伊織には、たずねて来た目的が判《わか》っている以上、自分が忍びの術を教えて欲しいとたのんだことを、慙《は》じる気持がわいていた。  伊織は、そっぽを向いて、女の顔を、見ようともしなかった。  女は、草庵の土間に入ると、火のない囲炉裏ばたに坐《すわ》っている幻夢に対して、 「忍び屋敷百地三太夫の女《むすめ》喜和と申します」  と、名のった。  これまで、訪れたいくさ後家は、数十人にのぼっているが、その名を口にした者は一人もいなかった。幻夢もまた、どこの家の者か、訊ねようとはしなかった。訊ねる必要もなかったのである。  幻夢は、上りなされ、とうながした。  炉をへだてて対座すると、百地三太夫の女は、両手をつかえて、 「お願いがございまする」  と、平伏した。  幻夢は、喜和が頭を上げるのを待って、 「そなた、後家ではないようにお見受けするが……」  と、云った。 「はい。わたしは、今年二十八歳に相成りますが、いまだ季女《むすめ》のままでございます。わたしには、兄も弟もなく、わたしが、聟取《むこと》りをせねば相成らなかったのでございますが、いずれも、父の気に入らず、今日にいたりました」 「…………」  幻夢は、じっと、喜和を、視《み》かえしている。 「すでに、おきき及びかどうか存じませぬが、父は、昨冬より、中風にて倒れ、もうほとんど、口もきけぬ状態に相成って居ります。おのが意志をつたえるのは、まばたきの数によって、わたしにだけ、判ります。……父が、しきりに、わたしにつたえるのは、百地家の血統を絶やしてはならぬ、ということでございます。これまで、あちらこちらからえらんで下された聟候補を、一人のこらず、ことわり乍ら、今になって、百地家を断絶させてはならぬ、と申しても、急に、よい聟どのを、迎えるわけには参りませぬ。下忍のなかには、さがせば、居るかも存じませぬが、それは、父が許しませぬ。……それで、わたしは、ふと、貴方《あなた》様のことを、思いうかべたのでございます。世間には知られぬが、おそらく、試合をなされば、天下無双、無敵の兵法者であられる貴方様より、子種を頂戴《ちようだい》できれば、百地家の血統を継ぐ男子をもうけることが、できるのではあるまいか、と存じた次第でございます」 「…………」 「お願いでございます。おききとどけ下さいますまいか?」  幻夢は、しばらく、返辞をしなかった。  やがて、 「喜和どのと申されたな」 「はい」 「今日まで、この洗心洞を訪れて来たいくさ後家衆で、わしの子を産んだ者は、一人も居り申さぬ」 「………?」 「わしは、いくさ後家衆を、なぐさめる役目をはたして居るが、いまだ一度も、精水を、後家衆の体内に、一滴も放っては居り申さぬ。このことだけは、かたく守って居り申す。こん後も、例外は、つくり申さぬ」 「わたしは、いくさ後家ではございませぬ。いまだ男に肌身《はだみ》を許したおぼえのない未通女《おぼこ》でありますれば、男女の契《ちぎ》りのよろこびを知りたいのではございませぬ。ただ、子供が——百地家の血統を継ぐ男子が、欲しいだけでございます。何卒《なにとぞ》、まげて、おききとどけのほどをお願い申し上げます」  喜和は、必死に悃願《こんがん》した。 「例外はつくらぬ、と申した」  幻夢の態度は、石のように冷たかった。 「どうしても、お願いの儀、叶《かな》いませぬか?」 「自らつくった掟《おきて》でござれば、生涯《しようがい》守り通したく存ずる」 「…………」  喜和は、うなだれて、ふかく吐息した。  長い沈黙の時間が、草庵内を占めた。  喜和は、ついに幻夢の心を変えさせることはできぬ、とあきらめた。 「おじゃまいたしました」  頭を下げて、立ち上った。   春情戒     一 「待たれい」  急に、幻夢が、思いかえしたように、土間へ降りた百地三《ももちさん》太夫《だゆう》の女《むすめ》喜和を、呼びとめた。 「はい!」  喜和の返辞する声音が、はずんだ。  幻夢が、自分の願いを叶えてくれよう、と考えなおしたのだ、と受けとったのである。 「この草庵《そうあん》に、わしの弟子が一人、居《お》り申す」  幻夢が、云った。 「まだ、十六歳で、童貞でござる」 「門口《かどぐち》でお会いした、あの若者でございますね」 「なみなみならぬ面《つら》だましいを所有していたとは、看《み》られなんだかな?」 「…………」  喜和は、幻夢の云おうとすることを、察知して、微《かす》かに眉宇《びう》をひそめた。  幻夢は、伊織《いおり》の素性を告げ、 「……修業次第では、渠《かれ》が師と仰ぐ宮本武蔵以上の兵法者と相成り申そう。わしは、その天稟《てんぴん》を、高く買って居り申すのじゃが……」 「…………」 「そなたが季女《むすめ》であれば、伊織は童貞。……そなたが、伊賀上忍の娘御であれば、伊織は将来一流を樹《た》てる兵法者の卵。——年齢こそ、そなたが、十二も年上でござるが、百地家の血統を享《う》け継ぐ子を、つくるには、伊織は、ふさわしい若者と存ずる」 「…………」  喜和は、すぐには、うなずくのをためらった。  喜和から見れば、伊織は、弟のような、まるで少年でしかなかった。  幻夢は、言葉をつづけた。 「伊織には、わしといくさ後家衆とのまじわりを、幾度も目撃させて居り申す。すでに、十六歳でござれば、伊織は、男子としての本能に目覚め、口にこそ出さね、おのれ自身も、体験してみたい、と思うて居るに相違ござらぬ。……そなたさえ、異存なくば、伊織と契られては如何《いかが》かと存ずる」 「…………」 「如何でござろう?」  喜和は、しばらく沈黙を置いてから、顔を伏せたなり、 「わたしに異存は、ございませぬ」  と、こたえた。  幻夢は、喜和を炉端にもどらせておいて、おもてへ出た。  その時、山桜の根かたから、 「やったあっ!」  はじけるような伊織の叫びがあがった。  喜和に教えられた通り、蠅《はえ》が飛ぶ先へ、一瞬はやく、木ぎれを突き出す迅業《はやわざ》をくりかえし、幾度かの失敗ののち、ついに、いっぴき、地面へ落すことに成功したのである。 「伊織——」  呼ばれて、伊織は、あわてて立ち上り、 「はいっ」とこたえた。  幻夢は、ゆっくりと近づくと、 「お前に相談がある。……ことわっておくが、このことは、わしが命ずるのではない。お前自身、考えて、いやならば拒めばよい。……いま、訪れて居る女子《おなご》は、いくさ後家ではなく、上忍百地三太夫の女《むすめ》で、まだ、男に肌身を許しては居らぬ。百地家の血統を絶やさぬために、懐妊をのぞんで居る。……お前は、あの女《むすめ》によって、女を知っては如何であろう」 「…………」  伊織は、とまどいの表情になった。 「沢庵《たくあん》のように、生涯|不犯《ふぼん》で通す覚悟を持っているのであれば、このような仲介はせぬが、いずれは、お前も、本能のおもむくままに、女子をもとめるであろう。……お前がはじめて契るあいてとしては、あの百地三太夫の女は、ふさわしい。……どうであろうな?」 「お師匠様が、おすすめなさるのなら、そういたします」 「男女のまじわりについて、教えておこうかな」  幻夢が、微笑し乍《なが》ら云うと、伊織は、 「わかって居ります」  こわばった態度でこたえた。     二  草庵へ向って歩きだした伊織は、一歩|毎《ごと》に、胸の動悸《どうき》がはやくなった。  ——おちつけ!  と、自分に云いきかせても、鼓動ばかりは、意志に反した。  戸口に立った時には、咽喉《のど》奥まで、からからにかわいていた。  伊織は、息苦しくなり、ひとつ深呼吸した。  炉端には、喜和が、俯《うつむ》いて、正座していた。  その姿を一瞥《いちべつ》すると、伊織は、自分があり得ぬことを行なおうとしているような気がした。  喜和は、土間に佇立《ちよりつ》して動かぬ伊織へ、視線を向けた。  伊織は、まばたきもせず、睨《にら》むように、上忍の女を視かえした。  喜和の方が、さきに、口をひらいた。 「おねがいいたします」  そう云《い》って、かるく頭を下げた。 「…………」  伊織は、何かこたえようとしたが、言葉が出なかった。  草庵は、ただ一室だけであったが、幻夢が手造りの本間《ほんけん》という高さ六尺の銭形|屏風《びようぶ》が、囲炉裏のあるところと、奥とを仕切っていた。  奥は、幻夢の臥牀《ふしど》になっていた。  喜和は、すっと立って、屏風のむこうに入った。  伊織は、解かれた帯が、屏風にかけられるのを視たとたん、心の臓が破れるばかり、躁《さわ》いだ。  幻夢がいくさ後家とまじわっている光景を目撃させられた時の当惑と刺戟《しげき》で、かなり図太くなっているはずであったが、やはり、おのれ自身が、はじめて、その場に臨むことになってみると、全《すべ》ての神経は、針鼠《はりねずみ》の剛毛のように、とがり立ち、五体が火のように熱くなるのをおぼえていた。  急に——。  伊織は、その場で、まとっていた布子を脱ぎすてて、素裸になると、裏口からとび出した。  井戸端に立つと、釣瓶《つるべ》で汲《く》みあげた冷水を、頭から、ざあっ、とかぶった。  三度、かぶってから、 「よしっ!」  と、自分に、叫んだ。  拭《ふ》いた素裸のままで、屏風の奥へ入った伊織は、敷具に仰臥《ぎようが》して、目蓋《まぶた》を閉じている喜和を眺《なが》めおろしたが、ふしぎに、動悸はおさまっていた。  帯を解いたなりで、前を合せて仰臥している喜和の寐姿《ねすがた》に、清潔で静穏なものを、伊織は、おぼえて、それが渠をおちつかせた。 「ごめん——」  ひくい声音で、ことわっておいて、伊織は、その傍にうずくまり、そっと、小袖《こそで》の前を、左右へ拡《ひろ》げさせた。  喜和は、薄い縹色《はなだいろ》の脚布《こしまき》を、腰にまとうていた。  伊織は、それを捲《まく》る時、流石《さすが》に|そこ《ヽヽ》を視る勇気はなかった。  伊織は、喜和の上に、重なった。水垢離《みずごり》をとった伊織の皮膚には、喜和の肌は、あたたかかった。  喜和の下肢《かし》は、ごく自然に、ひらいた。  伊織の精気が、股間《こかん》の一点に、凝集した。  一瞬——。 「……あ!」  小さな呻《うめ》きが、喜和の唇《くちびる》の隙間《すきま》から洩《も》れた。  営みは、その刹那《せつな》に、終った。  伊織は、痛みをおぼえるまでに固く怒張したおのが一物から、女体の中へ、精液がほとばしり入るのをおぼえ、次の瞬間、潮が引くように、おのれをとりもどした。  いつの間にか、喜和が、|ひし《ヽヽ》と自分に抱きついているのを知り、すぐには、はなれられなかった。  伊織も喜和も、それなりに、微動もしなかった。  と——。  喜和が、顔を動かした。唇が、伊織の口へふれた。  伊織は、喜和が求めているものと思い、その唇を吸った。歯がふれあい、舌がもつれ合った。  再び——。  伊織の精気は、股間の一点へ、凝集した。  女体の中へ埋没してゆく快感が、はじめて、伊織の意識に来て、腰に蠢動《しゆんどう》を起させた。  喜和が、それに応《こた》えた。  伊織が、二回目の放射を仕了《しお》えても、喜和は、伊織をはなさなかった。  伊織が起き上ろうとすると、背中にまわした双手《もろて》に力をこめて、拒んだ。  喜和は、微かな喘《あえ》ぎをみせ乍ら、 「……乳房《ちち》を、吸うて下され」  と、乞《こ》うた。  伊織は、失った精気を、三|度《たび》よみがえらせるために、喜和の胸の柔かな隆起へ、顔を伏せた。 「ああ!」  喜和は、はじめて、はばからずに、官能の疼《うず》きを、叫びにした。  叫びとともに、喜和は、羞恥《しゆうち》を忘れ、両の膝《ひざ》を放恣《ほうし》に、広角に、拡げると、双手で伊織の臀部《でんぶ》をかかえた。  三度——。  伊織の精気は、股間の一点に、凝集した。     三  喜和が、草庵を去ってから、半刻《はんとき》ほど経《た》って、幻夢が戻って来た。  伊織は、ぼんやりと、炉端に、坐《すわ》っていた。  幻夢は、向い側に腰を据《す》えると、 「薬は毒になり、毒はまた薬にもなる」  独語するように、云った。 「…………」  伊織は、幻夢を瞶《みつ》めた。  幻夢は、云った。 「わしは、お前がはじめて、ここへ連れて来られた時、申したな。自然にさからってはならぬ、自然にしたがって生きることだ、と」 「はい」 「詩経にある。識《し》らず知らず天帝の則《そく》に順《したが》う、と。荘子《そうし》の言葉にも、織《お》りて衣《き》、耕して食《くら》う、これを同徳と謂《い》い、一にして党せず、命じて天放——天稟のままという意だ——と曰《い》う、とある。……しかし、時として、天帝は、凄《すさま》じい力をふるって、生きものをおびやかすことがある。巨樹をなぎ倒し、屋根をふきとばし、人間が営々としてつくった田畑を、一夜のうちに、岩と礫《こいし》と泥《どろ》の原野と化してしまう暴風雨が襲って来ることがある。雨が降らねば、田植はできぬが、その雨がものすごければ、田そのものが無に帰す、というわけだな。……人間の心にも、嵐《あらし》が吹きすさぶことがある。その時、その嵐に歯向って、あばれ狂うのは、おろかというべきだな。子孫をつくるために、男女は情欲を与えられて居る。しかし、その本能の激しさに——意馬心猿《いばしんえん》の徒になりはててはなるまいぞ」  幻夢が、はじめて伊織にきかせる説法であった。  伊織は、膝へ視線を落して、その説法をきいた。 「あの女子は、五日も経てば、また、やって来るであろう。……左様、月に数度は、かよって来るであろう。……腹に子をやどすまでは、かよって来るであろう。お前は、あの女子に心を奪われ、身を溺《おぼ》れさせるおそれがある」 「…………」 「伊織——」 「はい」 「わしが、あの女子に、もう来てはならぬ、とことわった際、あきらめることができるように、いまから、心がまえをしておくとよい」 「はい!」  伊織は、うなずいた。  幻夢の予測は、的中した。  喜和は、それから、五日後に、訪れて来た。そして、以後五日|毎《ごと》に、姿をあらわした。  三箇月が過ぎた一日——。  伊織が、喜和との激しい営みをすませて、屏風わきから出て来ると、いつの間にか、幻夢が、炉端に、坐っていた。  それまでは——喜和が訪れると、幻夢は、草庵から出て行き、喜和が去るまで、決して戻って来なかったのである。  伊織は、はっとなった。  幻夢は、目顔で、伊織に座に就いて居《お》れ、と命じた。  身じまいした喜和が——喜和もまた、出て来て、幻夢がそこにいるのに、おどろきの面持《おももち》になった。 「喜和殿」  幻夢は、粗朶火《そだび》へ目を落し乍ら、呼んだ。 「はい」 「そなたは、すでに、懐妊して居ろう」 「…………」 「もう二度と、この草庵に来られるな」 「…………」  喜和は、伊織を、視《み》やった。それは、女の眼眸《まなざし》であった。  伊織は、喜和の視線を感じつつも、師と同じく、粗朶火を眺めて、不動の姿勢を保った。 「そなたは、目的を達しられた。生まれて来るのが、男女いずれであろうとも、それは、われらのかかわり知らぬこと。二度と、訪れて来なさるな」 「…………」  喜和は、うなだれた。 「そなたが、訪れて来ぬ、となれば、伊織は、欲情を抑え、堪えねばならぬ。その苦しさも、兵法修業のひとつ。そなたには、よくおわかりであろう。伊織を、一流の兵法者にさせて下され。おたのみ申す」 「わかりました」  喜和は、はっきりとこたえた。 「もう二度と、おうかがいいたしませぬ」 「忝《かたじけ》ない」  辞去する喜和を、幻夢は、見送るとよい、と伊織をうながした。  伊織は、山桜のところまで、送って出た。  喜和は、そこで、立ちどまり、伊織に、 「これにて、こん後、再び、お逢《あ》いすることはない、と心を決めなければなりませぬなあ」  と、云った。  そうしたくない女心を、全身に滲《にじ》ませていた。  十二歳も年下とはいえ、喜和にとって、伊織《いおり》は、もはや、子種をくれるだけの男性ではなくなっていた。 「…………」  伊織は、返辞をするかわりに、激しく燃える眼光をかえしておいて、くるっと踵《きびす》をまわした。 「伊織どの!」  喜和は、必死に呼びとめた。  しかし、伊織は、振りかえらず、草庵《そうあん》の中へ消えた。   不意撃ち     一  伊織が、喜和の女体を——肌《はだ》の白さ、柔かさ、しなやかさや、放恣に下肢を拡げたかたちや、滑らかな唇や豊かな乳房の感触、そして、官能の悦《よろこ》びに堪えきれずにもらす呻き声などを、記憶の外へ押しのけ、薄れさせるには、一年あまりを必要とした。  しかし、全く消し去ることは、不可能であった。  夜半、睡《ねむ》れぬままに、闇《やみ》に目をひらいている時など、不意に抑えようもない激しさで、よみがえって来て、股間に堪えがたいまでの疼痛《とうつう》の変化が起った。  ——いっそ、明日、たずねて行って、もう一度!  真剣に、そう決意したりもした。  草庵には、相変らず、いくさ後家が訪れていたが、そうした折、身をかわして、盆地を見はるかす丘陵の草地などに腰を下している時にも、突如として、欲情は、五体を燃やした。  誰に教えられたともなく、伊織は、自涜《じとく》を行なうようになった。そうしなければ、物狂おしい衝動をしずめることは不可能であった。  ——わしにも、いくさ後家をあてがって下されてもよいではないか。わしは、もう女子の肌を知ってしまったのだから……。  そんな不満も、心中に起った。  伊織は、幻夢が、いくさ後家を抱いても、終始平静で、一滴の精液も、その体内へ放っていないことを、知らされていなかった。  伊織が、喜和に再会したのは、翌年秋——一年半ぶりであった。  偶然であった。  伊織は、幻夢に命じられて、藤堂《とうどう》家の支城へ、手負わせずに捕獲した猪《いのしし》一頭を、とどけに行った。  その帰途、路上で、ばったり、喜和に再会したのである。 「伊織どの——」  さきに、声をかけたのは、喜和の方であった。伊勢笠《いせがさ》をかぶり、山菜の竹籠《たけかご》をかかえていたので、ただの地下衆《じげしゆう》の女と思って、すれちがおうとしたのである。 「あ——喜和どの!」  三箇月のあいだ、百地家の血統を享《う》け継ぐ子をつくるために、必死に契《ちぎ》り合った仲であった。  伊織は、よろこびで、胸がはずんだ。しかし、それを抑えるために、かえってこわばった、慍《おこ》ったような表情になった。 「|やや《ヽヽ》を産みなされたか?」  伊織は、喜和の顔をまぶしいものに見まもり乍《なが》ら、訊《たず》ねた。 「口惜しいことに、女の子でありました。父が他界するのと入れちがいに、生まれました」 「では、母子二人で、くらしていなさるのか?」 「はい」 「ひと目、会わせて下され」  とっさに、そのたのみが、伊織の口をついて、出た。  喜和は、ちょっとためらった。  伊織とは二度と逢わぬ、と幻夢に約束した喜和であった。 「そなたが、訪れて来ぬ、となれば、伊織は、欲情を抑え、堪えねばならぬ。その苦しさも、兵法修業のひとつ。そなたには、よくおわかりであろう。伊織を、一流の兵法者にさせて下され」  幻夢は、そうたのんで、頭を下げたのである。喜和も、諒承《りようしよう》して、再び、草庵を訪れぬ、と誓ったのであった。  喜和にとって、これは、つらいことであった。いつの間にか、喜和は、伊織を愛していたのである。  別離にのぞんで、伊織の態度がひどく冷たかったのが、喜和には悲しく、その当座は、胸がふさがれて、なにをするのも生気がなくなっていた。  いま——。  一年半ぶりに再会して、伊織が、慍ったようなこわばった表情で、子供にひと目会いたい、と申し出るのをきいて、喜和には、女の直感で、判《わか》った。  ——あの時、この人も、わたしと別れるのが、つらかったのだ。  伊織を、わが家にともなえば、嬰児《えいじ》を見せるだけでは、すまなくなることは、目に見えていた。  喜和は、幻夢との約束を破ることが、おそろしかった。 「おねがい申す! ひと目、会わせて下され!」  伊織は、かさねて、たのんだ。     二  百地《ももち》屋敷は、天正《てんしよう》の乱に、ただひとつだけ焼失をまぬがれた伊賀一国の納経所・青黄竜寺(のちの延寿院)に至る山峡《やまかい》の渓流《けいりゆう》に沿うた径《みち》を、かなり奥に入ったところにあった。  二丈余もあろう石垣《いしがき》が築かれ、その石はすべて矩形《くけい》で、いざとなれば、総崩れにして、攻め手を渓谷に押しつぶしてしまう仕掛けになっているようであった。  石段は、正面に設けられてはいなかった。石垣の右手の蔭《かげ》にかくされてあり、それも、上り口が枡形《ますがた》になった用心深さであった。  石垣の上は、塀《へい》の代りに櫓《やぐら》がそびえていた。  田畑は、渓流をへだてて、急勾配《きゆうこうばい》に迫った山麓《さんろく》に、幾重もの段をつくり、下忍《げにん》の小屋を配していた。  つまり、百地屋敷は、こちら側の山腹から、傲然《ごうぜん》と、村落を睥睨《へいげい》している構えをみせていた。  ——こんな大きな屋敷に、この女子は、あるじとして、くらしているのか!  喜和の案内で、石段をのぼって行き乍ら、伊織は、いささか、おそれに似た感情を起していた。  のぼりきると、喜和は、 「どうぞ庭から座敷《おく》の方へ——」  と、指さした。  櫓と母屋《おもや》の間に、広い庭があったが、二つの中門をくぐらなければならなかった。  すべての建物は、天正の乱で烏有《うゆう》に帰し、筒井|定次《さだつぐ》の治政下に、帰って来た時、再建されたものとみえて、まだ木の香も匂《にお》う新しさであった。  上忍《じようにん》としての格式を保つべく、下忍一同を動員して、復元した構えは、まことに堂々としていた。百地家は、上忍であるとともに、荘園《しようえん》の名主からのしあがった国衆でもあったに相違ない。  伊織は、奥座敷の縁側に、棕櫚竹《しゆろちく》編みの大きな籠の中へ、人形のように入れられている嬰児を、見出した。  ——これが、わしの子か。  十七歳の伊織には、しかし、父親としての実感など湧《わ》くべくもなかった。  嬰児は、しきりに自分の指をしゃぶり乍ら、つぶらな眸子《ひとみ》で、伊織を仰いで、べつに泣きもしなかった。  ——わしの子なのだ、これが!  伊織は、おのれに云《い》いきかせた。  とたんに、嬰児は、それに応《こた》えるように、 「あ、あ……わう、わあ、わう……」と、声をあげた。  喜和が入って来て、 「おお、よしよし、お腹《なか》が空《す》いても、泣かずに、よう待っていましたな」  と、抱きあげると、胸をひろげた。  伊織は、視線をそらしたが、乳首に吸いついた嬰児の唇の音が、耳にひびいた。 「そなた、男の子であったらよかったのに……。そなたが、二十年後に、百地家を継ぐ男の子を、産んでたもれ」  喜和が、そう云いきかせているのをきいた伊織は、視線をそらしたまま、 「もう一人、産めばよい」  独語のように、云った。 「え——?」  喜和が、ききかえした。 「……こんどは、男の子を産めばよい」  伊織は、こたえた。 「伊織どの!」 「わしは、欲情を抑えるのが、兵法修業のひとつとは、思わぬ。喜和どのを愛し、睦《むつ》び合うのが、どうして、修業のさまたげとなるのか? わしは、かまわぬ、と思うんだ。……幻夢先生は、わしに、自然にさからわず、自然にしたがって生きよ、と教えられた。だから、わしは、夜が明けるとともに、目覚めて、起き出たし、日が暮れるとともに、就寐して、睡った。この理《ことわり》にしたがえば、欲情も、発した時には、抑える必要はない、と思うんだ。喜和どのが、ここでくらしているのだから、わしは、五日に一度ずつ、かよって来ても、すこしもかまわないわけだ。そうなんだ! わしが他国へ去《い》なぬうちは、喜和どのと夫婦《めおと》のくらしをつづけてもよいではないか!」 「…………」  伊織は、豊かな胸の隆起を、嬰児に与えている喜和を、正視した。 「喜和どの! わしは、まちがって居《お》らんつもりだ。あんたが、好きなんだ。あんたも、わしを、忘れては居らんだろう? な、そうだろう?」 「ええ!」  喜和は、うなずいた。 「ならば、誰に遠慮もせず、夫婦の契りを、つづけたらいいんだ!」 「…………」  喜和は、顔にもからだにも熱情をあふらせて、云いつのる伊織を、優しく包むように、じっと見まもっていた。  やがて——。  喜和は、育て篭に、嬰児をもどすと、黙って、座敷に臥牀《ふしど》を敷きのべ、八扇|屏風《びようぶ》をたてまわした。     三  翔《か》けるがごとく、疾駆して、伊織が、「洗心洞」へ戻って来た時、もう陽《ひ》は、西の山の端《は》へ、傾いていた。  伊織は、大急ぎで、夕餉《ゆうげ》の膳部《ぜんぶ》をつくらなければならなかった。  草庵には、燈火《とうか》の用意はなかったので、宵闇《よいやみ》が来る前に、夕餉を摂《と》り了《お》えるならわしであった。  ——間に合ったぞ!  伊織は、額に汗を滲《にじ》ませ乍ら、二つの膳部を、炉端へはこんだ。  合掌をすませて、箸《はし》を把《と》った時、幻夢が、ぼそりと云った。 「匂うの」 「…………」 「——喜和どのの匂いのようだ」  伊織は、ごくっと固唾《かたず》をのんで、幻夢を視かえした。  幻夢は、それだけもらしただけで、あとは黙々として、喰《た》べた。  伊織は、幻夢の直感の鋭さに、おそれをおぼえたものの、看破されたのを、逆に利用して、おのが存念を述べたい、と思った。  思ったものの、どうしても、言葉が口から出なかった。  幻夢が、きびしくとがめてくれれば、居直ることもできたろう。幻夢が、それきり沈黙してしまったために、伊織は、どうしても、云い出せなかった。  会話はなく、夕餉が終ると、幻夢は、銭形屏風のむこうへ入った。  台所へ、膳部を下げて、水洗いした時には、もう、宵闇が来ていた。  幻夢は、すでに睡ってしまったに相違なかった。  伊織は、囲炉裏の粗朶火《そだび》を消して、牀《とこ》に仰臥《ぎようが》したが、大きく双眸《そうぼう》をひらいたなり、  ——どうして叱咤《しつた》されなんだのか?  と、考えた。  この草庵に来てから、伊織は、はじめて、師に反逆したのである。  ——明朝になったら、出て行け、と云われるかも知れぬ。  ——きっと、出て行け、と云われるにちがいない!  修業なかばにして、追い出されるのは、くやしかったが、そう云われたならば、やむを得なかった。  ——その時は、百地屋敷に行って、喜和どのと一緒にくらす。喜和どのから、忍びの術を習うてやる。  しかし——。  朝餉の膳部に就いても、幻夢は、伊織に、「出て行け」とは云わなかった。  幻夢の沈黙は、伊織にとって、無気味であった。  伊織《いおり》は、罪を背負った囚徒のような重い気分で、朝餉を摂り了えた。  台所で、食器を洗い乍ら、  ——よし! これがすんだら、先生に、わしの方から、申し出てやる!  と、|ほぞ《ヽヽ》をきめた。  その時、しのびやかに、跫音《あしおと》が戸口に近づいて来た。  いくさ後家の一人が、野良《のら》仕事の前に、幻夢に抱かれに来たのである。  ——ちぇっ!  伊織は、舌打ちした。  裏口から出た伊織は、薪割《まきわ》りをはじめたが、なんとなく、むしゃくしゃして来た。  ——わしは、悪いことをしたのじゃないんだ!  お師匠様だって、いくさ後家衆を、なぐさめているだけではなく、自分も愉《たの》しんでいるではないか。  六十過ぎた老爺《ろうや》が、愉しんでいるとすれば、まして十七歳の若者である自分が、愉しんでどこがいけないというのだろう。  ——修業のさまたげになるというのか?  伊織は、一瞬、険しい面相になり、長い薪をつかんで、じっとそれを瞶《みつ》めた。  ——やるぞ!  おのれに、決然と、云いきかせた。  はだしになった伊織は、跫音を消して、おもてへまわった。  銭形屏風の蔭から、いくさ後家のわれを忘れたひくい呻《うめ》き声がもれていた。幻夢を乗せて、大きく拡げた下肢《かし》の、あらわになった脛《すね》がのぞき、足の指をびくびくと痙攣《けいれん》させているのが、見えた。  伊織は、それへ、忍び寄って行った。  ——あせるな! おちつけ!  ゆっくりと肩を上下させて、呼吸をととのえた。  次の瞬間——。  屏風をまわり込みざま、伊織は、薪を、びゅん、と幻夢の頭部めがけて、搏《う》ちおろした。  幻夢は、いくさ後家を抱いたまま、くるっと一|廻転《かいてん》した。  むなしく、牀を叩《たた》いた伊織は、かっとなり、無我夢中で、幻夢めがけて、 「えいっ!」  と、第二撃をはなった。  かわされた、という意識も来ぬうちに、伊織は、躰《からだ》を宙へ抛《ほう》りあげられていた。  屋鳴りをさせて、床へたたきつけられた伊織は、くやしさで、思わず、 「くそっ!」  と、叫んだ。 「伊織——」  幻夢は、無表情で、伊織を見下して、云った。 「お前は、喜和どのと、このように抱き合っている時、不意を襲われて、躱《かわ》す自信があるかな? その自信が、あれば、百地屋敷へ、かようのは、一向に、さしつかえないぞ。……自信がないのなら、行かぬことだ」   逃げ水     一  初秋——。  宮本武蔵は、逃げ水を追うて、草の海の中を、渡っていた。  当時、草の海とは、武蔵野《むさしの》の別称であった。月は草より出て草に入り、虹《にじ》は原より起って原に落ち、帰雲はむなしく野に迷う——関東の原野のひろがりは涯《はて》がないままに、往古の姿をとどめていた。 [#ここから1字下げ] 武蔵野やしばしやすらへ子規己《ほととぎすおの》が入るべき山の端《は》もなし(洞院摂政) 武蔵野は行けども秋の果ぞなき如何《いか》なる風の末や吹くらん(通光) 行末は空も一つの武蔵野に草の原より出《い》づる月影(後京極) 草枕《くさまくら》あまた旅寝を数へてもまだ武蔵野の末ぞのこれる(頼康) 武蔵野は月の入るべき峰もなし尾花が末にかかる白雲(通方) [#ここで字下げ終わり]  などと、原野の広さを詠《よ》んだ歌は、すくなからずある。なかでも、  武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ  この古歌が、最も人口に膾炙《かいしや》しているが、伊達政宗《だてまさむね》は、ある時、これを評して、 「武蔵野を大きく取りなしたのは、きこえて居るが、さて、月のためには如何《いかが》なものであろう」  と云い、自ら左の歌を、詠んだ。  出づるより入る山の端《は》は何処《いづく》ぞと月に問はまし武蔵野の原  近衛《このえ》関白が、この歌をきいて、 「縉紳《しんしん》家も及ばず」  と、激賞した、という逸話ものこっている。  いずれにしても——。  武蔵野は、『万葉集』などの古歌に詠《うた》われた頃《ころ》のままの千草|生《お》うる景色を、ひろげて居り、孤独な兵法者がゆっくりと辿《たど》っている古街道は、そのむかし、八幡太郎義家《はちまんたろうよしいえ》が陸奥《むつ》へ下向した時とすこしも、眺《なが》めを変えてはいないようであった。  それが、証拠に、行手に、逃げ水があった。  武蔵野の逃げ水。  これは、筑紫《つくし》の不知火《しらぬい》のごとく、越中その他で見える海原の上に浮き立つ蜃気楼《しんきろう》のごときもので、真《まこと》の水でもなく、川でもなかった。  陽春から初秋にかけて、空の麗《きよら》かな、風の和らいだ日、遠く、草の海の彼方《かなた》に、水影がさらさらと流れているのが、眺められた。  ゆらめく波光の中に、舟や人や馬の渉《わた》ってゆくのがみとめられて、彩色《いろどり》もあざやかに、絵よりも美しいのであった。  はじめて、その水影を眺めた者は、思わず声をあげて、足を急がせる。  しかし、その処《ところ》へいたってみると、ただ草が芒々《ぼうぼう》とひろがっているばかりで、水はどこにも流れてはいないのであった。  水は、去って、はるか前方を流れているのであった。こちらが進めば、水も遠のき、いくら追っても、ついに、それに近づくことは不可能であった。それゆえに、逃げ水、という。  その逃げ水を追って、武蔵は、江戸を去ろうとしていた。  武蔵自身、逃げ水になったように——陽炎《かげろう》のごとく、江戸という天下の覇府《はふ》に、ついに、おのが名をとどめることも叶《かな》わずに、消え失《う》せようとしていた。  幕府は、府内に住む牢人者《ろうにんもの》を、ことごとく、退去せしめる布令を出したのであった。たとえ、氏素性が明白な武辺でも、牢人者である以上、例外をみとめなかった。  その措置が、いよいよ大坂城を攻め滅す秋《とき》の迫ったことを暗示していた。家康《いえやす》は、大坂城から放たれた間者を、府内から追いはらうように、将軍|秀忠《ひでただ》に命じたのである。  家康が豊臣《とよとみ》家を滅亡せしめる肚《はら》をきめたのは、すでに遠く、関ケ原役が終った直後からであった。  ただ、その時節を、見あやまってはならなかった。家康は、異常なまでの忍耐力で、待つことに馴《な》れていた。  家康は、豊臣|秀吉《ひでよし》恩顧の武将たちが、他界するのを、待ったのである。  家康自身、いつ死神の迎えを受けるか知れぬ老齢に達し乍《なが》ら、  ——大坂城を攻略して、豊臣家を滅亡せしめ、太閤《たいこう》が蓄えた軍用金を奪いとるまでは、断じて死なぬ!  その執念を燃やしていた。  関ケ原役から十一年を経て、家康の呪《のろ》いでも蒙《こうむ》ったように、まず、浅野長政が六十五歳で逝《い》き、つづいて、真田昌幸《さなだまさゆき》が六十五歳で、堀尾吉晴《ほりおよしはる》が六十九歳で亡《な》くなり、そして、加藤清正が五十歳で、そのあとを追ったのであった。  これらの武将のうち、加藤清正の死は、家康を、大層よろこばせた。  加藤清正という武将の存在は、家康が大坂城へ軍を進める街道上に、どっかと居据《いすわ》った巨巌《きよがん》にひとしかった。     二  加藤清正は慶長八年に家康が征夷大将軍《せいいたいしようぐん》に任ぜられるや、  ——もはや、徳川家に抗すべくもない。  と、覇権の行方に、不服をとなえはしなかった。  しかし、清正は、藤堂高虎《とうどうたかとら》や伊達政宗のごとく、大坂城の豊臣|秀頼《ひでより》を、見すてはしなかった。  清正にとって、秀頼はあくまでも、主君であった。  ——この清正が、この世に在る限り、徳川家康に、太閤遺孤を滅させはせぬ!  その覚悟は、不動のものであった。  家康に恭順はするが、秀頼は一身に代えても守る——その一念であった。  慶長十六年三月二十七日、京都二条城に於《お》いて、家康、秀頼の会見を実現せしめたのも、豊臣家安泰をねがう清正が、浅野長政、福島《ふくしま》正則《まさのり》と鳩首《きゆうしゆ》協議し、周旋したからであった。  清正は、二条城の会見が無事に終了して、秀頼を大坂城へ送りとどけ、退出して宿所へ帰り、寝所に入った時、肌身《はだみ》にかくした短剣を抜き、しばらく眺めて、鞘《さや》に納め、目蓋《まぶた》を閉じた。その頬《ほお》を、泪《なみだ》が、つうっ、とつたい落ちるのを、宿直《とのい》の近習庄林|隼之助《はやのすけ》が、目撃している。  清正は、二条城に於いて、もし万が一、秀頼の身に不慮のことがあったならば、その短剣を抜いて、家康に躍りかかって、刺し、おのれも死ぬ|ほぞ《ヽヽ》をかためていたのである。  その短剣は、むかし清正が、虎之助《とらのすけ》といった頃、志津ケ岳の合戦で手柄《てがら》をたてた時、秀吉から褒美《ほうび》としてもらった品であった。  家康は、すでに、その時、七十歳であった。  清正は、家康よりさきに、自分が逝くとは、夢にも考えてはいなかった。  もし家康が、おのが老齢にあせって、大坂城を攻めたならば、清正は、浅野、堀尾、福島らとともに、軍勢を率いて、馳《は》せのぼって来て、関東勢と決戦をまじえたに相違ない。その結果は、清正は、決して、石田|三成《みつなり》の二の舞いはやらなかったであろう。  二条城の会見が終って、一月|経《た》たぬうちに、浅野長政が逝き、そのあとを追って、二月後に、真田昌幸、堀尾吉晴、加藤清正が、ばたばたと、この世を去ったのである。清正が毒殺された、という噂《うわさ》が流れたのも、当然であった。  十九歳の秀頼の不幸であり、七十歳の家康の幸運というべきであった。  清正の他界によって、豊臣家の命運は尽きたのである。  一人の孤独な決闘者にとっては、しかし、そのような天下の形勢は、無縁であった。  府内から牢人者全員退去の布令が出された時、武蔵は、江戸にとどまらねばならぬ理由など、なにひとつなかった。  武蔵は、江戸から立ち去るにあたって、和田倉御門内にある細川家の江戸屋敷に、長岡佐渡《ながおかさど》を、訪ねた。  妻六から、長岡佐渡が出府している、ときかされたのである。  しかし、武蔵が会ったのは、大坂屋敷で会ったのと同一人物ではなかった。  大坂屋敷で、武蔵から、主君|忠興《ただおき》の息女千恵を受けとったのは、長岡興長であった。このたび出府していたのは、その興長の父|康之《やすゆき》であった。  古稀《こき》に近い老人であったが、長岡佐渡守康之は、天下に武名をとどろかせている武辺《ぶへん》であった。  長岡は、本姓ではなく、細川家の別姓をもらったものであり、本姓は松井、足利《あしかが》将軍家の旗本であった。  つまり、松井佐渡守康之は、もともと、足利将軍家の側《そば》に仕えていた細川|藤孝《ふじたか》(幽斎《ゆうさい》)とは、同輩であった。  細川藤孝は、三淵伊賀守《みぶちいがのかみ》宗薫の子で、長岡家を嗣《つ》ぎ、長岡|兵部大輔《ひようぶのたいふ》と名のっていたが、のちに、細川|播磨守元常《はりまのかみもとつね》の養子となり、足利将軍|義晴《よしはる》、義輝《よしてる》の二代に仕えて、忠良の臣であった。  永禄《えいろく》八年五月十九日、三好、松永らの乱によって、将軍義輝が弑逆《しいぎやく》された時、義輝の弟一乗院門跡|覚慶《かくけい》も、叛逆《はんぎやく》の徒に囚《とら》えられた。細川藤孝は、この覚慶を救出して、還俗《げんぞく》させ、次代将軍家にすべく、計略をめぐらした。  その計略実行にあたり、軍師役を引受けたのが、松井佐渡であった。  覚慶は、藤孝と佐渡の必死の働きで、一乗院から遁《のが》れ出て、奈良の春日《かすが》山を越え、近江《おうみ》国に落ち、佐々木入道|承禎《しようてい》の館《やかた》に、身をひそめることができた。すなわち、還俗して十五代足利将軍|義昭《よしあき》となったのが、この人物である。  義昭が、織田《おだ》信長によって、将軍となることができたのも、ひとえに、細川藤孝と松井佐渡の力に由《よ》った。  将軍義昭が、浅慮ゆえに、武田信玄《たけだしんげん》、上杉謙信《うえすぎけんしん》、毛利輝元《もうりてるもと》らの援《たす》けをたのんで、信長を滅そうと計るのを、けんめいにとどめようとしたのも、藤孝と佐渡であった。  天正元年正月、義昭は、信長討伐の兵を挙げたが、藤孝と佐渡は、その思慮の足りなさに絶望した。  それでも、藤孝は、義昭が信長から滅されることを、なんとか、くいとめた。  しかし、いったん、信長に和を請い、誓書を交換した義昭が、同年七月、再び兵を挙げるや、藤孝は、主人を見すてざるを得なかった。  宇治|槇島《まきしま》に拠《よ》った義昭は、わずか十数日で、信長によって城を落され、普賢寺に奔《はし》って、降伏を乞《こ》うた。  信長は、朝廷に迫って、義昭から、官爵《かんしやく》を剥《は》ぎとった。足利十五代——二百三十九年の長きにわたる将軍家の座は、ここに、破滅した。  信長は、細川藤孝の忠勇を賞して、部将の一人に加えた。その時、松井佐渡は、正式に、細川家の家老となり、長岡姓をもらったのである。  豊臣秀吉の時代になると、長岡佐渡は、上杉|景勝《かげかつ》の直江山城守《なおえやましろのかみ》、石田三成の島左近《しまさこん》とともに、天下の三家老と称《うた》われていた。  細川家の家臣であり乍ら、朝臣に列せられ、従五位下《じゆごいげ》に任じた。細川家に於ける禄高は二万六千石であった。  藤孝は、本能寺の変ののち、剃髪《ていはつ》して入道となり、玄旨《げんし》と称し、幽斎と号した。  秀吉が逝き、家康と三成の対立となるや、細川父子は、前者に味方した。  関ケ原役がおわると、幽斎は、完全に隠居の身となった。嫡男《ちやくなん》忠興と、性格上|そり《ヽヽ》が合わなかったせいもあり、洛西仁和寺《らくせいにんなじ》の近くに、草庵《そうあん》を編み、ここにこもって、しずかに風月にうそぶき、昨年——慶長十五年八月二十日に逝った。  長岡佐渡の方は、忠興から隠居を許されず、なお、国許《くにもと》で筆頭家老の職にあったが、事実上は、嫡男興長に、すべての政務をまかせて、気楽な隠居ぐらしになっていた。     三  長岡佐渡守康之は、将軍秀忠に呼ばれて、出府し、大坂城攻略の意見をきかれたのであった。  足利義輝以来、天下人の地位が、つぎつぎと変るのを、その目で見とどけて来た佐渡守康之は、豊臣の命脈が尽きはてたことを、看通《みとお》していた。 「やむを得ぬ仕儀かと存じます」  と、こたえて、江戸城を退出して来た。  そこへ、宮本武蔵という兵法者が、訪れて来た、と告げられたのであった。  佐渡守康之は、気軽に、武蔵と会った。  武蔵を書院に通して、会ったのは、|わけ《ヽヽ》があった。  佐渡守康之は、洛外松井の地頭であった頃、美作国《みまさかのくに》吉野郡宮本村の長《おさ》であった新免《しんめん》伊賀守と、きわめて懇意だったのである。  武蔵が、新免家血族ときいたので、親しみをおぼえたのである。  対座した佐渡守康之は、一瞥《いちべつ》して、  ——これは、尋常一様の面《つら》だましいではない。  と、看てとった。 「伜《せがれ》から、きき及んだが、お許《こと》は、小西家残党の頭領小西与五郎を斬《き》って、わがあるじの息女を、救うてくれたそうなが、この恩はかえさねばならぬ。……どうじゃな、当家に随身する存念はあるまいか?」  武蔵は、いまだ修業中の身でありますれば、とことわった。  すると、佐渡守康之は、 「では、別のたのみをいたそうかの」  と、云《い》った。 「…………」 「わがあるじが、今春、兵法師範として、召抱えられた者が居る。巌流《がんりゆう》佐々木小次郎と申すが、京洛をのし歩いていたというから、お許も、見知って居るのではあるまいかな?」 「あります」  武蔵は、こたえた。 「わしは、巌流と名づけた一心一刀虎切刀という業《わざ》を視《み》たが、噂にたがわぬ、鬼神にひとしい速技であった。その限りでは、まさに、天下一流の兵法と申せる。……しかし、佐々木小次郎は、一国の師範たるべき器量ではない。人格に、いやしさがある。野にあってこそ、その獰猛《どうもう》ぶりを発揮できる猛虎《もうこ》と、看た」 「…………」 「お許は、近い日、下向して、小倉に参ってくれまいか?」 「佐々木小次郎と試合をせよ、と申されますか?」 「左様——、わしの知る限りでは、巌流と互角の勝負をし得るのは、お許を措《お》いて、他には居るまい」  武蔵は、承知つかまつりました、と約束して、細川家を辞去したのであった。  江戸を去るにあたって、武蔵が、得たのは、その目的《ヽヽ》だけであった。  武蔵は、妻六に、 「一人になりたい」  と、云って、別れて来た。  ——佐々木小次郎に勝つには、工夫が要《い》る。  工夫するためには、孤独にならなければならなかった。  ふと——。  気がつくと、彼方《かなた》に流れていた逃げ水は、消えていた。  いつの間にか、古街道をそれていた。  ——このまま、まっすぐに進めば、秩父《ちちぶ》に至るかも知れぬ。  武蔵にとって、行先はどこでもよかった。急がぬ旅であった。   武蔵野《むさしの》娘     一  欅《けやき》の疎林《そりん》に掩《おお》われた小さな丘を、武蔵は、いくつか越えた。  |けものみち《ヽヽヽヽヽ》といってもいい、細い径《みち》が、西北へ向って、まっすぐにつづいていた。  ——武蔵|七党《しちとう》が熾《さか》んであった頃《ころ》は、この道を、疾駆したのであろうか。  とある丘を降りると、芒々《ぼうぼう》と、いちめんの薄《すすき》が、その穂を、秋風になびかせていた。  はるか彼方の森の中に、古刹《こさつ》があるのであろう、鯨鐘が薄の原野を渡って来た。  ——正午か。  夜明け前に、府内を出た武蔵は、かなりの空腹をおぼえていたので、糒《ほしい》をもどして、中食を摂《と》るべく、原野を見渡した。  逃げ水ではなく、まことの小川を見つけたかった。  山野を住居としてくらして来た武蔵には、独特のカンがあった。  右方の丘陵へ、目をとめて、その麓《ふもと》が、谷間になっているな、と看てとった。水は、そこを流れているに相違なかった。  武蔵は、薄の中へ踏み入った。  薄の穂は、顔を撫《な》でるほど深かったが、こういう原野を踏みわけて行くことには、馴《な》れている武蔵であった。  見当は、はずれなかった。  勾配《こうばい》が急になり、雑木の底から、水音がひびいて来た。  流れの際《きわ》に降り立った時——。  武蔵は、水の中に、意外なものを見出した。  死体であった。一瞥して、それは、若党と知れた。  さし出た灌木《かんぼく》の枝をつかんだなり、死んでいた。事切れて間もないのが、みとめられた。  武蔵は、周囲へ、視線をめぐらした。  木立の蔭《かげ》に、裾《すそ》をみだした白い脚が、のぞいているのを、みとめた。  近づいてみると——。  それは、まだうら若い武家の女房であった。  凌辱《りようじよく》されている、無慚《むざん》な姿を、そのままに、明るい陽《ひ》ざしの中にさらしていた。下腹は、あらわに捲《まく》りあげられ、片方の脚は、大きく拡《ひろ》げられて、ねじ曲げられていた。  貌《かお》も美しく、肌理《きめ》こまやかな白さで、まだ二十七、八歳であろう。のみならず、衣裳《いしよう》や、あたりにちらばった懐剣のつくり、市女笠《いちめがさ》の立派さなどから、推測して、かなり身分の高い武家の女房と、察しられた。  武蔵は、ふっと、その眉宇《びう》が、微《かす》かに動くのを視た。  胸へ耳をあててみた。鼓動が、とぎれとぎれ乍《なが》ら、残っていた。  ——どうせ、たすかるまいが……。  そう思いつつ、そっと抱き起して、瀕死《ひんし》の身に、意識をよみがえらせてみた。  やがて……。  女は、うっすらと眸子《ひとみ》をひらいた。 「遺言があれば、うかがおう。それがしは、旅の兵法者です」 「……ああ——」  喘《あえ》ぎの中から、女は、わずかの時間この世にとどめる生命の火を、燠《おき》のように、死相の貌にともした。 「何者に襲われなされた?」 「……むさし、七党の……後裔《こうえい》に……」 「………?」 「わたくしは、公儀|麾下《きか》……土井大炊頭《どいおおいのかみ》様の与《くみ》……松平内膳正の妻——」 「ご主人は、武蔵七党の後裔から、意趣を買うて居られたか?」 「……い、いえ、——関東を奪った徳川家に、う、うらみを、はらす、とか……」  徳川将軍家に、怨恨《えんこん》を抱き、これに復讐《ふくしゆう》を企てているのであれば、旗本の妻女を拉致《らち》して、凌辱するのは、坊主《ぼうず》が憎ければ袈裟《けさ》まで憎いとはいえ、これは、あまりに、卑劣な八つ当りである。  松平内膳正の妻は、ほどなく事切れた。さいごに、子供の名を口にしたようであった。  武蔵は、両手を胸で組ませてやり、前をととのえておいて、傍をはなれた。  七、八歩はなれた地点にも、下士一人と若党二人が、斃《たお》れていた。  槍《やり》と刀で仕止められていたが、いずれも一撃であった。  ——ただの野伏《のぶせり》ではない。武芸の習練を積んだ者どもの仕業だ。  そう看てとった武蔵は、急に五体に、闘志がみなぎるのをおぼえた。  ——武蔵七党の後裔どもならば、敵にまわして、不足はない!     二  武蔵七党。  古来、坂東《ばんどう》武者として、その勇武の名は、高かった。  横山党、猪俣《いのまた》党、野与《のいよ》党、村山党、西党、児玉《こだま》党、丹《たん》党——坂東武者は、この七党のうちのいずれかに属していた。  横山党は、参議|小野《おのの》| 篁 《たかむら》を始祖と仰ぎ、篁九世の子孫義孝が、武蔵|権介《ごんのすけ》に任ぜられ、武州南多摩郡横山に住んだので、これを氏とした。その子孫は、海老名《えびな》、室伏、平子、大串、樫原、古市、小沢、小俣など、三十余家に分れた。  猪俣党も、小野篁より出て、横山義孝の弟|時資《ときすけ》の嫡男《ちやくなん》時範が、武州児玉郡猪俣に住んだので、これを氏とした。その子孫は、酒勾、大田、甘糟、山崎、岡部など、十数家に分れた。  野与党は、平氏であった。鎮守府将軍|良文《よしぶみ》から六世を経て、|平 《たいらの》基永《もとなが》が、武州南埼玉郡野与に住んで、野与六郎と称した。それに因《よ》って、野与党または私市《きさい》党とも曰《い》った。その子孫は、鬼窪《おにくぼ》、渋江、多賀谷、西脇《にしわき》、金重、野島、高柳など十数家に分れた。  村山党も、平氏であった。野与基永の弟|頼任《よりとう》が、武州北多摩郡村山|郷《ごう》に住んで、村山|貫首《かんず》と称した。その子孫は、大井、宮寺、山口、須黒、仙波、難波田など、十数家に分れた。  西党は、日奉《ひぶ》宗頼の孫宗忠が、武州南多摩郡平山に住んで、西を氏としたので、そこから起っている。その子孫は、分れて、長沼、上田、稲毛、川口、由井、中野、田村、高橋など十数家となった。  児玉党は、藤原氏から出ている。内大臣|藤原《ふじわらの》伊周《これちか》の孫|経行《つねゆき》が武州児玉郡児玉に住んだので、これを氏とした。児玉党は、その子孫が最も多く、本庄、若木、宮田、阿佐美、塩屋、富田、芦田、新生、黒岩、浅羽、長岡、高坂、岩田、大沢、片山、奥平、白倉、吉島、山名、小河原、木西など、五十数家に分れた。  丹党は、宣化《せんか》天皇の後胤《こういん》丹治氏より出ていた。その一族桑名峰時が、武州児玉郡|丹《たん》ノ庄《しよう》に住んで、丹|貫主《かんず》と称したことから、この氏が起っている。その子孫は、児玉党に次いで多く、大河原、中村、長田、坂田、織原、勅旨河原《てしがわら》、新里、安保、長浜、青木、柏原、竹淵、黒谷、由良、野上、井戸、葉栗など、四十数家に分れた。  平治の乱にあたっては、待賢門の戦いで、悪源太義平《あくげんたよしひら》の十七騎として、勇名を馳《は》せた猪俣小平六則綱、岡部六弥太忠澄の二人は、猪俣党であり、金子十郎家忠は村山党であり、平山武者所季重は西党であり、また、畠山次郎重忠《はたけやまじろうしげただ》を討ちとった愛甲三郎季隆は横山党であった。  畠山重忠の老臣|榛沢《しんざわ》六郎成清は、丹党であった。  この時代の坂東武者は、まことに、豪壮勇猛を面目とし、廉恥《れんち》名節を守り、死を視ること帰するがごとく、法刑いまだ加えざるにまず自ら刃《やいば》に伏す気概をそなえていた。 「誓って、背《そびら》には矢を立てじ。父が討たれれば、兄がその屍《しかばね》を乗り越え、その兄が斃れれば弟がさらにその屍を踏んで進むべし」  武蔵七党は、いずれも、その誓いを、胸中に蔵していた。  かれらは、源平時代(後白河帝《ごしらかわてい》より後鳥羽帝《ごとばてい》まで——平氏が滅亡するまでのおよそ三十年間)に、その勇武のほどを、存分に発揮した。  しかし、鎌倉《かまくら》時代に入って、武蔵七党は、横山、猪俣、野与、丹の四党のほかは、おおむね滅亡してしまった。  さらに——。  その四党も、南北朝時代を経て、室町時代に入った頃には、それぞれ、武蔵野の片隅《かたすみ》に、構えたおのが館《やかた》を守るだけの郷士となり、京師《けいし》に上って、その武名を挙げる者は一人もいなかった。  尤《もつと》も——。  南北朝時代から、いちじるしくその兆《きざし》を示しはじめた武士の無節操、奢侈《しやし》、利己主義が、室町時代にいたって瀰漫《びまん》した——その風潮からも、この武蔵野の郷士は、除《の》けられたのである。先祖の誓いは、そのまま、受け継がれ、勇猛の面目を保ちつづけた。  やがて、応仁《おうにん》の乱が起り、天下が四分五裂する戦国時代に入るや、武蔵七党の後裔たちも、その勇猛の面目を買われて、諸国の武将の麾下となって、働いた。  そして、かれらが知ったのは、弱肉強食の方則であり、おのが利のためには、主人を殺し、親を殺しても、いささかもはばからぬ人間の残忍性であった。  ひたすら剛勇を競い、怯夫《きようふ》と軽蔑《けいべつ》されることだけを避ければ、いかなる冷酷な所業を犯してもかまわぬ。  この考えは、直情径行の武蔵七党の後裔たちにとって、願ってもないことであった。  勇武の気概に、高潔な志操など必要ない、となれば、昨日の主人を裏切って、今日は、その敵将に、おのが勇武を、高く売りつけても、一向にさしつかえはなかった。  誤算すれば、わが身のみか一族の滅亡となる危険もかえりみず、かれらは、好むがままに行動した。  関ケ原役に、その極端な例がみられた。  かれらは、関東領主となった家康から、そのまま、国衆として、郷士たる館と土地を安堵《あんど》されたが、かれら自身、三河から移って来た他国者家康に対する反感を抱いていた。  ——いずれは、家康から、関東を、追われるに相違ない。  その不安感もあった。  そこへ——。  石田三成がひそかに放って来た間者が、三千石、五千石、一万石の高禄《こうろく》を餌《えさ》に、家康を裏切るように説得に来た。  武蔵七党の後裔たちは、その餌に、とびついた。かれらのうちから、家康に召出されて、旗本に加えられた者は、一人もいなかったからである。  家康は、武蔵七党の後裔たちは、たしかに勇猛を誇っているが、所詮《しよせん》は地侍にすぎず、武蔵野の各処にちらばせておけばよい、と考えたに相違なかった。  あるいは、小田原|北条《ほうじよう》家の部将に、あるいは武田信玄《たけだしんげん》に、あるいはまた、上杉謙信《うえすぎけんしん》の麾下に入って目ざましい働きをしたかれらは、所詮は武蔵野の野武士にすぎず、いかに勇猛を誇っていても、三河譜代の面々と同じ列に加えることは、家康には、はばかられたのである。  反感と不服が、かれらをして、石田三成方に味方させ、結果は、わずかに残っていた武蔵七党の一族の滅亡を招いた。  生き残って帰って来た残党は、きびしい詮議を蒙《こうむ》って、その館を追放された。かれらは、野盗になるよりほかはなかったのである。     三  関ケ原の役は、文字通り天下分け目の決戦であった。  黒田孝高《くろだよしたか》(如水《じよすい》)すら、関ケ原役に於《お》いては、大いなる誤算をしていた。  嫡子長政が、東軍に加わり、関ケ原役に於いて、大いに手柄《てがら》をたてて、五十万石の太守となって帰国した時、如水は、薄ら笑って、 「わしは、徳川内府と石田|治部《じぶ》の戦いが、百日も手間取ったならば、突如として、九州から攻め上り、関八州を切り従えて天下を取る肚《はら》であった。その秋《とき》こそは、お前は秘蔵の嫡男であるが、この大《おお》博奕《ばくち》のためには、よろこんで見棄《みす》てる覚悟であった。天下を望む者は、親であろうと子であろうと顧ていては、成しとげられぬ仕業である。……お前には、所詮、この大じかけの博奕は、思いもよらぬことであったろうな」  と、云っているくらいである。  まして——。  家康に反感を抱く、武蔵七党の後裔が、関ケ原役の帰趨《きすう》に、見当がつかず、石田三成が投げた高禄の餌にひっかかったのは、無理もなかった。  結果——。  かれらは、館と土地を奪われ、野盗となり下ったのである。  背には矢を立てぬ気概だけはのこしているかれらは、野盗になり下っても、徳川家に一矢《いつし》を報いる血盟を交しているのであったろう。  あわよくば、家康か秀忠の首を取ってくれよう、と狙《ねら》った者もいるに相違なかった。  直参旗本が、府外へ遠く狩猟や馬責めに出て、しばしば野盗に襲われて、殺されている、という噂《うわさ》は、大風屋敷にとじこもっていた武蔵の耳にも、きこえていた。  武蔵は、武蔵七党の後裔がどれくらいの強さか、ためす|ほぞ《ヽヽ》をきめると、まず、腹を満たすべく、流れの際に、腰を据《す》えた。  水でもどした糒《ほしい》を、手づかみで、むしゃむしゃ摂《と》りはじめた折であった。  馬の蹄《ひづめ》の音とともに、奇妙な懸声が、こちらへ向って、近づいて来た。  流れの向う側は、欅《けやき》の疎林《そりん》であった。  その木立の中から、一頭の鹿《しか》が、とび出して来て、かるがると、流れを跳び越えた。  とたん——。  武蔵の右手から、小柄《こづか》が放たれた。  鹿は、眉間《みけん》を刺されて、転倒した。  ——焼いて、食うか。  胸で呟《つぶや》いた時、疎林の切れた地点に、裸馬に乗った者が、躍り出て来た。  女であった。しかも、まだ若かった。  筒袖《つつそで》に短袴《たんこ》をはき、黒髪を肩に散らしていた。  弓矢を携え、腰に小刀を帯びていた。  武蔵の姿をみとめると、向いの岸を疾駆して来て、 「その鹿、|うち《ヽヽ》らが追うて来たのじゃ」  高い鋭い声音で、とがめるように、云った。  武蔵は、黙って、じっと見かえしている。 「|うち《ヽヽ》らの追い声をきいたであろうに、なぜ、邪魔をした?」  眸子の光にも、肌色《はだいろ》にも、野性を匂《にお》わせた娘は、胸を張って、武蔵を睨《にら》みつけた。 「食いたいから、殺したまでのことだ」  武蔵がこたえると、娘は、 「許さぬ!」  叫びざま、弓に矢をつがえると、武蔵の顔を狙って、きりきりとひきしぼった。  武蔵は、平然として、動かぬ。 「覚悟!」  一声もろとも、矢を射放った。  武蔵は、わずかに、首をすっと横に移しただけで、飛矢を後方へそらした。 「おのれ!」  弓術には、充分の自信があって、武蔵の片目をつぶしてやろうとでも考えていたらしい娘は、かっと、眦《まなじり》を裂いた。  武蔵は、娘が第二矢をつがえるのを眺《なが》め乍ら、 「そなたは、武蔵七党の後裔の一人か?」  と、訊《たず》ねた。 「それが、どうしたというぞ?」 「その二番矢も、はずされたなら、そなたは、おれに犯されることに相成る」   狐塚《きつねづか》     一  武蔵の不敵な宣告は、野性の娘を、激怒させた模様であった。  怒りの激しさが、声も発しさせずに、彼女に、第二矢を放たしめた。  こんどは、武蔵は、飛矢を避けなかった。  すっと、左手を挙げた。  射た娘の方が、茫然《ぼうぜん》となったことだった。  矢は、人差指と中指にはさまれていた。  武蔵は、にやりとすると、その矢を右手でにぎって、 「そなたの負だぞ!」  云《い》いざま、ひょうっと、投げかえした。  矢は、馬の片目に刺さった。  娘は、たてがみをつかむいとまもなく、棹立《さおだ》った馬から、落ちて、一転すると、流れに飛沫《しぶき》をあげた。  その時、武蔵は、もう、流れの上を翔《と》んで、向う岸に移っていた。  流れは、見た目には、静かでゆるやかであったが、実はかなりの速さであり、底は深く、しかも、底の石塊《いしくれ》は、苔《こけ》でぬるぬるしているらしく、娘は、いったん、はねあがったものの、足をとられて、 「あっ——うっ!」  と、もがきつつ、沈んだ。  弓術、馬術ほどには、水練は習っていないとみえた。  武蔵は、雑木の太枝をもぎ取ると、再び浮きあがって来た娘の黒髪へ、巧みにからませて、ぐっと、引き寄せた。  岸へ匍《は》いあがった娘は、ふうっとひと息ついたが、次の瞬間、 「畜生っ!」  叫びざま、腰の小刀を抜いて、武蔵に、突きかかって来た。  武蔵は、躱《かわ》しもせず、手刀で、それを搏《う》ち落し、 「約束だ。操《みさお》を奪《と》るぞ」  無表情で、云った。 「おのれらに、奪われて、たまろうか!」  娘は、喘《あえ》ぎつつ、激しい敵意を、目もと口もとに滲《にじ》ませて、じりじり後退した。自身を救ってくれた太枝は、黒髪にからんだまま、肩にとまっていた。  武蔵が、無言で一歩迫った——瞬間、娘は身をひるがえした。  それを待っていたように、武蔵は、抜きつけの一太刀を、その背中に送った。  娘は、白刃をあびせられたと知らず、七、八歩|奔《はし》ってから、 「あっ!」  と、悲鳴をあげて、横転した。  短袴の紐《ひも》と布子を締めた帯を両断されていて、短袴がずり落ちたのである。  馳《は》せるでもない足どりで、そこへ近づいた武蔵は、両足の自由を奪った短袴を踏みつけておいて、布子をつかむや、容赦なく、ひき捲《まく》って、その裾《すそ》で、頭をくるんだ。  濡《ぬ》れてべったりと腰にまつわりついた白い脚布《こしまき》の蔭《かげ》から、豊かに発達した臀部《でんぶ》がのぞいていた。 「い、いやっ!」  娘は、必死にもがいた。  もがけばもがくほど、武蔵の目を挑発《ちようはつ》するあられもない姿態になった。  武蔵は、おのが暴力を愉《たの》しむかのように、短袴をひき裂き、布子の前を剥《は》いだ。  胸の隆起も、腹も、そして、黒く茂った股間《こかん》も、陽《ひ》ざしの下にさらされた。 「こ、ころせっ!」  顔にかぶさっていた裾をはねのけて、娘は、憎悪《ぞうお》の悲鳴をほとばしらせた。  武蔵は、ただ無言|裡《り》に、娘を仰臥《ぎようが》させ、両手の手くびを掴《つか》んでおさえつけ、膝《ひざ》を下肢《かし》へ割り込ませ、裂くように、押し拡《ひろ》げさせた。  娘は、唾《つば》を、武蔵の顔面へ、吐きかけた。  武蔵は、冷やかに見下して、 「かんにん、と一言申せば、許そう」  と、促した。  娘は、その一言を口にするかわりに、目蓋《まぶた》を閉じて、顔をそむけた。 「では、操を奪るぞ」  武蔵は、掴んでいた両手の手くびをはなした。  娘は、動かなかった。ただ、胸の隆起を破れるようにせわしく上下させつづけている。  |そばかす《ヽヽヽヽ》を散らした顔は、小麦色にほどよく焼けていたが、布子にかくされていた肌は、絖《ぬめ》のように白かった。  武蔵の踏込袴《ふんごみばかま》は、小用を足すために、いちいち、紐を解いて下げずともよいように、すぐ前を開けられる工夫がほどこしてあったので、こういう場合、きわめて都合がよかった。  娘は、固い異物が、秘部にあてられた刹那《せつな》、びくんと全身を痙攣《けいれん》させた。しかし、拒もうとも、逆らおうともしなかった。  ——無垢《しよじよ》か。  亀頭《きとう》で、柔襞《やわひだ》を割った瞬間の娘の反応を看《み》て、武蔵は、そう知った。  突起した陽物は、そのまま、娘の体内へ、めり込んだ。  その疼痛《とうつう》に堪える娘の表情から、武蔵は、視線をそらさなかった。     二 「|しのぶ《ヽヽヽ》殿! |しのぶ《ヽヽヽ》殿は、どこだ?」  雑木林をへだてて、その呼び声がひびいて来たのは、その折であった。  娘は、表情を動かし、唇《くちびる》を微《かす》かにふるわせた。しかし、救いをもとめる叫びは、出さなかった。  しきりに呼びたてる声は、かなり近づいてから、また、遠ざかり、そして、消えた。  武蔵は、犯したものの、女体の中へ精液を放たずに、すっと抜きとって、裸身からはなれた。  娘は、のろのろと起き上ると、布子の前を合せた。  帯を巻こうとして、それが両断されているのをみとめると、ちょっと途方にくれたように、うつろな視線を、その切り口へ落した。  武蔵は、その帯を把《と》ると、短袴の紐で、つないでやって、娘へ投げ与えた。  俯《うつむ》いて、帯をむすぶしぐさに、稚《おさな》さを視《み》た武蔵は、 「どうして、死ぬまで、抵抗せなんだ?」  と訊《たず》ねた。 「…………」  娘は、こたえなかった。 「|しのぶ《ヽヽヽ》というのは、お前のことだろう。どうして、救いを呼ばなかった?」 「…………」 「なぜ、返辞をせぬ!」  娘は、なおしばらく、沈黙を置いてから、ようやく、口をひらいた。 「……お前様が、強い男だったから——」 「武蔵七党の後裔《こうえい》であるお前の一族には、強い男は、いくらでも居るだろう」  すると、娘は、 「左源太も、七助も、太郎も……、みんな、|うち《ヽヽ》の顔色ばかり、うかがっていて、——いくら、強くても、好きになれるものか!」  さげすんだ面持《おももち》で、吐きすてた。 「お前は、党首のむすめか?」  娘はこたえて、父は、猪俣《いのまた》党横山時範の末裔|荏原《えばら》泰十郎といったが、関ケ原の合戦に、一族郎党五十七人を率いて、石田|三成《みつなり》の麾下《きか》に加わって、討死した、と語った。 「すると、お前が、いまは、猪俣党の党首の座に就いている、というわけか?」 「そうじゃ」  娘は、うなずいた。 「お前の下には、分別のある年配の郷士は、一人も居らぬようだな」 「………?」  娘は、怪訝《けげん》な眼眸《まなざし》を、武蔵にかえした。 「むこうの——」  武蔵は、流れをへだてた雑木林を、指さして、 「木蔭に、徳川家の旗本の妻女が、犯されて、死んで居る。その供の三人も、殺されて居る。……お前の手下どもの仕業《しわざ》だろう?」 「…………」 「お前の手下どもは、お前の顔色はうかがうが、徳川家の旗本やその家族に対しては、悪鬼野獣になるようだな。……つまり、お前の手下どもは、関ケ原役の頃《ころ》は、いずれも餓鬼《わつぱ》で、父や兄を、戦場で喪《うしな》ったのだろう?」  武蔵の推測は、あたっていた。  二十一歳が最年長で、みんな、十代の若者ばかりであることを、|しのぶ《ヽヽヽ》は、白状した。  武蔵は、そんな者どもを対手《あいて》に決闘してもはじまらぬ、と思いかえして、|しのぶ《ヽヽヽ》のそばを、はなれた。  |しのぶ《ヽヽヽ》が、あわてて、 「お前様!」  と、呼びとめた。 「うちを、伴《ともの》うて下され! お願い申します!」  思いつめた様子で、たのんだ。  武蔵は、黙って、ずんずん歩いた。 「お前様! ……|うち《ヽヽ》を、こんな目に遭わせて、すてて行ってしまうのは、あんまりじゃ。ひどい!」  |しのぶ《ヽヽヽ》は、奔って、武蔵の背後に添うた。 「|うち《ヽヽ》は、どこまでも、ついて行く!」  武蔵は、振りかえらず、なにも云わず、歩度をはやめた。  雑木の疎林《そりん》を抜け、斜面をのぼると、そこは、四方を見はるかす丘陵の頂上であった。  秩父の山らしい淡い影が、はるか遠く、縁どっていて、気遠くなるほど、蒼茫《そうぼう》として、草原は無限のひろがりをみせていた。  武蔵は、北へ向ってつけられている野径《のみち》を辿《たど》ることにした。  |しのぶ《ヽヽヽ》は、ぴったりとより添うて、はなれぬ。     三  馬蹄《ばてい》の音が、非常な速度で、こちらへ近づくのが、ひびいて来た。 「|しのぶ《ヽヽヽ》殿っ!」  その呼び声に対して、 「もどるものか!」  肚《はら》をきめた独語を、猪俣党末孫の娘は、もらした。  武蔵は、振りかえってみようともしなかった。  たちまち、追手は、二人の行手へまわり込んだ。  裸馬にうちまたがった二十歳あまりの逞《たくま》しい若者であった。 「|しのぶ《ヽヽヽ》殿! どうされたというのだ?」  若者は、疑わしげに、武蔵と|しのぶ《ヽヽヽ》の顔を見くらべた。  |しのぶ《ヽヽヽ》は、濡れた黒髪を顔から振りはらって、 「|うち《ヽヽ》は、この御仁《おひと》に、ついて行くのじゃ」  と、こたえた。 「ついて行くと?」 「そうじゃ。……もう、|うち《ヽヽ》は、この御仁の妻になっているのじゃ」 「阿呆《あほ》なっ!」  若者は、驚きと憤《いきどお》りの色を面上にまぜて、 「気でも狂うたか、|しのぶ《ヽヽヽ》殿っ!」 「正気じゃ。|うち《ヽヽ》は、生涯《しようがい》の良人《おつと》ときめる男子に、出会うたのじゃ」 「|しのぶ《ヽヽヽ》殿は、猪俣党の頭領たる子を産む身ぞ。どこの馬の骨とも知れぬ他国者の女房になって、郷土を去ることは、許されん!」  若者は、呶鳴《どな》った。 「ならば、お前らのなかで、|うち《ヽヽ》の良人になる器量を持った者が、一人でも居るかや? ……猪俣党は、父で滅びたのじゃ。|うち《ヽヽ》は、|うち《ヽヽ》の好きなようにする。すてておけ」 「これが、すてておかれるか!」  若者は、さっと、二人のわきを疾駆して、後方へ去った。 「七郎太!」  |しのぶ《ヽヽヽ》が、呼んだが、騎影はもう百歩のむこうにあった。  武蔵は、歩き乍《なが》ら、 「そなたを妻にする、と約束しては居らぬぞ」  と、云った。 「|うち《ヽヽ》がきめたのじゃ」 「お前の手下どもが、追って来て、はばむぞ」 「この先に、狐塚《きつねづか》がある。塚の中が、室《むろ》になっている。|うち《ヽヽ》だけが知っているかくれ場所じゃ。……のう、かくれましょう」 「お前が、もどって行けば、何事も起らずにすむ」 「いや! |うち《ヽヽ》は、お前様の妻じゃもの、はなれはせぬ」 「勝手にきめられては、迷惑だ。おれは、生涯、妻を持たぬときめた男だ」 「|うち《ヽヽ》を、こんな気持にさせたのは、お前様ではないか」 「なかったことにして、忘れるがいい」 「のう、はよう、狐塚にかくれましょうぞ!」  |しのぶ《ヽヽヽ》は、せきたてた。  武蔵が、なにを云《い》おうと、いかに冷たく突きはなそうと、|しのぶ《ヽヽヽ》は、心をひるがえすけしきなど、みじんもみせなかった。 「武蔵七党は、背《そびら》には矢を立てず、という武勇を誇っているのだろう。おれも、姓名を宮本武蔵という。遁《に》げかくれする怯懦心《きようだしん》は、毛頭持ちあわせぬ」 「お前様が殺されては、|うち《ヽヽ》も生きては居《お》られぬ」 「おれは、殺されはせぬ。しかし、そなたを、妻にするのもことわる」 「お前様! 狐塚にかくれるのじゃ!」  |しのぶ《ヽヽヽ》は、武蔵の袖《そで》をつかむと、つよくひっぱった。  馬蹄の音が、入り乱れて、地面をつたわって来たのである。  武蔵は、|しのぶ《ヽヽヽ》の手をもぎはなして、 「館《やかた》へもどれ!」  と、叱咤《しつた》した。 「いやじゃ、死んでも、もどりはせぬ」  武蔵は、舌打ちした。  追って来た若者たちが、|しのぶ《ヽヽヽ》の決意のかたさをみて、あきらめるとは考えられなかった。  闘いは、避けられなかった。しかし、武蔵は、|しのぶ《ヽヽヽ》をかばって、連れて行く気持は全くなかった。  ——この草地が修羅場《しゆらば》になれば、この娘は、死ぬ。  その予感がした。 「よし、その狐塚に、案内しろ」 「かくれてくれるかえ? うれしいっ!」  |しのぶ《ヽヽヽ》は、身丈《みのたけ》を越える薄《すすき》の中へ、さきに、とび込んだ。  馬蹄の音は、あっという間に、迫って来た。  薄をわけて、進む|しのぶ《ヽヽヽ》の身ごなしは、敏捷《びんしよう》であった。 「ここじゃ」  薄にとりまかれて、こんもりと土が盛られ、その上に、小さな祠《ほこら》が建てられていた。  ちょうど、祠の正面下方に、供物石ともみえる、ひとかかえの角石が据《す》えてあった。 「この石のうしろから、室にもぐり込めるのじゃ」  そう云って、|しのぶ《ヽヽヽ》がにこりとした——瞬間、武蔵の拳《こぶし》が、その鳩尾《みぞおち》へ入っていた。  崩れ落ちる|しのぶ《ヽヽヽ》のからだを支えとめた武蔵は、 「室の中で、しばらく、ねむって居るがいい」  と、呟《つぶや》いた。 「|しのぶ《ヽヽヽ》殿!」 「どこにかくれた!」 「行かせぬぞ!」  薄のむこうから、若者たちの叫び声が、渡って来た。   嫉妬《しつと》太刀     一  武蔵と|しのぶ《ヽヽヽ》を追って来た武蔵《むさし》七党《しちとう》の若い末裔たちは、十三騎であった。  三、四騎ずつにわかれて、北へ、西へ、草原の中をのびている幾筋かの野径を、疾駆して行き、小半刻《こはんとき》のちには、また、そこへひきかえして来て、一群となった。 「この薄の中に、身をひそめているに相違ない!」  最年長の——といっても、まだ、二十一歳だが——七郎太が、結論した。  見渡すかぎり、薄が秋風になびき、丘や林のある邑《むら》は、はるか彼方《かなた》にあって、徒歩ではいかに疾走しても、そこに至って身をひそめるのは不可能な遠い距離であった。  かれらは、径という径は、すべて、馬蹄を鳴らして、捜索しつくしたのである。 「どうする?」  若者たちは、七郎太へ視線を集めた。  薄の中へ踏み込んで、発見するためには、十三人の頭数では、足りなかった。 「火でも放たぬかぎり、捕えることは叶《かな》わぬぞ」 「そうだ! 焼こう!」  風は、乾《いぬい》(北西)へ向ってかなり強く吹いて居り、野火を放つには、好都合であった。  指導権をとっている七郎太は、しかし、迷っていた。  かりにも、猪俣党の党首である|しのぶ《ヽヽヽ》を、狐や狸《たぬき》をいぶし出すように、火攻めにするのは、ためらわれた。 「七郎太! あと一刻で、日が暮れるぞ、闇《やみ》にまぎれて、遁げられたなら、|じだんだ《ヽヽヽヽ》踏むことになるぞ」 「やろう! はよう、やろう!」 「七郎太、ためろうている場合ではなかろう」  若者たちから、せきたてられて、七郎太も、ようやく、|ほぞ《ヽヽ》をきめた。 「よし! では、三手にわかれる。|艮 《うしとら》と巽《たつみ》と| 坤 《ひつじさる》の三方から、一斉《いつせい》に、火をかける」  七郎太が、そう命じた——その時であった。  一人が、 「おっ! あそこに——」  と、叫びたてて、指さした。  ものの一町もはなれぬむこうに——野径へ、湧《わ》き立つように、ひとつの人影が現れたのである。  こちらへ背中を向けて、ゆっくりと歩いて行こうとした。 「彼奴《きやつ》っ!」  七郎太は、眦《まなじり》を裂いた。  それは、|しのぶ《ヽヽヽ》を連れ去ろうとした見知らぬ牢人者《ろうにんもの》に、まぎれもなかった。 「待てっ!」  七郎太以下十三騎は、まっしぐらに迫った。  武蔵は、あやうく馬蹄にかけられる間近さまで迫らせておいて、くるりと向きなおった。  先頭に立った七郎太は、たづなを引いて、馬を棹立《さおだ》たせつつ、 「|しのぶ《ヽヽヽ》殿を、どうしたぞ?」  と、呶鳴った。 「知らぬ」 「知らぬ、とは——?」 「別れた」 「嘘《うそ》を吐《つ》くなっ!」 「別れたから、別れた、とこたえて居る」 「嘘だっ! ……おのれは、わざと、われわれの前に姿を現して、だまそうというこんたんだろう。ひっかからぬぞ!」 「さがせばよかろう。草の海を、火の海にして——」 「ほざくなっ! おのれは、|しのぶ《ヽヽヽ》殿と、どこかで落ちあう手筈《てはず》をきめて居るに相違ないんだ」 「ことわっておくが、おれは、生涯妻帯せぬ肚《はら》をきめて居る兵法者だ。女連れの旅などはせぬ」 「ならば、どうして、|しのぶ《ヽヽヽ》殿が、おのれごとき他国者の妻になる、と心にきめたのだ?」 「あの娘の口から、きくがいい」 「おいっ! うぬは、もしや……もしかして、|しのぶ《ヽヽヽ》殿を……」  犯したのではないか、と云いかけて、七郎太は、つきしたがう十二人の若者にきかせたくない推測なので、口を閉じるや、憤怒と嫉妬で五体を炎にすると、かっと睨《にら》みつけた。  武蔵は、平然として、その眼光を受けとめ、 「おれとあの娘は、すでに、無縁だ。このことだけは、はっきりとして居る」  と、云った。     二 「おのれは、われわれの前へ、のこのこと出て来て、生きて、この武蔵野から去ることができる、と思って居るのか!」  七郎太は、叫んだ。 「おれに襲いかかるより、あの娘をさがす方を、さきにしたらどうだ」  武蔵が、こたえると、七郎太のうしろから、 「|しのぶ《ヽヽヽ》様は、そやつに、殺されたのではないか?」  その疑惑を、口にした者があった。  とたんに、若者たちは、凄《すさま》じい形相になった。 「そうかも知れぬぞ!」 「きっと、そうだ! そやつ、徳川家の隠密《おんみつ》なんだ!」 「畜生っ! |しのぶ《ヽヽヽ》様を殺しやがった!」  物狂おしい殺気をあび乍ら、武蔵は、薄ら笑った。 「お主らは、自身の犯した非道を、忘れて居るわけではあるまい。天に向って唾《つば》を吐けば、おのが顔にかかって来るのは、自明の理だろう」  その言葉に対して、若者たちは、口々に、喚《わめ》きたてた。  武蔵は、一瞬、きたえた声音を張った。 「あの娘は、死んでは居らぬ!」 「ど、どこに居る?」 「このむこうの狐塚《きつねづか》の中の、室《むろ》で睡《ねむ》って居る。……お主らのように、おれは、犯した上で殺したりなどはせぬ」  三人ばかりが、馬からとび降りると、その狐塚めがけて、薄の中をかきわけて行った。  七郎太は、なお、憎悪《ぞうお》の眼光を、武蔵に刺して、 「名乗れ! 何処《どこ》の何者だ?」 「播州新免伊賀守《ばんしゆうしんめんいがのかみ》血族・宮本武蔵」 「宮本武蔵?! ……きいた名だぞ」  しかし、七郎太は、どうして、この兵法者の名を記憶にとどめているのか——その理由を、すぐに思い出せなかった。  少年の日、江戸の町へ出た折にでも、その名をきいたに相違ない。  武蔵が、室町兵法所|吉岡《よしおか》道場を、滅亡せしめてから、すでに、八年の歳月が流れ過ぎていた。 「無名の、まだ二十歳あまりの兵法者が、たった一人で、室町将軍家の師範であった名家の道場を、つぶしたそうな。播州の、宮本武蔵と名のる若者だとか——」  そんな噂《うわさ》ばなしを、ちらと耳にしたのであったろう。  地上の武蔵と馬上の七郎太は、眼眸《まなざし》を合せたまま、待った。  ほどなく——。 「いたぞうっ! |しのぶ《ヽヽヽ》様が、いたぞ!」  薄の彼方から、そう告げる高声が、ひびいて来た。  武蔵は、黙って、かるく一揖《いちゆう》すると、踵《きびす》をまわした。 「待て!」  七郎太が、さっと、馬から降り立った。 「行かせぬぞ!」 「お主らの党首が、無事であれば、それでよかろう」  武蔵は、歩き出し乍《なが》ら、云った。 「そうはいかぬ! おのれは、|しのぶ《ヽヽヽ》殿を、けがした!」 「因果は、車の輪のごときもの。こん後は、お主らは、その所業をつつしむがよかろう」 「勝負っ!」  七郎太は、腰の太刀を抜きはなった。  首をまわした武蔵は、 「党首は、お主ではないぞ。あの娘に、闘ってもよいかどうか、下知を受けろ」  と、云った。 「うるさいっ! 勝負だ! 甘糟七郎太の太刀先を、みごと、かわしてみろ!」  武蔵は、七郎太が嫉妬の鬼と化しているのを、看《み》た。 「死に急ぎするな。お主の料簡《りようけん》次第で、あの娘を妻にして、党首の座に就くこともできよう」  この場合、武蔵の態度が冷やかである限り、どんな忠告も、火に油をそそぐ結果しかもたらさなかった。  武蔵が土下座でもすれば、七郎太は、その白刃を振りかぶるのを止めたかも知れなかった。  嫉妬は、七郎太を、完全に狂人にしていた。  その憎悪を、名状しがたい凄じい懸声にして、ほとばしらせるや、七郎太は、まっ向から斬《き》りつけて来た。  武蔵は、身をひるがえすと同時に、七郎太の脇《わき》へ、滑走した。  したたかな手刀を、右手くびへ受けて、七郎太は、じいんと五体がしびれ、撃ち込んだ残心の構えを、一瞬、石と化し、顔面もまた、眦を裂き口を開いたなりに、固着させた。  これを視《み》た他の若者たちが、一斉に、地上へ跳んで、抜刀した。  まだ十四、五歳の少年までも、闘志を惜しみなくむき出して、われ勝に前へ出ようとした。  武蔵は、それらの若者たちに、おのれの過去の姿を視た。  斬りたくはなかった。  しかし、斬らねば、この場から立ち去ることは叶わなかった。     三  |しのぶ《ヽヽヽ》が、三人の若者をしたがえて、薄の中から、躍り出て来た。  その表情は、険しくひきしまったものになっていた。  武蔵は、|しのぶ《ヽヽヽ》へ視線を投げて、 「そなた、党首ならば、この若者たちに、犬死させるな」  と、云った。  |しのぶ《ヽヽヽ》は、激しい気色で、武蔵を睨みつけて、 「|うち《ヽヽ》らを気絶させておいて、狐塚の室の中にいる、と教えたお前を、許せぬ!」  と、鋭く叫んだ。 「この若者たちを、犬死させてもかまわぬ、というのか?」 「憎い!」  |しのぶ《ヽヽヽ》は、小刀を抜くと、まっしぐらに、突きかかって来た。 「血迷うな!」  武蔵は、その利腕《ききうで》をつかんで、叱咤《しつた》した。  刹那《せつな》——。 「馬で、逃げて下され」  武蔵にだけきこえるひくいささやきが、|しのぶ《ヽヽヽ》の口からもらされた。  武蔵は、|しのぶ《ヽヽヽ》を突きはなすと、奔《はし》った。 「おおっ!」  若者の一人が、死にもの狂いで、撃ちかかったが、造作もなく躱《かわ》された。  とみた次の瞬間には——。  武蔵は、七郎太の馬へ、うちまたがっていた。 「やるなっ!」 「卑怯《ひきよう》!」 「くそっ!」  若者たちは、躍起になって、叫喚し、はね躍って、襲いかかろうとしたが、無駄《むだ》であった。  武蔵を乗せた馬は、|しのぶ《ヽヽヽ》と七郎太の脇を、風のはやさで駆け抜けた。  若者たちは、おのおの、自分の馬にとび乗って、そのあとを追った。  |しのぶ《ヽヽヽ》は、その場へ、坐《すわ》り込むと、うなだれた。  七郎太が、その姿へ、なかば嫌悪《けんお》をこめた眼眸をあてた。 「七郎太——」  |しのぶ《ヽヽヽ》は、地面の一点を瞶《みつ》め乍ら、呼んだ。 「|うち《ヽヽ》を、斬るがよい」 「…………」 「|うち《ヽヽ》は、あの男に、犯されて……、猪俣《いのまた》党をすてようとした。|うち《ヽヽ》は、裏切り者じゃ。……斬るがよい」 「…………」 「この|しのぶ《ヽヽヽ》は、党首の資格を喪《うしの》うてしもうたのじゃ。……七郎太、お前が、成敗する役じゃ」 「…………」  |しのぶ《ヽヽヽ》は、顔をあげて、七郎太を仰いだ。 「はよう、成敗しなされ。明日からは、お前が、猪俣党の党首になる」 「…………」  七郎太は、こめかみを、痙攣《けいれん》させた。 「裏切り者は、党首といえど、許さぬのが、武蔵七党の掟《おきて》ではないか。……七郎太、はよう、斬れ!」 「斬れぬ!」  七郎太は、かぶりを振った。 「お前様を、斬ることはできぬ!」 「なぜじゃ? 裏切ったのですよ、|うち《ヽヽ》は、お前がたを——」 「裏切ったのではない。お前様は、あいつに、無理矢理に、手ごめにされて……」 「いいえ、|うち《ヽヽ》は、あの男に、はずかしめを受ける際、すこしも、さからわなんだ」 「…………」 「|うち《ヽヽ》は、この強い男に抱かれたい、という気になった。党の中には、これほど強い男はいない、と思った。……七郎太、お前をはじめ、左源太も、七助も、太郎も、徳川家の家人やその家族に対しては、けだもののようになって、襲いかかるが、この|しのぶ《ヽヽヽ》に対しては、顔色ばかりうかがって、卑屈な負け犬になっているのが、|うち《ヽヽ》には、腹立たしかったのじゃ。……|うち《ヽヽ》は、強い男が欲しかった。あの男は、強かった。|うち《ヽヽ》が、矢を射かけると、苦もなくかわして、二番矢をはずしたら、犯すぞ、と云うた。そして、二番矢を、手づかみにした。|うち《ヽヽ》は、その時、この男に抱かれよう、と思いきめた——」  |しのぶ《ヽヽヽ》がそこまで語った時、七郎太は、ゆっくりとひろいあげた太刀を、いきなり一閃《いつせん》させた。  血煙の下で、|しのぶ《ヽヽヽ》は、絶鳴ももらさずに、地べたへ横たわった。  太刀をすてた七郎太は、膝《ひざ》をがくりと折るや、両手で、顔を掩《おお》うた。  慟哭《どうこく》が、その指のあいだから、噴いた。  ——あの娘は、おそらく、七郎太というあの若者に斬られたにちがいない。  闇《やみ》の中で、大きく双眸《そうぼう》をひらいて、星空を仰いだ武蔵は、その予感をおぼえていた。  いくつかの丘陵を越えた、そこは、貧しげな聚落《しゆうらく》のはずれにある、館跡《やかたあと》らしい、崩れた築地《ついじ》の蔭《かげ》であった。  ここも、元は、武蔵七党の一党が、さかえた処《ところ》と思われる。  ——犯すのではなかった。  この非情な兵法者が、生まれてはじめて、微《かす》かな悔いを、胸の片隅《かたすみ》で、呟《つぶや》きにしていたのである。   業力《ごうりき》     一  巌流《がんりゆう》佐々木小次郎は、小倉城下にいた。  宮本武蔵が、江戸に在って、全く無為な月日をすごしていたこの四年間を、小次郎は、九州一円に、一心一刀虎切刀の剣名を売る充実したすごしかたをしていた。  小次郎が、小倉の細川家に、兵法師範役として、召しかかえられたのは、細川家京都屋敷に在った三番家老|有吉内膳《ありよしないぜん》の推挙によるものであった。  有吉内膳が、所用あって、京都から大坂へおもむく途次——伏見のはずれで、不意に、三人の牢人者《ろうにんもの》に襲撃された。偶然、小次郎が、それを目撃して、またたく間に、牢人者たちを、斬りすてて、有吉内膳の生命《いのち》を救ったのである。  三人の牢人者は、細川家の旧家臣で、有吉内膳によって、追放された者たちであった。かねて、報復の機会をうかがって居《お》り、内膳が、大坂へおもむくのを知って、襲ったのであったが、かえって、討たれたのである。  内膳は、小次郎の鬼神にひとしい迅業《はやわざ》を見せられ、この躯幹《くかん》長大の、朱漆《しゆうるし》のようにあかい総髪を肩に散らした異相の兵法者が、さき頃《ごろ》、大坂城三の丸紅葉広場で、阿蘭陀《オランダ》剣士グスタフ・バリニヤニと決闘して、これを斃《たお》した天才と知ると、 「細川家に仕えぬか」  と、さそったのである。  有吉内膳は、隠居して洛西仁和寺《らくせいにんなじ》の近くに棲《す》んだ細川|幽斎《ゆうさい》附きの家老であった。  幽斎が、まだ健在であったならば、内膳は、当然、小次郎を、面謁《めんえつ》させたに相違ない。  おそらく、幽斎は、小次郎を視て、 「召しかかえるのは、ひかえるがよい」  と、内膳の推挙をしりぞけたであろう。  幽斎は、しかし、すでに逝《い》っていた。  内膳は、推挙の添状を小次郎に持たせて、小倉へ行かせたのであった。  細川|忠興《ただおき》は、小次郎に「燕返《つばめがえ》し」の業を披露《ひろう》させて、即座に、 「六百石をつかわそう」  と、きめたのであった。  小次郎は、小倉城内の広庭で、弓術に長《た》けた家臣二人に、左右二十歩の距離から、同時に、矢を射かけさせておいて、この二本を、物干竿《ものほしざお》を一閃させざま、両断してみせたのである。文字通り目にもとまらぬ迅業であった。  小次郎は、随身するにあたって、条件をひとつ、つけた。  兵法師範役となっても、気随に九州一円をわたりあるき、これはと思う剣槍《けんそう》の芸者《げいしや》と試合してもかまわぬこと。それであった。  忠興は、許した。  小次郎は、それから五日後には、もう小倉城下を出ていた。  四年余のあいだ、小次郎は、九州をくまなく遊歴した。そして、真剣の試合を行なうこと八回。対手《あいて》は、いずれも、達人としてきこえた人々であった。  小次郎の物干竿は、かれらを、一太刀で血煙をあげさせ、一人も生存させなかった。  小倉へ帰って来た時、巌流佐々木小次郎は、 「冥途《めいど》送りの栄貌者《えいぼうしや》」  というあだ名を、与えられていた。  栄貌というのは、『史記』の遊侠伝《ゆうきようでん》にある「諺《ことわざ》に曰《いわ》く、人、栄名を貌《かお》となせば、豈既《あにつく》る有らん乎」から出た言葉であろう。  顔貌は衰落の時を必ず迎えるが、栄名を以《もつ》て貌とする時は、その誉《ほまれ》は永遠に尽きぬ、という意味である。  小次郎は、尊敬されるよりも、畏怖《いふ》された。  兵法師範役であるが、小次郎は、与えられた立派な道場で、門弟に対して、じかに教えることをしなかった。  ただ、時折、道場へ姿を現して、木太刀をふるう細川家の若い家臣たちを、眺《なが》めやるだけであった。  老臣の一人が、なぜ教えぬのか、となじると、小次郎は、冷然たる態度で、 「それがしの虎切刀を受け継ぐ才能を有《も》った者は、一人も見当り申さぬ」  と、こたえたことだった。  その傲慢《ごうまん》な言葉が、忠興に伝えられると、 「それでよい」  と、小次郎に対する憤《いきどお》りはいささかもみせられなかった。  忠興は、天下無敵の天才を擁しているのを、他の大名がたに、誇れば、それで足りたのである。  小次郎を兵法師範役にすることを、はじめから賛成しなかったのは、筆頭家老の長岡佐渡守康之《ながおかさどのかみやすゆき》であった。その人格にいやしさがあるのをみとめて、 「野《や》に置くべき兵法者だ」  と、はっきり云《い》った。  嫡男《ちやくなん》である興長も、同意見であった。  しかし、当主忠興は、その意見をしりぞけた。  忠興は、感情的に、長岡父子をきらっていた。父幽斎と性格上|そり《ヽヽ》の合わなかった忠興は、曾《かつ》てその父と同輩であった長岡佐渡守を、常づねけむたく思って居り、また、その嫡男興長とも、親しまなかったのである。  したがって、こうした場合、忠興は、長岡父子の意見を、故意にしりぞけたのである。  尤《もつと》も——。  長岡康之は、従五位下《じゆごいげ》の朝臣《あそん》であり、二万六千石の封禄《ほうろく》を持ち、家中一統から「上卿《しようけい》」という尊称をたてまつられている存在であり、さらに、その嫡男興長は、政務万端をとりしきる傑出した重鎮であったので、当主といえども、この父子を致仕せしめることは不可能であった。  それに——。  忠興は、すでに五十歳を越えて居り、そろそろ、一子|忠利《ただとし》に、豊前《ぶぜん》三十五万石をゆずるべき秋《とき》を迎えていた。  その忠利は、長岡父子を慕っていたのである。     二  細川忠利は、父忠興とちがって、|正しさ《ヽヽヽ》というものを看《み》る目を持っていた。母ガラシヤの血を多く享《う》けていたからであろう。  忠興とともに、忠利は、佐々木小次郎の「燕返し」を見たが、父が即座に六百石で召しかかえたのに、べつに異存をとなえはしなかったものの、あとで、長岡佐渡守を呼び、 「あの者、平常心のたしなみは、如何《いかが》なものであろうか?」  と、問うている。  忠利は、在府の折には、柳生《やぎゆう》但馬守宗矩《たじまのかみむねのり》に入門し、正しい剣の理《ことわり》を会得《えとく》するのに、熱心であったし、また、五日に一度ずつ、自邸へ、宗矩の高弟田中|甚兵衛《じんべえ》を呼んで、必死の修業にはげんでいた。また、宗矩から、沢庵《たくあん》という僧の人物像をきかされると、家臣をはしらせて、その行方をつきとめさせ、鄭重《ていちよう》に、心法を極めたい旨《むね》の手紙を送り、その返書をもらっていた。(後年、忠利と沢庵が、きわめて親密な間柄《あいだがら》になったことは、両者の往復書簡が細川家にたくさん残されたことで、明白である)  こうした姿勢を持している忠利が、技術万能の巌流太刀を眺めて、 「………?」  ある不審をおぼえたのは、当然であったろう。  長岡佐渡守は、忠利の目の鋭さに、微笑して、 「佐々木小次郎は、まれにみる驕慢《きようまん》の性情の持主と存じます」  と、こたえていた。 「では、家中の若者たちに、師と仰がせるに足らぬ男だな?」 「御意——」 「わしから、父上に、そう申し上げようか?」 「お肯《き》き入れになりますまい」 「しかし、このまま、兵法師範として、当家にとどまらせるわけには参るまい」 「御意——」 「と申して、あの剣は、まさしく無敵とみえた。あの剣を破る兵法者が、居ようとは、考えられぬ。お許《こと》も、そう思わぬか?」 「思いまするな」 「どうする?」 「平家を亡《ほろぼ》すは平家、ということわざもござる。佐々木小次郎は、必ずおのれの増上慢に敗れる秋を迎えると存じます」  佐渡守は、自信を持って、そう明言したことであった。  しかし——。  四年余の歳月を経ても、佐々木小次郎は、その物干竿によって、九州一円を畏怖させこそすれ、一向に、自身の増上慢に敗れる気配はなかった。  再び小倉に還《かえ》って来た時には、「冥途送りの栄貌者」というあだ名までつけられて居り、忠興から二百石の加増を得たのであった。  その頃、忠利は、江戸にいた。しきりに、佐々木小次郎を撃ち負かせる業前の達者を物色していたが、見当らなかった。忠利は、まさか、柳生宗矩にたのむわけにもいかず、かなり焦躁《しようそう》をおぼえていた。  そこへ、長岡佐渡守康之が、将軍|秀忠《ひでただ》に呼ばれて、出府して来た。  大坂城攻略の意見を、秀忠から問われるためであった。  佐渡守は、豊臣《とよとみ》家の命脈が尽きている旨を言上しておいて、退出し、細川家の江戸屋敷へもどったが、次の日、忠利の前に出ると、 「佐々木小次郎と互角の勝負をし得る者を、見つけました」  と、報告した。 「まことか?」  忠利は、顔をかがやかした。 「宮本武蔵と申す播州《ばんしゆう》の新免伊賀守《しんめんいがのかみ》血族の兵法者でござる。この名、すでにおきき及びかと存じます」 「うむ、知って居る。室町兵法所の吉岡《よしおか》道場を、孤剣をふるって、滅亡せしめた者であろう」 「左様でござる。宮本武蔵ならば、巌流虎切刀を撃ちくだくことができようかと存じます」 「しかし、宮本武蔵なる兵法者は、佐々木小次郎以上の驕慢な男ではあるまいか!」  忠利は、洛北一乗寺|藪之郷《やぶのごう》・下《さが》り松に於《お》ける宮本武蔵の阿修羅《あしゆら》の闘いぶりを、きき知っていた。武蔵は、その試合で、いきなり、物蔭《ものかげ》から出現すると、わずか十一歳の名目人を、斬《き》ってすてた、という。  名目人だから、これを仆《たお》した、という論理は成立するが、これは、あまりにも残忍な所業といわねばならぬ。  佐渡守は、忠利がその所業を思い泛《うか》べて、疑念を抱いたのだな、と読みとり、 「あるいは、武蔵は、巌流以上の冷酷な気象を所有しているかも知れ申さぬ。ただ、武蔵が、佐々木とちがうところは、その冷酷は、試合に於ける場合にのみ発揮されるのであって、平常心のたしなみは深い、と身共は、観察つかまつりました」  と、云った。  佐渡守は、すでに、宮本武蔵には、佐々木小次郎との試合を承諾させたが、勝利のあかつきには細川家に召しかかえる、という約束などはしていないと、云い添えたのであった。     三  佐々木小次郎は、長岡佐渡守が、おのれの決闘の対手として、宮本武蔵をえらんだことを、夢にも知らなかった。  小次郎の脳裡《のうり》の片隅《かたすみ》には、いまなお、  ——宮本武蔵を、いつか斬らねばならぬ。  という意識があるに相違なかった。  人間には、その能力のほかに、運というものがある。 「神力も業力《ごうりき》に如《し》かず」  という古いことわざがある。業力とは、宿業因縁をいう。すなわち、運命の力である。  この業力の熾《さか》んな者は、ついに、一生敗北を知らぬ。能力以上の働きをするのであった。  孟子《もうし》は、「命を知る者は、巌墻《がんしよう》の下に立たず」といましめているが、業力の熾んな者は、敢《あ》えて、その危険を冒しても、決して、生命を落すことはない。  佐々木小次郎は、おのれこそ不死身である、という自信を五体に満ちあふれさせていた。  しかし、時折、ふっと、宮本武蔵を意識のうちに泛べると、渠《かれ》は自分以上に不死身であるような気がしたのである。  洛北《らくほく》一乗寺村の下り松で、武蔵を迎え撃った吉岡一門は、七十人以上も居り、半弓や鉄砲の者も伏せたのであった。単身、そこへ斬り込んだ武蔵が、生きのびたのは、奇蹟《きせき》としか云い様がない。業力が、その能力を扶《たす》けて、まさしく鬼神の働きをせしめたのである。  もし、武蔵に、業力が薄ければ、一発の弾丸《たま》で、仕止められたに相違ない。矢も弾丸もことごとくはずれ、誰の剣も、致命の深傷《ふかで》を負わせるにいたらなかったのは、いかに、武蔵の業力が熾んであるかという証左であろう。  小次郎は、おのれにまさる業力をそなえた武蔵の存在が、許せなかった。  武蔵を仆した時こそ、一心一刀虎切刀が、完全に天下無敵であると、誇り得る。  小次郎には、巌流と名づけた「燕返し」が、武蔵の野生我流の剣に敗れるなどとは、全く考えられなかった。  かりに敗れるとすれば、それは、業力が劣っているからであろう。  ——この佐々木小次郎が、不死身であるか否《いな》か、教えてくれるのは、天下に、宮本武蔵を措《お》いて他には居らぬ。  京畿《けいき》に出没している頃は、絶えず、その闘志がわきたっていたが、細川家に随身して、九州一円を経巡《へめぐ》るうちに、  ——もはや、武蔵は、わが敵ではない。  という確信が成っていた。  八人の達人を、ただの一太刀で血煙あげさせたおのが絶対の強さに、小次郎は、神力も及ばぬ業力をたしかめたのである。  にも拘《かかわ》らず——おのが不死身の業力をたしかめれば、たしかめるほど、ふっと思い泛んで来る武蔵は、小次郎にとって、いまわしい邪魔者であった。  ——いずれ、武蔵は、必ず、わが面前に現れるに相違ない。  小次郎には、その予感があった。  いわば……。  長岡佐渡守康之が、武蔵に、試合を承諾させたのは、小次郎の宿願をとげさせてやる仲立をしたようなものであった。  運命の神が、両者の業力を試そうとしている、といえた。  小次郎は、武蔵が江戸を去った頃《ころ》、ある朝、ぱっと、掛具をはねのけて、牀《とこ》の上に起きあがった。  武蔵に敗れる悪夢をみたのである。  武蔵の剣が、おのれの額を割る衝撃で、  ——おのれっ!  と、とび起き、そして、目がさめたのであった。  総身が、じっとり汗ばんでいた。 「莫迦《ばか》なっ!」  小次郎は、ひくく唸《うな》った。  たとえ夢であっても、武蔵に敗北したことは、堪えられなかった。 「武蔵め! 何処《どこ》にいる? 現れろ! 現れて、おれと、勝負しろ!」   武将の子     一  小倉平野の中央にそびえ立つ巨城の天守閣と対応して、南に屹立《きつりつ》する山があった。  福智山、という。  平野を横切って海に入る蒲生《がもう》川に沿うて登って行くと、この福智山の山中に、目をみはらせる景観の瀑布《ばくふ》が落下していた。地下人《じげにん》たちは、菅生《すごう》の滝と呼んでいた。  もとは、|すおう《ヽヽヽ》の滝と呼ばれていたのが、いつの間にか、|すごう《ヽヽヽ》となまったらしい。  応永年間に、周防《すおう》の武将として勇猛の名をほしいままにした大内盛見《おおうちもりはる》が、海峡を押し渡って、北九州を制圧したことがあった。その壮挙に成功した大内盛見は、つきしたがった部将以下|股肱《ここう》一統を慰労するために、一日、福智山へ登って、この巨滝の前に、大桟敷《おおさじき》を組んで、盛大な酒宴を催した。  この故事から、|すおう《ヽヽヽ》の滝という名称が起り、やがて、|すごう《ヽヽヽ》の滝と呼びかえられたのであった。  城下からは、わずか四里の近さであったが、その景観は、塵界《じんかい》から遠く離れた神秘なたたずまいをみせていた。  こうした深山の絶勝地は、そのまま、見すてられてはいなかった。  天文年間からは、修験道の霊場になっていた。  まさしく、仏道行法の行者が、瀑布に打たれ、飛瀑に濡《ぬ》れた岩上に結跏跌坐《けつかふざ》するに、ふさわしい場所であった。  世間を俗塵の葛藤《かつとう》場とみなす山伏にとって、山中奥ふかくわけ入った処《ところ》に、轟々《ごうごう》と落下する瀑布の凄《すさま》じさは、その威圧感に堪えることで、法悦を知るのであった。  菅生の滝の甌穴《おうけつ》(滝壺《たきつぼ》)から流れる蒲生川は、一名むらさき川とも称《よ》ばれていたが、それは、流れの途中でつくられた潭《ふち》、瀞《とろ》の水の色の神秘《くしび》な濃さに由来していた。  そのむらさき色の流れに沿うて、杣径《そまみち》を登って行くにつれて、心気はひきしまるのであった。  行法を為《な》す清浄の霊地を、その山奥に見出した修験道は、戦乱とかかわりなく、日本全土から、集って来るようになっていた。  細川|忠興《ただおき》が、小倉城主になってからも、福智山は修験道の霊場とみとめて、家中で、そこに入る者はいなかった。  一人だけ、城下を抜けて、しばしば、菅生の滝へ行く者がいた。  佐々木小次郎であった。  飛瀑に濡れた岩上に立って、そのしぶきにたわむれるように掠《かす》め交う岩燕《いわつばめ》を、虎切刀の迅業《はやわざ》で斬り落すひそかな習練をつづけていたのである。  天正《てんしよう》年間ならば、小次郎のひそかな習練は、きびしくはばまれたに相違ない。その岩上に、結跏跌坐する行者の姿は、四季を通じて、一日も、絶えたことはなかったからである。  豊臣秀吉が、朝鮮を討った頃から、べつに修験道が九州に入るのを禁じられたわけではあるまいが、行者たちは、なんとなく、海峡を渡るのを遠慮し、福智山の霊場も、さびれたのである。  それでも、杣径に、錫杖《しやくじよう》を鳴らす行者の姿は、月に五人や六人は、見出された。  小次郎は、菅生の滝で、幾度か行者とぶっつかった。小次郎がそこへ至った時、すでに、岩上に行者が結跏跌坐していることも、一度や二度ではなかった。  すると、小次郎は、 「退《の》いてもらおう」  と、命じた。  たいていの行者は、小次郎の眼光をあびると、おとなしく、去った。なかには、無視して、坐《すわ》りつづける者もいた。  小次郎は、そうした場合、かたわらに立って、飛ぶ岩燕へ、一閃《いつせん》した。  その迅業に、慄然《りつぜん》となって、行者は、遁《のが》れるように、姿をかくした。  一度だけ、なお、黙然と坐りつづける行者に出会い、小次郎は、いきなり、その首を刎《は》ねて、胴体を滝壺へ蹴落《けおと》したことがあった。  以来、小次郎が、杣径を登って行くと、法螺貝《ほらがい》が吹き鳴らされるようになった。 「来たぞ!」  その合図であった。  岩上に坐す行者は、さっと、姿をかくしたのである。  霊場をけがす悪気毒気の魔障《ましよう》の者、と憤怒して、小次郎を襲って来る行者は、一人もいなかった。  その憤怒を五体にたぎらせて、岩蔭《いわかげ》から、小次郎を狙《ねら》った行者も、いたであろうが、燕返しの迅業を見せられると、それなり、居竦《いすく》んだに相違ない。  魔障を祓除《ふつじよ》し、幽鬼|妖怪《ようかい》のたぐいを慴伏《しようふく》させる精神を、強く働かせる修験道といえども、小次郎の巨躯《きよく》がはなつ剣気と、その迅業の前には、手も足も出ないようであった。     二  宮本武蔵に敗れる悪夢をみたその日の朝、小次郎は、道場を出ると、まっすぐに、南へ城下を抜けて、蒲生川沿いの道を辿《たど》って、福智山へ入った。  急湍《きゆうたん》の音が高くひびく地点から、道は流れに消えて、そこから、むらさき色の水ぎわの砂地を踏み、磊々《らいらい》と横たわる石の磧《かわら》を越えなければならなかった。  とある岩の上に跳びあがった小次郎は、一瞬、右方の樹林へ、視線を投げた。  鋭い眼光が、自分に射かけられているのを、直感したのである。  気配をひそめているのであろうが、小次郎のとぎすまされた神経から、心気をはずすことは、叶《かな》わなかったようである。 「…………」  小次郎は、ふん、と鼻さきで嗤《わら》うと、さっと、次の岩へ身を躍らせた。  やがて——。  小次郎は、菅生の滝の滝口へ登り着いた。  この日は、法螺貝は吹き鳴らされず、途中で、行者の姿を、|ちら《ヽヽ》とも見かけなかった。  ——どうやら、おれを襲う|ほぞ《ヽヽ》をきめた奴《やつ》が居るらしい。  と、小次郎には、予感があった。  秋も闌《た》けていたが、飛瀑の前には、まだ数羽の岩燕の速く掠めるのが、眺《なが》められた。  しばらく——。  小次郎は、岩燕の飛び交うのを、目で追っていた。  岩燕は、いずれも、滝壺の水面を、ひゅっと掠めて、小次郎が立つ広い畳岩を、こするようにして、翻転しては、飛沫《しぶき》の烟《けむり》が陽《ひ》ざしを受けて描く虹《にじ》の中へ、飛びあがる動作をくりかえしていた。  一瞬——。  小次郎の右手が、背負うた物干竿《ものほしざお》の柄《つか》にかけられた——とみた次の刹那《せつな》には、白く閃《ひらめ》く刃光の下で、一羽が、水面へ落ちた。  のみならず、電光に似たその一閃は、はねあげの一閃へ継続し、もう一羽を斬った。  小次郎の迅業は、それだけでおわらず、さらに、びゅんと横薙《よこな》ぎにした。もう一羽が、両断されて、小次郎の足もとへ落ちた。  みじんの狂いもなく、三羽の飛燕《ひえん》の目に見えぬ軌道を、一瞬も休止させぬ太刀さばきで、断った小次郎は、ゆっくりと、踵《きびす》をまわすと、古木が枝を交叉《こうさ》させて包んだひとつの岩の蔭へ向って、冷たく徹《とお》る声音をかけた。 「この巌流《がんりゆう》の業を破る自信があるのか、そこの行者?」  幾秒かの沈黙を置いて、かくれていた者が、すっと、身を起した。  小次郎と同年配の青年であった。  眉目凛々《びもくりり》しく、その白衣の容姿に気品をただよわせて居《お》り、一瞥《いちべつ》しただけで、ただの修験道ではないと、看《み》てとれた。 「当山の嶺風《れいふう》瀑音は、法身の説法ときこえて居るにもかかわらず、その穢身《えしん》でけがすのみならず、罪もなき可憐《かれん》の小鳥を斬るとは、何事であろうか!」  青年行者は、昂然《こうぜん》と頭を立てて、小次郎を咎《とが》めた。 「ふん——」  小次郎は、にやりとして、 「ようやく、不動尊が乗りうつった行者が現れたな。待っていたぞ」  と、うそぶいた。  修験道は、不動明王が悪魔|降伏《ごうぶく》の大忿怒《だいふんぬ》の相をもって、理想としていた。  今日まで、ただの一人も、不動明王の大忿怒の相をおのがものとして、襲って来なかったのを、  ——腰抜け山伏どもが!  と、軽蔑《けいべつ》していた小次郎であった。 「来るか、お主?」  小次郎は、誘った。 「毒気満ちた霊鬼とみなして、これに法罰を加えるのは、この身のつとめだ」  青年行者は、左手につかんだ金剛杖《こんごうづえ》を、横にして、まっすぐに突き出した。  その構えを、じっと見据《みす》えた小次郎は、  ——こいつは、出来る!  と、みとめた。  にわかに、闘志が、油然《ゆうぜん》と総身にみなぎるのをおぼえつつ、 「お主、ただの山伏ではあるまい。兵法を修業して居ろう」  と、云《い》った。 「いささか、心得る」 「この佐々木小次郎が生涯《しようがい》に行なった無数の試合のうち、勝利の記録として後世にのこす試合のひとつに加えてくれるゆえ、その姓名をきいておこう」  小次郎は、不遜《ふそん》の言葉を、対手《あいて》に吐きかけた。     三  青年行者は、小次郎を睨《にら》みかえして、 「元|筑前《ちくぜん》岩屋城代・紹運《じょううん》高橋《たかはし》鎮種《しげたね》が一子|弥七郎《やしちろう》鎮正」  と、名のった。 「ほう、お主は、高橋入道鎮種のせがれか。すると、立花宗茂《たちばなむねしげ》の兄か弟にあたるわけだな?」 「左様、立花宗茂は、わが兄だ」 「武勇の一家だな」  小次郎は、にやりとした。  高橋鎮種は、勇猛と仁義をもって、西国のみならず、遠く関東、奥羽《おうう》まで、その名のきこえた武将であった。  鎮種は、吉弘|鑑理《あきまさ》の次男であった。若年弥七郎といった頃、斎藤鎮実《さいとうしげざね》の妹をめとる約束を、父鑑理がしていた。  しかし、吉弘家では、四方から敵の攻撃を受けて、戦いに寸暇がなく、弥七郎は、父とともに、昼も夜も闘いつづけ、妻を迎えるどころではなかった。  数年が過ぎてから、弥七郎は、ようやく、斎藤家を訪れて、くわしい事情を述べ、婚姻の遅延を詫《わ》びて、あと半年ばかりお待ち頂きたい、と申し入れた。  すると、斎藤鎮実は、 「妹は、一昨年、痘瘡《ほうそう》をわずらって、ふた目と見られぬ醜い貌《かお》に相成り申したゆえ、この約束はなかったことにして頂きたい」  と、こたえた。  弥七郎は、たちまち色をなして、 「これは、もってのほかの僻事《ひがごと》でござる。斎藤家は、ご先祖は、大友《おおとも》家より、武勇を以《もつ》て名を得られた弓取であり、この栄誉の家柄《いえがら》の女《むすめ》と縁組いたすのは、この上もない幸せと存じて居り申した。武士たる者の一言は鉄石よりも重く、一端の約束は変ずるものにあらず。且《かつ》また、それがしは、女人の容色を好む者ではござらぬ」  と、云いはって、即日、その妹を連れて行くときめた。  その時、弥七郎は、二十歳であった。  斎藤家の女をめとってから、弥七郎は、高橋鎮種と名のり、筑前岩屋の城代となった。  天正十四年七月——。  薩摩《さつま》の島津義久《しまづよしひさ》が、五万の兵を率いて、岩屋城を攻めた。  弥七郎は、剃髪《ていはつ》して入道紹運と号していたが、まだ三十九歳の壮年であった。  岩屋城には、手勢二千七百余人しかいなかったが、紹運は、島津の大軍に押し寄せられても、すこしもひるまず、能《よ》く戦った。  しかし、なにぶんにも、五万の薩摩兵の猛攻を受けては、死傷者が続出し、城を脱出する方途もなく、岩屋城の運命は、ついに旦夕《たんせき》に迫った。  それと看た島津の部将|新納《にいろ》武蔵守《むさしのかみ》が、仮りに新納|蔵人《くらんど》と称して、紹運に面会を求めた。  紹運はまた、高橋家の家人《けにん》麻布外記と名のって、面談に応じた。  新納は濠《ほり》の外に、紹運は櫓《やぐら》の上に——互いに、相隔てて、問答に及んだ。  新納は、言葉をつくして、利害を説き、降伏をすすめた。紹運は、臣子の節義を主張して、屈しなかった。  島津義久は、その後、再び、壮厳寺の住職を使者として遣し、人質を一人だけ取って、囲みを解き、大友家と島津家が和睦《わぼく》したあかつきには、その人質を返すと誓うゆえ、降伏するように申し入れた。  島津義久は、羽柴秀吉《はしばひでよし》を後楯《うしろだて》とした大友|義鎮《よししげ》と雌雄を決すべく、薩摩から出陣して来たのであるが、味方であった筑前勝尾城主|筑紫広門《つくしひろかど》の裏切りを激怒していた。  筑紫広門を討つためには、一日も早く、岩屋城を降伏せしめたかったのである。  紹運は、しかし、壮厳寺住職の勧告もしりぞけた。  島津義久は、総攻撃を命じた。  岩屋城は、ついに陥落し、紹運は、まず、妻子を自決させ、辞世の歌を、城門の扉《とびら》に書きつけておいて、屠腹《とふく》して逝《い》った。   屍をば岩屋の苔《こけ》に埋みてぞ雲井の空に名をとどむべき  籠城《ろうじよう》中、紹運は、手負いて討死する士卒に対しては、いちいち、地面に手と膝《ひざ》をついて拝礼したので、城が陥落した時には、一人として落ちのびる者はなく、ことごとく城を枕《まくら》に討死した、という。  この紹運の嫡男《ちやくなん》が、立花宗茂であった。  紹運は、十一歳の宗茂を、立花|道雪《どうせつ》へ養子に遣すにあたり、暇乞《いとまご》いの盃《さかずき》を交してから、 「ひとたび、わが家を出た上は、以後、わしを夢にも父親と思うてはならぬ。明日にも、わしが、立花家と仲たがいして、鑑連《あきつら》(道雪)と敵味方となった際には、そちは、鑑連の先鋒《せんぽう》となって、わしの首級を取りに参るがよい。また、そちが、不覚の落度があって、立花家より義絶せられるようなことがあれば、この岩屋に戻って来てはならぬ。いさぎよく自害せよ」  と、申し渡して、自害用にと、短剣を与えた、という。  立花宗茂は、終生その短剣を、身からはなさなかった。  いま——。  佐々木小次郎の面前に立ったのは、紹運の次男であった。父紹運とともに、岩屋城で死ぬ運命にあったが、一人の侍女のはからいで、無事に城外へ落ちのびさせられたのである。  諸方を流浪《るろう》の末、修験道の世界に身を投じたのであった。  高橋鎮種の実子であれば、勇武の血汐《ちしお》は、脈々として、その五体に流れて居《お》ろう。  小次郎は、天下にきこえた武将のせがれと試合することに、嘗《かつ》てないほどの闘志が湧《わ》きたった。  金剛杖を突き出した構えを視《み》ただけでも、尋常の手練者《てだれ》ではないようであった。 「では、参ろうか」  三羽の岩燕を斬《き》り落した物干竿を、おもむろに、大上段にかざして、 「いざ!」  小次郎は、双眼から火を噴かせた。   相思無残     一  小次郎が立つ巨岩よりも、高橋弥七郎が立つ小岩の方が、身丈《みのたけ》だけ高かった。但《ただ》し、後者の方が、熊《くま》がうずくまったような形状で、二歩の足幅もなかった。したがって、高処《たかみ》の利は、足場の不利によって、相殺《そうさい》されていた。小次郎をのせた巨岩は、千畳敷きとでも誇張して称《よ》ばれそうな平坦《へいたん》な広さを持ち、五体の翻転は自由だったのである。  巨岩と小岩の間は、約一間をへだて、滝壺《たきつぼ》から巻き込まれた水が、底で渦《うず》をなし、白い泡《あわ》を噴いて、岩肌《いわはだ》を洗っていた。  弥七郎は、小次郎から、 「いざ!」  と、誘われるや、左手をまっすぐにさしのべて、胸前に横たえていた金剛杖に、おもむろに、右手を添え、先端を小次郎へ向けると、りゅうとひとしごきした。  とたんに、先端から、音たてて、彎曲《わんきよく》した刃物がとび出した。それは、恰度蟹《ちようどかに》がふりかざした爪《つめ》に似ていた。  その異様な得物と化した金剛杖を視て、小次郎は、冷たく薄ら笑った。 「お主、行者姿をして居るが、修験道をかくれ蓑《みの》にして居るだけだな。いずれは、高橋家を再興して、一城を持とうという存念か」  金剛杖は、仏法を護《まも》る法具で、その四角の各面に、発心、修行、菩提《ぼだい》、涅槃《ねはん》の四転を現して居り、これに、刃物を仕込むなどということは、行者ならば絶対にしないはずであった。  いかに魔軍を破る目的を持つ杖であっても、兇器《きようき》たらしめる工夫を加えることは、許されていないのであった。 「左様——」  弥七郎は、昂然《こうぜん》と胸を張って、応《こた》えた。 「目下、当山に集った行者百余名は、いずれも、島津義久、義弘《よしひろ》に攻められて主家を滅された武辺だ。それがしは、一同の協議によって、頭領に推された。……秋《とき》を得て、薩摩へ突入し、亡君亡父の怨《うら》みを濯《そそ》がんと誓い合った血盟の一党である」  その本拠である福智山を、無断で踏みあらす兵法者を、いつまでも、許しておけぬ、という次第であった。 「喪家《そうか》の痩《や》せ犬どもが、百や二百集ったところで、どうなるものでもあるまい。関ケ原役後、徳川内府でさえも、これを討つのを止《や》めた島津義弘を、滅そうなどとは、所詮蟷螂《しよせんとうろう》の斧《おの》だ。笑止の沙汰《さた》も、きわまれりというべきだぞ」  その嘲罵《ちようば》に対する弥七郎の返辞は、無言|裡《り》にくり出す凄《すさま》じい一撃であった。  くり出した刹那《せつな》、先端の二本の刃物は、ぱっと左右に開いた。  小次郎は、とっさに、その一撃に対して、こちらが相撃つ愚をさとって、すうっと後退した。  生きもののように自在に開閉する工夫をされた二本の刃物は、剣が来ればその剣に噛《か》みつき、刃圏内に敵が入れば、顔面であろうと咽喉《のど》であろうと、容赦なく、皮を破り肉を裂き骨にくらいつくであろう。  小次郎の物干竿《ものほしざお》といえども、くり出される九尺の金剛杖を両断せぬ限り、間合を見切って、弥七郎に血煙をあげさせることは叶《かな》わぬのであった。  弥七郎の飛電の突きにあわせて、燕返《つばめがえ》しの迅業《はやわざ》をふるって、金剛杖を両断するためには、なおしばらく、様子を看《み》、汐合を測らねばならぬようであった。  たとえ、金剛杖を両断し得たとしても、その時、先端の二本の刃物が、こちらの顔面か咽喉か胸にくらいついたならば、敗北であった。  おそらく、弥七郎は、島津義弘を仕止めるべく、千思万考した挙句、この兇器を製《つく》ったに相違ない。  二本の刃物には、猛毒が塗られていると、小次郎は、察知したのである。  その刃物で、薄傷《うすで》を負わされただけでも、生命を落すことになろう。  小次郎は、金剛杖のとどかぬ遠くへ退いて、待った。  弥七郎が、こちらの巨岩上へ、跳び移って来る——その一瞬に、勝負はきまるであろう。  一心一刀虎切刀の、目にもとまらぬ燕返しが、金剛杖を両断しざま、弥七郎を真二つに斬ることになる。  小次郎は、満を持した。     二  弥七郎は、容易に、巨岩へ跳び移っては来なかった。 「おい、どうした! こちらへ躍《や》って参らねば、この佐々木小次郎を討つことは叶わぬぞ。その金剛杖が勝つか、この物干竿が優《まさ》るか——神のみぞ知る。来いっ!」  小次郎は、誘った。 「参るとも! おのれの穢身《えしん》を、滝壺の底へ沈めてくれるぞ!」  そう叫びつつも、弥七郎は、跳躍までいくばくかの時間を置いて、心気を、その一瞬に、窮《きわ》めようと、まばたきもせず、不動の構えを保った。  その時——。  宙を截《き》る鋭い刃音が、小次郎めがけて唸《うな》った。  手裏剣《しゆりけん》が二本、木立の奥から、並行して、襲ったのである。  小次郎に、燕返しの神速の秘技がなければ、あるいは、その一本に刺されていたかも知れぬ。  手裏剣は、二本とも、物干竿によって、はじきとばされた。  その瞬間に、弥七郎が、巨岩へ跳躍する隙《すき》はあった。  いかに小次郎といえども、弥七郎の襲撃を躱《かわ》すいとまはなかったはずである。  どうしたのか、弥七郎は、その隙をとらえて身を躍らせることをしなかった。その助勢を予測していなかった証拠である。  小次郎は、万死《ばんし》に一生を得た、というべきであった。  ひきつづいての手裏剣の攻撃をきらった小次郎は、われからこの勝負をすてて、ぱっと宙を翔《と》ぶと、はるか下方の岩へ、移った。  そして、あっという間に、樹林へ姿を消した。  弥七郎は、それを見送って、舌打ちすると、 「於吉、よけいな手助けを、するな!」  と、木立の蔭《かげ》へ向って、叱咤《しつた》した。  ひょいと、現れたのは、同じ白装束の行者姿であったが、整った容子はまだ二十歳そこそこの娘のものであった。 「若殿、佐々木小次郎は、わたしにとっては、父の敵《かたき》でありまする」 「お前の父|蟠龍斎《ばんりゆうさい》は、小次郎と尋常の試合をして、敗れたのだ。遺恨はのこって居らぬ」  弥七郎は、云った。  佐々木小次郎が、九州に入って四年余の間に行った八回の真剣勝負のひとつに、熊本に於いて、蒼雲軒《そううんけん》蟠龍斎という手裏剣の達人との決闘があった。  蟠龍斎は、距離三十歩を置いて、突き進んで来る小次郎めがけて、七本の手裏剣を放ち、ことごとくはじきとばされた挙句、唐竹割《からたけわり》に斬られたのであった。  蟠龍斎は、曾《かつ》て、筑前《ちくぜん》岩屋城に逗留《とうりゆう》して、城代高橋|鎮種《しげたね》とその家来たちに、手裏剣の術を教えたことがあった。  その縁をたよりにして、幼い弥七郎を、陥落した岩屋城から連れ出した侍女は、熊本の蟠龍斎に、かくまってもらったのであった。  弥七郎は、蟠龍斎の家で、育ったのである。蟠龍斎の一人娘於吉とは、いわば、兄妹のような間柄《あいだがら》であった。 「若殿——」  於吉は、じっと、熱っぽい眼眸《まなざし》を、弥七郎にあてて、云《い》った。 「わたしが、手裏剣をとばさなければ、若殿は、あの岩へ跳び移られていたでしょう?」 「跳んだら、わしが、斬られていた、と申したいのか?」 「あるいは……」 「莫迦《ばか》! わしは、彼奴《きやつ》の贄《にえ》になどなるほど未熟者ではない。彼奴を仆《たお》す一手を思案していた矢先を、お前に邪魔された」  於吉は、俯《うつむ》いたが、べつに、助勢したのを申しわけないと思ったわけではなかった。  瀞《とろ》ぶちの岩場に降りた時、於吉は、呟《つぶや》くように、 「……あの刹那、若殿は、跳んで下さればよかったのに——」  と云った。 「莫迦! 女子《おなご》の手助けで、討ち勝ったりすれば、面目を失うだけのことだ。恥にこそなれ、なんの手柄にもならん!」  弥七郎は、吐きすてた。  おのれは、猛将高橋鎮種の子である、という矜持《きようじ》が、弥七郎には、あった。  そしてまた、決闘に於いて、敗れて死ぬことも、いささかもおそれてはいなかった。佐々木小次郎ごとき異端の邪剣使いを、討てぬようでは、とうてい、島津義弘の首級は取れぬ、とおのれに云いきかせて、一騎討ちに出たのであった。  やがて、二人は、杣道《そまみち》へ出た。  斧鉞《ふえつ》を入れられたことのない深山なので、昼もなお、足もとは昏《くら》かった。 「若殿——」  背後から、於吉が呼んだ。 「なんぞ?」 「わたしを、いつ、女にして下さいますのじゃ?」  この時代の娘は、一途《いちず》に想《おも》いつめると、決して、|うじうじ《ヽヽヽヽ》と心中で悩んだりはしなかった。率直に、その気持を、口にした。 「まだ、早い」 「わたしは、もう二十一歳になりました。貴方《あなた》様のおなさけを受けてもよいと存じます」 「…………」 「それとも、若殿は、この於吉を、妹のようにしかお思いになりませぬか? 女子として、とりあつかうお気持は、ありませぬか?」 「そんなことはない。わしも、お前の肌《はだ》を欲して居る」 「ならば、今日にも……、たったいまにも——」 「急《せ》くな!」 「急きまする。……わたしは、若殿の嬰児《やや》を生みとう存じます」  於吉は、せき込むように、求めた。     三  弥七郎は、やおら、踵《きびす》をまわして、於吉に向きなおった。  実は、弥七郎も於吉を愛していた。於吉以外に妻にする女はいない、と考えていたのである。  互いに、暗黙裡に、相愛の状態にあることは、通じあっていたが、決死の目的を持っているために、口に出したり、からだを求めるのは、遠慮していた、といえる。  いま——。  なんとなく、自分たちに、ひとつになる時が来たような気が、弥七郎にはした。 「於吉——」  呼ぶ弥七郎の声音が、うわずったものになった。弥七郎は、まだ、女の肌を知らなかった。 「はい!」  於吉は、応えた。彼女にとって、待ちに待った時が来たのである。  弥七郎は、金剛杖を、かたわらの老松へたてかけると、双手《もろて》をさしのべた。  於吉は、そのふところへ、身を投げ込んだ。  弥七郎は、力一杯、於吉の若いしなやかな、弾力のあるからだを抱きしめた。 「う、うれしい!」  於吉もまた、|ひし《ヽヽ》とすがりついた。  二人は、自然に、唇《くちびる》を求め合った。  接吻《せつぷん》とは、このように、甘美な、この世を二人だけのものにする、身を真空の中に容《い》れて、一切のことを忘れさせるものであったのか!  弥七郎が次にとるべき行動は、本能が教えた。  すこしずつ、於吉のからだを倒しかかった——その時であった。 「高橋弥七郎、なんのざまだ! 佐々木小次郎は、ここに居るぞ!」  背後から、その高声が、あびせられた。  熱情に五体を灼《や》かれていた弥七郎は、小次郎が近づいて来た気配に、全く気がつかなかったのである。  於吉もまた、唇を与え、目蓋《まぶた》を閉ざし、官能のよろこびに、五感をおぼれさせていた。  小次郎は、弥七郎が、於吉を突きはなしておいて、老松にたてかけた金剛杖をひっ掴《つか》んで、向きなおるまで、待ってやった。  しかし——。  身構えるいとままでは、与えなかった。  背負うた物干竿を、目にもとまらぬ速度で、抜きつけに、 「ええいっ!」  懸声に合せて、きえっ、と宙に鳴らした。 「ああっ!」  悲鳴は、弥七郎と於吉が、同時に、ほとばしらせた。  金剛杖を両断した物干竿は、そのまま、びゅんと、弥七郎の顔面へ、はねあげられた。 頤《おとがい》から、口、鼻、そして眉間《みけん》を、截《た》ち割られて、もの凄《すご》い血《ち》飛沫《しぶき》の下で、弥七郎の五体は崩れた。 「ちっ! 外道っ!」  於吉が、狂ったように、はね起きざま、手裏剣を、つづけさまに、三本、打ちつけて来た。  小次郎は、二本をかわし、一本をはじきとばした。 「ふん——」  小次郎は、鼻を鳴らして、せせら嗤《わら》った。 「そなたを抱くのは、高橋弥七郎ではなく、この佐々木小次郎であったな」 「悪鬼め! 外道め! ……お、おのれなどに、操《みさお》を奪われてなろうか!」  於吉には、もはや、手裏剣はなかった。  やむなく、懐剣を抜きはなって、防禦《ぼうぎよ》の構えをとった。  しかし、弥七郎を斬られた絶望感の底にある於吉は、この事態が悪夢のような気がして、眼前に立つ小次郎の姿が、ぼうっと、霧の中に溶けるようにかすんで見えた。  小次郎が、すっと、迫った。  於吉は、地を蹴《け》って、突きかけた。  その懐剣をもぎとられるところまでの意識しかのこらなかった。  地面に押し倒され、白袴《しろばかま》を剥《は》ぎとられ、下肢《かし》を大きく押し拡《ひろ》げられるのに、わずかに、無意識裡のあらがいを示したばかりであった。  ……ふっ、と。  われにかえった時、於吉は、枝葉|洩《も》れの眩《まぶ》しい陽《ひ》ざしが、仰臥《ぎようが》した自分に落ちているのを、おぼえた。  股間《こかん》の奥に、微《かす》かな疼痛《とうつう》があった。  なおしばらく、於吉は、茫然《ぼうぜん》と虚脱の中で、身じろぎもせず、下肢を開いたままでいた。  ……やがて、のろのろと身を起した於吉は、五、六歩さきに、斃《たお》れている弥七郎を見出した。 「あ、ああっ!」  自分が、どのような惨《みじ》めな生地獄におとされているのか、気がついた於吉は、名状しがたい悲鳴をほとばしらせた。  慟哭《どうこく》は、そのあとに来た。   二刀流|伊織《いおり》     一  伊賀《いが》上野の山中にある草庵《そうあん》「洗心洞」では、伊織の兵法精進がつづいていた。  但《ただ》し、その師幻夢の姿は、炉辺から、永遠に消え去っていた。  逝《い》ってから、もうすでに半年の月日が経《た》っていた。  幻夢は、自分の寿命の尽きたのをさとり、伊織に予告し、そして、他界したのであった。|病 牀《びようしよう》に臥《ふ》したのは、わずか十日あまりであった。  恰度《ちようど》、一年前の初秋のある朝——。  幻夢は、伊織に、二本の木太刀を携えて、庭に出るように命じた。  自身も、二本の木太刀を携えて、伊織の前に立った。 「わしは、来春|頃《ころ》には、もう、この世に居《お》るまい」  なにげない口調で、そう告げておいて、 「それゆえ、すこし急いで、お前に、教えておかねばならなくなった」  と、じっと伊織を見|据《す》えた。 「お願いつかまつります」  伊織は、頭を下げた。  この日まで、幻夢は、伊織に木太刀を撃ち込ませはしたが、自身からは、ただの一度も、構えさえも教えていなかった。伊織は、我流の独習をつづけていたばかりであった。 「お前には、二刀を使わせてみようと思う」  幻夢は、云った。 「はい!」  幻夢は、伊織の膂力《りよりよく》の秀《すぐ》れているのと手が並はずれて大きいことと、そして、反射神経の働きの素迅《すばや》さをみとめていたのである。 「双手で、上段から、同時に、振りおろしてみよ」  幻夢は、命じた。 「はい!」  伊織は、二本の木太刀を、びゅんと唸《うな》らせた。 「やはり、左がいささか弱いの。二刀を使うからには、右も左も、同じに使えなければならぬ」  室町時代までは、戦場に於《お》いて、二刀をふるった武辺は、いくらも、見受けられた。  しかし、方今、二刀を使う兵法者は、まれであった。 「二刀は習い難し」  というのが、常識となっていた。  一本の剣をふるう業《わざ》を会得《えとく》するのさえも難しいのであった。まして、片手で振るのを、両手でつかんで振るのと同じくらいに習得するのは、至難といわざるを得なかった。  さらに、左右二本の剣を、同時に振りさばく業を、わがものにするのは、よほど膂力と天稟《てんぴん》をそなえていなければ、為《な》し難い苦行であった。  加之《のみならず》——。  二剣を使う技法は、一本の剣の場合よりも、はるかに多く変化に富んでいるゆえ、その技法に、使い手自身がとらわれるおそれがあった。  したがって、二刀を学ぶ者は、それだけの体力と精神力を兼備した者でなければならなかった。  幻夢は、伊織の独習を眺《なが》めているうちに、二刀を学ぶ苦行に堪え得る、と看《み》て取ったに相違なかった。  その日——。  幻夢は、二刀を使う上での、持ちかた、振りかた、構えかたを教えた。  それは、きわめて初歩の、しかも、最も重大な教えであった。     二  まず、その持ちかたであるが、片手で持てば、当然、剣の重量のすべては、その片手にかかる。したがって、一度|柄《つか》を握ったならば、握った場所を変えることはできない。抜き持った時、その握り場所をきめておかなければならぬ。  鍔《つば》から一寸あまりはなして握るのが、一番よいのであった。  次いで、その握りかたは、小指と薬指を、|しか《ヽヽ》と締め、中指は締めず緩めず、人差指と親指は添えて浮く程度にする。  剣を正しく振るためであった。五本の指すべてで、強く握り締めると、手くびが、居付いてしまう。居付くということは、手に力がこもりすぎて、敵へ向って正しく撃ち込もうとしても、手くびと腕の癖がそのまま刀身につたわって、方向が狂ったり、刃が横向きになったりする。  これは、振りかたにも、いえる。  剣には、道筋がある。刃と峰の方向のことである。  剣は、物をよく斬《き》るために、刃の方向へむかって振るように、つくられてある。これを、 「正しい道筋」  と、いう。  この正しい道筋以外の方向へ、振ろうとすれば、剣の運動に無理が生じ、おのずと握った手に力がこもる。  正しい道筋の太刀行きは、静かに振ることによって生ずる。静かに、というのは、べつに、のろのろ、という意味ではない。あわてたり、あせったりして、振ってはならぬ、という意味である。  刃の方向へ振り下したならば、その道筋を再び振りあげる。横へ薙《な》いだならば、その道筋を戻す、といったように、振りよい道筋へ道筋へと、大きく肱《ひじ》を延べて、強く振るのを定法とする。  二刀の用法は、剣の道筋をみじんも狂わせぬところから、出発する。  さて——。  二刀の構えであるが、五方の構え、といい、上段、中段、下段、右脇《みぎわき》、左脇と、五つの型があった。  但し、これは、あくまで型であって、幻夢は、伊織に、 「構えというものは、有るといえばあり、無いといえば無い」  と、教えた。  構えとは、敵を斬りやすいように剣を置くにすぎないから、決して構えに心をとらわれてはならぬのである。  上段の構え。  これは、二刀をともに、頭上へ八字型に振りあげた形である。したがって、敵へむかって、撃ち込むのは、迅速であった。  しかし、構えそのものとしては、防禦性を持たぬ。敵へ攻撃をしかけて、ひるませるか、あるいは、跳び退って敵を避けるかである。攻撃も防禦も、剣を振りおろす以外に、変化も有《も》たぬ構えである。上段の構えが、たくらみのない、率直な構えである、といわれる所以《ゆえん》であった。  それゆえ、敵が撃ちかかって来るより、一|刹那《せつな》早く、斬りおろさねばならず、この一手しかない、となれば、敵の動きを看、応ずる種々な呼吸を工夫し、且《かつ》色々な拍子《ひようし》を会得しなければならぬ。この呼吸と拍子を知らずに、上段に構えるのは、全く愚かである。  さらには、上段の構えから、斬りおろしたとしても、初太刀で、必ずしも、敵を仆《たお》せるとは限らぬ。そこに、上段の構えの危険性が含まれている。  斬りはずした時は、振りおろした太刀を、とっさに、峰をかえして刃を上にし、敵が撃ちかかって来るところを、すくいあげに、斬る。もとより、それには、目にもとまらぬ迅業《はやわざ》を必要とする。構えそのものに、たくらみがないだけに、剣の斬りおろし方に、心気が一如《いちによ》のものとなる呼吸と拍子がなければならぬ。  ところで、上段の構えの場合、大刀が攻防の主位を取っているため、小刀は、大刀の活路を邪魔しない位置ならば、どこに置いてもよいわけであるが、もし小刀を中段に置いたとせんか、小刀の防禦力は増すが、心気の上では大刀の活力が減殺されるおそれがある。小刀を中段に置くのは、一流の芸者《げいしや》としては絶対にとらぬところである。小刀は、常に、大刀の活動を補佐するように、構えも動きも扈従《こじゆう》させていなければならぬ。  中段の構え。  これは、大小二剣の切先を、敵の顔へむかって、まっすぐに突きつける構えであった。  敵が斬りつけて来たならば、右へ大刀をすこしはずして、敵の白刃の上へ乗せ、そのまま突くか、あるいは、切先返しに斬り下げる。そして、斬り下げた大刀を、下段で峰をかえし、次に、敵が斬りかけて来るところを、びゅんと、刎《は》ねあげに、敵の手くびを両断する目的で、斬る。  中段の構えは、防禦の点では、他のいずれの構えにも優《まさ》っているが、攻撃に出るには、不利がある。防禦力の優れた点を利用して、敵に押し進み、その崩れをとらえて、勝つ手法をとらねばならぬ。  下段の構え。  これは、双刀を、ダラリとひっ携《さ》げた形である。  一瞥《いちべつ》したところでは、きわめて無防備と見えるが、下から斬り上げる太刀行きは、非常な迅さである。  敵が、撃ちかけて来るところを、下から、敵の手をはたくように、斬り上げる。  敵が、かりに青眼《せいがん》から斬りつけて来るならば、振り上げ振りおろす二拍子であり、これに対して、こちらは、下段から、びゅんと斬り上げる一拍子である。その遅速の差の利点が、この構えにはある。  この場合、小刀の方は、敵との間隔がせばまるまで用いないのが、原則であった。  敵としては、下から刎ねあがって来る剣に勝つには、これを撃ち落すのが、最も早道である。そこで、こちらは、敵の撃ち落しにかかって来るのを逆に利用して、敵の剣の道筋から、わが太刀行きを外《そ》らしつつ、刎ねあげ、敵が撃ち損じた瞬間、その腕を狙《ねら》って横から、すぱっと両断するのであった。  右脇の構え。  大小二剣を、右方へ平行に横たえて、敵の仕掛けを待つ構えである。  敵が斬りつけて来たならば、小刀で受けとめ、同時に、大刀を斜めに上段へひきあげて、ずんと敵を脳天から斬り斃《たお》すのを定法とする。  左脇の構え。  大小二剣を、左方へ平行に横たえる。この場合、右脇の構えとちがうところは、大刀が上になっていることであり、敵が斬りつけて来たならば、大刀で受けるとみせて、敵の剣をはたきあげ、はずされたならば、そのまま、右肩斜め上にひきあげて、上段の構えに移す。小刀は、大刀の動きのあとを追って、同時に、動く。  右脇の構え、左脇の構えは、いずれも、誘いの構えであり、また、右か左かが、石垣《いしがき》とか立木とかでつまっている場合に用いる。     三  幻夢は、伊織に五方の構えを教えておいて、翌日から、その五方の構えから生む撃ち方、突き方、受け方を伝授した。  撃ち方には、一拍子の撃ち、二拍子の撃ち、無念無想の撃ち、流水の撃ち、縁《ふち》の|あたり《ヽヽヽ》、石火の|あたり《ヽヽヽ》、落葉の撃ちがあった。  突き方には、振り突き、直心の突き、突きあげ、面を刺す、の四法があった。  受け方には、流し受け、突き受け、入身受け、の三法があった。  伝授は、三日で終り、幻夢は、 「あとは、お前が、理《ことわり》に適《かな》ったように、一人で、習ってみることだ」  と、云いおいて、炉辺へ戻った。  それきり、幻夢は、伊織の独り修業を、観《み》ようとはしなかった。  不動智に就いては、すでに、幻夢は伊織に教えていた。  二刀を使え、と命じ、その構えと使い方を伝授した上は、もはや、幻夢には、教えるべきことは、なにもなかった。  幻夢は、炉辺に坐《すわ》って、庭からひびく凄《すさま》じい懸声と木太刀の唸《うな》りをきき乍《なが》ら、次第に痩《や》せおとろえていった。  ——これでよいのか?  武蔵や沢庵にめぐり逢《あ》っても、ちょっと判《わか》らぬほどに、逞《たくま》しく、凛々《りり》しく、青年の容貌《ようぼう》と体躯《たいく》の持主になった伊織の胸中には、絶えず、疑惑がたゆとうていた。  幻夢が、いよいよ、死の牀《とこ》に就く直前、伊織は、自分の修業の成果を、観て頂きたい、と乞《こ》うた。  しかし、幻夢は、 「よい、よい」  と、うなずいただけで、ついに、腰を上げようとはしなかった。  なぜ、観てくれぬのか、伊織には、判らなかった。  二刀の業の完成には、まだ長い歳月を必要とする、と知っていて、その未熟の業を眺《なが》めて、心残りのままに逝《い》くのを、避けたのであったろうか?  それとも、懸声と木太刀の唸りをきいただけで、  ——わがものにした。  と、安心したのであったろうか?  幻夢は、夕餉《ゆうげ》のあとなど、伊織が解きがたい疑問を口にすると、それに対しては、ぼそりぼそりと、言葉|寡《すく》なに、適切な返辞をして、伊織に目をひらかせた。  しかし、死の牀に就いてからは、全く、沈黙した。  いよいよ、意識を喪《うしな》いかけた折であった。  幻夢は、微《かす》かな声音で、うわ言のように、 「自然に、さからっては、ならぬ。……平常心を、失わずに、……心は早からず、心に用心して、身は要心せぬように……、よいな」  と、云った。  それが、遺言となった。  伊織は、幻夢を葬《ほうむ》った日も、修業を休まなかった。  孤独の寂寥感《せきりようかん》は、いよいよ、伊織をして、精進にかりたてた。  精進すればするほど、  ——これでよいのか?  その疑惑は、胸中につきまとった。  山中に、熊《くま》や猪《いのしし》はいたが、伊織は、それらの野獣をえらんで、おのが二刀の使いかたを試みてみようとはしなかった。  もっぱら、目に見えぬ敵を、前方に置いて、大小の木太刀をふるうばかりであった。  それは、いつぞや、幻夢に向って、 「先生は、どのような修業をなさいましたか?」  と、訊《たず》ね、 「陽《ひ》ざしや雨や風を対手《あいて》としただけであった」  と、きかされた——その言葉が、脳裡《のうり》に刻みついていたからである。  伊織の修業は、武蔵の少青年の日のがむしゃらな刻苦の習練とは、根本に於いて、異っていた。  伊織は、沢庵から、 「宮本武蔵とは別個の兵法者になるがいい。お前は、お前流の兵法者になるのだ。決して、宮本武蔵のような人を斬るためだけの兵法者になってはならぬぞ」  と、申しきかされていた。  洗心洞幻夢は、生涯《しようがい》ただ一度の試合もせずに、終った兵法者であった。  伊織は、幻夢の人格に、全く感化されていた。 「剣は正しい理《ことわり》に則《のつと》って、使わねばならぬ」  そのことを、|きも《ヽヽ》に銘じていた。  自分は、武蔵とは、全然異った兵法者として生きて行くように、思われて来ていた。  ただ、一度も、目に見えた敵を対手にして闘ったことのない伊織に、  ——これでよいのか?  と、おのが技倆《ぎりよう》に自信が生まれないのは、いたしかたがなかった。   忍者討ち     一  伊織が、やがて、その二刀流の修業の成果を発揮する機会が、おとずれた。  夜半、豪雨をともなった颱風《たいふう》が、幾戸かの人家を倒し、老木を折り、川を氾濫《はんらん》させておいて、吹き去った——翌朝、嘘《うそ》のように美しく晴れあがり、秋の澄んだ山気の中で、伊織は、屋根にのぼって、破れた箇処を、つくろっていた。  庭さきの赤松は、中ほどから真二つになり、いたましく、生肌を剥《む》かれていたし、柵門《さくもん》は吹きとばされていた。  そして、眼下にひろがる里の田畑の多くは、土砂にうずまって、さんたんたる景色に変っていた。  幼い頃《ころ》から、山野を家として流浪《るろう》をつづけていた伊織は、こうした天変の猛威に遭うた光景を、いくたびも、目撃していたので、さしておどろきもしなかったが、この草庵《そうあん》のあるじとなったいまは、あちらこちらの修理に、手間と日数をかけねばならぬ面倒くささに、すこし腹を立てていた。  ——所有物がある、というのは、厄介《やつかい》なことだな。  はじめて、そのことを思い知らされ乍ら、伊織は、せっせと働いた。  陽がかなり高く昇った頃合であった。  なだらかな坂道を、息せき切って、駆けあがって来る者があった。  頭髪をふり乱した、野良着《のらぎ》姿の中年女であった。 「お、おねがいでございます! 若先生!」 「洗心洞」と、刻まれた山桜わきに、べたっと土下座して、必死の形相を、仰向けたのは、伊織も見おぼえのあるいくさ後家であった。 「む、むすめを……、救うて下されませ!」 「どうしたのだ?」 「むすめが、さらわれて……、殺されます!」 「…………」 「下柘植《しもつげ》の若猿《わかざる》殿が——どこかの戦場《いくさば》で、死んだ、とばかり思うていたに——顔中焼けただれた、ふた目と見られぬ面相になって、戻って来て……、ゆうべの嵐《あらし》で、狂うたのでございます。……今朝がた、|うち《ヽヽ》へ踏み込んで来て、むすめを——まだ十六の八重を、むりやり、さらって行って、しもうたのでございます。お願い申します! むすめを、救うて下さいませ!」  いくさ後家は、額を地面にすりつけた。  ——下柘植の若猿?  伊織は、曾《かつ》て、武蔵を慕うて、あとを追う夕姫の供をして、この伊賀の南谷を通った際、宍戸梅軒《ししどばいけん》の虜《とりこ》にされたことがあった。  伊織は、梅軒から、裏山に宮本武蔵の墓があるとだまされて、そこへ登ったところを、二人の伊賀衆に襲われて、松の木へひっくくられた。そして、そのあいだに、夕姫は、梅軒から犯されたのであった。  伊織のいましめを解いてくれて、夕姫を犯した梅軒を、伊賀から追放したのが、下柘植の大猿という、伊賀|上忍《じようにん》十一家の長老であった。  ——下柘植の若猿、というからには、あの大猿の伜《せがれ》ででもあろうか? 「何卒《なにとぞ》、お願いでございます! むすめをお救い下されませ」 「上忍の家に、救い手は居《お》らぬのか?」 「このたび、忍びの達者たちは、えらばれて、江戸表へ召されました。残ったのは、年寄ばかりでございます。それに、下柘植家は、上忍筆頭でありますれば、下忍《げにん》どもが、若猿殿に手向うことは、許されませぬ」  いくさ後家は、苦悩の挙句、この「洗心洞」に残っている伊織の存在を思い出したに相違ない。 「…………」  伊織は、ちょっと、ためらった。  二刀の習練の成果を、狂った忍者を対手にして、試みることに、気のすすまぬものをおぼえた。  なろうことならば、はじめての勝負は、一流の兵法者でありたかった。 「お願いでございます!」  泪《なみだ》に頬《ほお》を濡《ぬ》らして、合掌するいくさ後家を、見下すうちに、  ——やむを得ぬ!  伊織は、|ほぞ《ヽヽ》をきめた。 「引き受けた」  伊織は、庭へ跳び降りた。     二  そこに至るには、二里近くも渓谷《けいこく》をさかのぼらなければならなかったが、鉄砲水が荒れ狂った流れぎわは、道が全く失われていた。岩石や土砂や、巨木が、美しく清らかで、幽邃《ゆうすい》であったであろうたたずまいの様相を、むざんに一変させていた。  濁水は、なお、凄じい勢いで、岩を噛《か》み、倒れ込んだ樹木を巻いて渦《うず》をつくっていた。  伊織は、いくさ後家を扶《たす》け乍ら、岩を跳び、木枝につかまって、流れを渉《わた》って行った。  やがて——。  眺めがひらけた。  山岳が左右へ後退し、田畑がひろがり、流れも幅がひろくなった。  ふしぎに、この山峡《やまかい》は、あまり被害を蒙《こうむ》っていない模様であった。 「あそこでございます」  いくさ後家は、右方の麓《ふもと》の一角を、指さした。  ——百地《ももち》屋敷に、似ているな。  伊織は、思い出した。  高い石垣《いしがき》が築かれ、石垣の上には、塀《へい》の代りに櫓《やぐら》が、そびえていた。  しかし、母屋《おもや》の屋根は、櫓の後方にはなかった。  天正《てんしよう》の乱で焼失したまま、再築されなかったものと思われる。 「下柘植家の本家か?」 「いいえ、ご本家は、もう一里も奥に入ったところでございます。あれは、分家の屋敷で、いまは、無人になって居ります」 「本家の大猿殿は、生存されて居らぬのか?」 「一昨年、お喪《な》くなりになりました」 「若猿というのは、大猿殿の息子なのであろう?」 「はい。次男でございます。長男の小猿殿は、江戸表へ召されて、ご本家も無人に相成りました。……若猿殿は、十年前に、家を出て行って——、死んだものと思われていたのに……」  いくさ後家は、うらめし気に、下柘植の分家屋敷跡を、ふり仰いだ。  その時——。  異常な悲鳴が、櫓からほとばしり出て来た。 「ああっ! むすめが! ……若先生、何卒、おたすけを——」 「ここで、待つがよい」  伊織は、ゆっくりと、坂をのぼって行った。  百地屋敷と同じ構えで、石段は正面に設けられず、右方の蔭《かげ》につけられてあった。  上り口が桝形《ますがた》になっているのも、同じであった。  その桝形の石段下に立った伊織は、  ——狂った忍者を敵として、尋常の勝負ができる道理がない。  と、あらためて、ためらった。  なにか、策があれば、それを用いるべきであった。さしあたって、伊織には、なんの策も思いつかなかった。  やむを得ず、伊織は、油断なく、石段をのぼりはじめた。  中段まで身を運んだ時、突如、櫓の窓の太格子《ふとごうし》の蔭から、鋭い弦の音とともに、矢が放たれた。  伊織は、ぱっと石垣へ背中をすりつけて、飛矢をはずすや、次の瞬間、まっしぐらに、石段を駆け上り、櫓下に達した。  そこは、窓からは、死角になっていた。 「下柘植の若猿殿に、物申す。洗心洞伊織、試合を所望いたす!」  伊織は、叫んだ。  それに応《こた》えて、噴くような哄笑《こうしよう》がひびいた。 「洗心洞伊織だと? なんだ、おのれは?」 「兵法者でござる」 「ふん! 試合を所望だと? ……おれは、忍術者だぞ。兵法者ではないわ。……勝負など、まっぴらだ! ……おのれは、庭へ、さそい出そうというこんたんだろうが、その手には乗らん。……娘をとり返しに来やがったのだろう。とり返したくば、ここへ、あがって来い!」 「娘をとり返しに来たのではない。試合に来たのだ。……出て来なければ、火を放って、櫓を焼くぞ」  とっさに思いついたおどしを、伊織は、口にした。 「なんだと?!」 「娘もろとも、お主も、焼き殺す」 「くそ! ほざいたな!」  窓の太格子が、突き破られて、ひとつの顔が、ぬっと現れた。  化物であった。皮膚は焼けただれ、赤い肉がむき出しになり、片目はつぶれ、鼻梁《びりよう》は陥没し、唇《くちびる》はねじれあがっていた。  これだけひどい火傷を負い乍《なが》ら、生きのびたのが、奇蹟《きせき》といえる。こんな悪鬼の相になった者に、平常の精神と神経をのこせ、とのぞむのは、無理というものである。 「この上、火焔《かえん》をくろうてたまるかっ!」  下柘植の若猿は、呶鳴《どな》りたてた。 「ならば、出て来て、試合をしろ」 「ようし! ……おのれは、庭のまん中へ、出ろ!」 「やるのだな?」 「うぬが面《つら》を、滅多|斬《ぎ》りにしてくれるわ!」  若猿は、再び哄笑を噴かせた。     三  伊織は、すたすたと十歩の距離を、歩み出て、櫓へ向きなおった。  とたん、 「くらえっ!」  呶号とともに、つづけさまに、黒い手裏剣《しゆりけん》が、飛来した。  伊織は、自然体で、両手を下げたまま、立ったなりであった。  手裏剣は、五体を狙《ねら》ったのではなかったからである。  いずれも、伊織の左右前後へ、飛来して、地面に突き刺さった。ただの手裏剣ではなく、飛ぶ間は、両端の尖《とが》った独鈷剣《どつこけん》の変形状であったが、地面に突き刺さった瞬間、音たてて、十文字に、ぱあんと開いた。  二個の手裏剣を組合せて、たたんであったのである。  下柘植の若猿は、およそ七、八十本も、伊織の周囲へ、撃ち込んでおいて、 「おい、どうだ! おのれは、もはや、そこから、一歩も動くことは叶《かな》わぬのだぞ。それでも、おれと、立ち合うか?」  たしかに、八方の地面に、十字手裏剣を植え立てられては、身を翻転させる自由は、全く失われた伊織であった。 「所望したのは、それがしでござれば、ぞんぶんに、術を尽されい」  伊織は、昂然《こうぜん》と頭を立てて、こたえた。 「小面憎いぞ、青二才!」  醜貌《しゆうぼう》の忍者は、鳥の軽やかさで、窓から、身を躍らせた。  双の手に、一本ずつ、手槍《てやり》をひっ掴《つか》んでいた。  これも、ただの手槍ではなく、穂先の長さが二尺以上もあり、石突きと手くびを、細い長い鉄鎖で、つないでいた。突くのではなく、投げつける手槍であり、仕損じても、手許《てもと》へひきもどすことができるのであった。  植え立てた十字手裏剣をへだてて、約五歩の距離を置いた下柘植の若猿は、 「教えておいてやる。この二本の槍は、もっぱら、うぬの顔面を狙って、とばされるぞ。おのれには、払う一手しかないわ。よいな」  と、うそぶいた。  伊織を、袋の鼠《ねずみ》にしておいて、思うぞんぶんに、なぶり殺しにしてくれよう、という肚《はら》であった。  伊織は、黙って、大小二剣を峰をかえして抜き持つと、地摺《じず》り下段の構えをとった。 「ふん、二刀でふせぐというのか、しゃらくさい!」  若猿は、二本の手槍の石突きを掴んで、穂先を、伊織の顔面へ狙いつけた。  伊織は、双眸《そうぼう》を光らせて、待つ。 「ゆくぞ!」  若猿の双手から、手槍は、同時に放たれた。  二尺の穂先と四尺の柄《え》と、そして五尺の鉄鎖が、ぐうんと一直線にのびて、伊織の顔面を襲った。  伊織は、首ひとつ、身を沈めざま、両刀をすりあげに、びゅんと一閃《いつせん》させた。  精進に精進を重ねた二刀の迅業《はやわざ》が、いま、この一瞬に、発揮された。  小刀は、一本の手槍の柄を刎《は》ねた。大刀は、もう一本の手槍にむすばれた鉄鎖を、両断した。  伊織の迅業は、それだけですまなかった。  鉄鎖を断った手槍を、小刀をすてた左手で掴みとるや、それを地に立てて支えにし、五体を宙に跳躍させた。  若猿が、けだものじみた叫喚をほとばしらせて、腰の忍び刀へ手をかけたが、抜くいとまも与えられず、宙を翔《か》けて来た伊織が上段から振りおろす大刀を、脳天にくらった。  伊織は、片手斬りで、若猿の顔面を割り、肋骨《ろつこつ》まで斬り下げたのであった。  その宵《よい》、いくさ後家が、十六歳の娘をともなって、草庵をおとずれて来た。  下柘植の若猿は、顔面のみならず、全身いたるところ火傷を負うていて、男子の機能も喪失していたため、さいわいに、娘が犯されずにすんだ旨《むね》を述べて、 「ついては、他になんのお礼もできませぬゆえ、この娘を、明朝まで、おあずけいたしておきますほどに、女にして下されませ」  と、申し出た。  この言葉をきいた時、伊織は、「洗心洞」を立ち去る秋《とき》が来たのを、知った。 「それがしは、今宵《こよい》、出て行くのだ」 「え?」 「修業の旅に出るのだ。そもじの礼心だけ受ける」 「でも、それでは……、あまり——」 「よいのだ。それがしは、こん後は、妻にする娘以外は、抱かぬ」  その夜、かなり更《ふ》けてから、伊織は、百地屋敷の石垣下に、佇立《ちよりつ》していた。  屋敷には、喜和が、伊織とのあいだに生まれた幼児を育て乍ら、ひっそりとくらしているはずであった。  伊織は、母子と別離の一夜をすごすべく、やって来たのである。  しかし、石垣下に至ってから、急に、  ——逢《あ》えば、未練がのこる。喜和どのも、そうであろう。あきらめていた心を、みだすことになる。  そう思いかえしたのである。  ——逢いたい。  という気持と、  ——逢わずに、ここで、そっと別れを告げよう。  という気持が、たたかって、伊織の足を、いつまでも、そこに釘《くぎ》づけにさせていた。   闘鶏     一 「さあ、賭《か》けたり、賭けたり! 一年に一度の源平合戦。……源氏が勝つか、平家が勝つか——。天下分け目の合戦だぞ。有金はたいて、賭けてもらおうかい」  文字通り口から泡《あわ》をとばして、叫びたてているのは、紅白まだらの衣服に、同じ紅白のだんだら染めの袴《はかま》をつけた男であった。  赤銅色《しやくどういろ》の皮膚と逞《たくま》しい骨格が、一瞥《いちべつ》して、荒海できたえあげたものと、看《み》て取れた。  ここ——紀州|田辺湊《たなべみなと》にある闘鶏神社の境内には、千人以上の参詣人《さんけいにん》が、蝟集《いしゆう》していた。  城下の住民や近郷の地下人《じげにん》だけではなく、遠くから、この日のために、はるばるやって来たと判《わか》る人々も、すくなくなかった。  参詣人が、とり巻いているのは、円形につくった、ひくい竹矢来であった。  中仕切がしてあり、両側に入れられているのは、鶏が一羽ずつ。一羽は赤、もう一羽は白であった。  すなわち。  これから、闘鶏が行なわれるのであった。  一年に一度——辜月《こげつ》(十一月)十五日に、紅鶏白鶏を闘わせて、いずれが勝つか、賭けさせる行事がはじめられたのは、慶長十年|頃《ごろ》からであったようである。  しかし、その社名が示すごとく、由緒《ゆいしよ》沿革は、遠い昔にさかのぼる。  久安五年、十八代の熊野別当《くまのべつとう》に補任された湛快《たんかい》が、熊野三所|権現《ごんげん》を、この地に勧請《かんじよう》して、新《いま》熊野神社と称した。  尤《もつと》も、それまでは、ここには、別の神の社が在ったようである。  おそらく、出雲《いずも》族がその神を祀《まつ》った社であったであろう。  湛快が、この社を改めて、熊野十二社のひとつに加えたのである。  熊野別当湛快は、時流を観《み》る目があった。平治の乱が起った時——平清盛が熊野|詣《もう》での留守を狙って、|源 《みなもとの》義朝《よしとも》らが、京師に於《お》いて兵を挙げた時、清盛は、いったん九州へ落ちて、時節を待って、攻め上ろうと、思案した。すると、湛快は、湯浅権守《ゆあさごんのかみ》宗直らとともに、清盛をはげまし、鎧《よろい》七領と弓矢を贈り、清盛にただちに京洛《けいらく》へ馳《は》せ帰らせたのであった。この功績によって、熊野別当の勢威は、当るべからざるものとなった。  その勢威を享《う》け継いだ湛快の嫡男《ちやくなん》——別当二十一代|湛増《たんぞう》は、父にまさる傑物であった。  身丈《みのたけ》六尺を越え、膂力《りよりよく》二十人力といわれた。  ある時、湛増の従者が、比叡《ひえい》の山法師と口論の挙句、一両人を斬る事件を起した。湛増の従者は、検非違使《けびいし》に自首して、切腹して相果てた。しかし、叡山の山法師たちは、それだけで許さず、山を下って来て、あやまって、祇陀林寺《ぎだりんじ》の別当の家を、破壊した。この報をきいた湛増は、わずか五人の従者を引具して、山法師の帰路を、先まわりして待ち伏せ、またたく間に、十数人を討ち取った。  治承四年四月、源三位頼政《げんざんみよりまさ》らが、以仁王《もちひとおう》を奉じて挙兵するや、湛増は、これに応じた新宮十郎義盛を討った。  しかし、平家の権勢が衰えをみせるや、湛増は、兵を催して、海を渡って、阿波《あわ》を侵し、さらに、伊勢志摩《いせしま》に攻め込んだ。そのために、平家から、謀叛人《むほんにん》と憎まれたが、湛増は、ビクともしなかった。  平家では、|平 《たいらの》頼盛《よりもり》を大将として、湛増を討つべく計画したが、関東の形勢が不穏となり、のびのびとなって、ついに、沙汰止《さたや》みになった。  やがて、源平の戦いが起ったが、その時は、すでに、湛増は、源|頼朝《よりとも》と盟約をむすんでいた。  源|義経《よしつね》が総大将となって、屋嶋《やしま》、壇ノ浦へ平家を追いつめて行った際、湛増は、田辺の新熊野神社に七日間|参籠《さんろう》して、御《お》神楽《かぐら》を奏して、権現に祈請したのち、境内に於いて、赤鶏七羽と白鶏七羽とを闘わせた。その勝負の結果は、赤鶏七羽がのこらず逃げ散った。けだし、湛増は、赤鶏どもには、ずっと餌《えさ》を与えずに、弱らせておいたのである。 「勝利は源氏にあるぞ!」  湛増は、一族郎党に申し渡すと、一門二千余人を、二百余|艘《そう》の軍船に乗り込ませて、まっしぐらに、壇ノ浦へ押し寄せて行ったのであった。  闘鶏神社の社名の由来である。     二 「どうした、皆の衆。どうも、平家の賭けかたがすくねえぞ。この鶏合せは、平家が負けるとは、きまってはいねえんだぜ。さあ、賭けろい、平家へ——」  宰領の船頭は、しきりにあおりたてた。  しかし、そこは人情で、赤鶏の方に賭けようとする者は、三分の一にも足りなかった。  賭金が均等にならなければ、勝負にならぬのであった。  一年一度のこの鶏合せは、いつもそうであった。ただ、賭金が多ければ、それだけ、儲《もう》けも大きいので、大坂あたりの大店《おおだな》のあるじなどが、赤鶏の方の不足分を、気前よくおぎなったり、また、平家の落人《おちうど》の末裔《まつえい》がやって来て、白鶏の賭け方と、張り合ったりして、勝負になるのであった。  今年は、どうやら、そういった人間が、やって来ていないようであった。 「皆の衆。源氏だって、二代で滅んでいるんだぜ。縁起をかつぐのは、止《よ》さねえか。さあ、赤に賭けてくれえ。そうしねえと、勝負ができねえぞ」  勝って、倍になると、その儲けの二割を奉納して、めでたしとなるのであった。  この闘鶏神社(正しくは新熊野鶏合権現)は、明応四年、兵火にかかって焼失したが、その時は、執行《しゆぎよう》乗源が、青蓮院准三宮《しようれんいんじゆさんぐう》筆の勧進序を賜わって、諸国を勧進して復旧したのであった。  しかし、天正《てんしよう》十三年に、豊臣秀吉《とよとみひでよし》が、土豪討伐にあたって、再び烏有《うゆう》に帰してからは、社領も没収されて、それなりになっていたのである。  慶長五年、関ケ原役の直後、浅野|幸長《よしなが》が、甲斐《かい》から紀伊に封じられて、田辺は、その老臣筆頭浅野|左衛門佐《さえもんのすけ》忠知が支配するところとなった。  浅野左衛門佐は、由緒ある熊野十二社のひとつ闘鶏神社を、再建することにした。その理由は、稲荷《いなり》山の大木を伐《き》って千石船を造って、海へ浮かべたところ、時化《しけ》にも遭わぬのに、不思議にも、沖合で沈没してしまったからであった。 「これは、熊野権現の怒りに相違ない」  左衛門佐は、急遽《きゆうきよ》、本殿だけでも再建することにしたのであった。  しかし、なにぶんにも、三万石の支藩の貧しさのため、地下人の寄進にたよらざるを得なかった。  本殿は、慶長九年にようやく成ったが、上神社、西神社、中神社、下神社、八百万《やおよろず》神社、玉置神社などの再建までは、及んでいなかった。  そこで、勧進のひとつとして、闘鶏を催すことを、家臣の一人が思いついたのであった。  宰領の船頭は、声をからして、叫びたてるが、どうしても、赤鶏への賭け金が、満たなかった。  見物の人垣《ひとがき》の中に、宮本武蔵がいた。江戸を去って、流浪《るろう》の挙句、紀州へ現れたのである。  武蔵は、一文も賭けてはいなかった。真剣の勝負をするために生きている決闘者のくせに、武蔵は、博奕《ばくち》を好まなかった。まだ一度も、賭けごとをやったことがなかった。  博奕というものが、禁止されている時代ではなかった。一城のあるじでさえも、博奕をやっていた。合戦の前夜など、侍大将から足軽にいたるまで、双六《すごろく》、花|骨牌《カルタ》、穴打、骰子《さいころ》などに、夢中になっていたのである。 「貴公——」  横あいから、武蔵に声をかけた者がいた。 「貴公、平家に賭けてみては如何《いかが》でござろう?」  すすめられて、武蔵は、表情のない顔を、そちらへ向けた。  熊谷笠《くまがいがさ》で顔をかくした牢人《ろうにん》ていの人物であった。 「金子《きんす》は、身共がお貸し申そう」 「博奕は、好まぬ」 「だが、貴公、見物されて居《お》る」 「鶏どもが、どんな闘いをするか、興味があるだけだ」 「貴公が、兵法者であることは、判って居る」 「…………」 「赤か、白か——いずれが勝つか、貴公は、もうすでに、看て取って居られる」 「…………」 「貴公の目は、赤が勝つ、という自信に満ちた光を放って居る」 「…………」 「賭けなされ」 「なぜ、それがしにすすめるのだ? 賭けたければ、其許《そこもと》がどうしてせぬのだ?」 「身共は、この闘鶏には、金子を賭けることができぬ身でござる。理由は、あとで、お話し申す」 「…………」  武蔵が、応《こた》えずにいると、対手《あいて》は、懐中から、ずしりと重い革袋をとり出して、 「さ——」  と、すすめた。  武蔵は、しかし、受け取ろうとはしなかった。  すると、熊谷笠の牢人者は、突如、大声をあげて、宰領の船頭に呼びかけた。 「平家の不足分を、この御仁が、出すぞ!」  わあっ、と歓声があがった。  不足分は、決して尠《すくな》い金額ではなかったからである。普通の地下人ならば、三年ばかり遊んでくらせるだけの大金であった。     三  結果は——。  赤鶏の凄《すさま》じい攻撃を受けて、白鶏は、いたずらに逃げまどった挙句、目を突きつぶされて、仆《たお》れた。  多額の寄進がなされたのち、境内では、綾藺笠《あやいがさ》に裃《かみしも》をつけた三騎が、除魔の流鏑馬《やぶさめ》を行なって、行事は、終了した。  流鏑馬が行なわれている頃、武蔵は、闘鶏神社を出て、海辺沿いの道をひろっていた。  初冬の田辺湾は、湖水のように静かであった。  日ノ岬《みさき》から潮ノ岬までの間を紀州|灘《なだ》といい、大層な荒海であるが、ひとり田辺湾だけは、静かであった。  湾が、ふかい入江になり、湾口は北の天神崎、南の瀬戸崎が突出して、入江を抱き、そのあいだに、灘の嶋と沖ノ嶋の双《ふた》つの露出|礁《しよう》が自然の防波堤となって外海をさえぎっているからであった。  武蔵は、松林の前の砂地に腰を下して、  ——そのむかしの熊野水軍が根拠とした湊《みなと》らしい。  と、おだやかで美しい景色を眺《なが》めやった。跫音《あしおと》が、近づいて来て、 「貴公、ここに居ったのか。……変って居るな、貴公。勝った金子を受け取りもせずに、いつの間にか、姿を消してしまうとは——」  熊谷笠の牢人者は、竝《なら》んで腰を下すと、 「さあ、受け取って頂こう」  と、携《さ》げて来た銅製の金筥《かねばこ》を武蔵の前に置いた。 「其許が、勝手に賭けて、勝った金子だ。それがしのものではない」  武蔵は、こたえた。 「身共は、元金だけを返してもらうだけでよいのだ」 「其許は、闘鶏に賭けられぬ身だ、と申されていたが、その理由は——?」  武蔵は、訊《たず》ねた。  牢人者は、熊谷笠をはずして、顔をあらわした。五十年配の、くぼんだ眼窩《がんか》、高い鼻梁《びりよう》、厚い唇《くちびる》——すべての造作が、魁偉《かいい》といえた。 「身共は、実は、滅び去った熊野別当が後裔でござる」  熊野別当が熄《おわ》ったのは、三十一代正湛であった。弘安《こうあん》七年のことである。  文治の平家滅亡から三十余年を経て、天下の権勢は、鎌倉《かまくら》の北条《ほうじよう》家のものとなっていた。京師では、この専横を忌《い》み怒る者が多く、機会をつかんで、北条打倒の動きが起った。  後鳥羽《ごとば》院が、延暦《えんりやく》・園城《おんじよう》の二寺、春日《かすが》・日吉《ひよし》の二社にしばしば詣で、また、熊野にも数回にわたって鹵簿《ろぼ》を進めたのは、神職信徒をたのんで、北条幕府を倒す計画であった。  熊野別当は、鎌倉の援助によって栄えてはいたが、曾《かつ》て湛増が平家を裏切った例にならって、禁裏側に味方する|ほぞ《ヽヽ》をかためたのであった。  承久三年五月、後鳥羽上皇が、北条|義時《よしとき》追討のために、近畿《きんき》の兵及び諸寺の僧兵を動員するや、田辺二十四代熊野別当湛政は、次の別当候補者である新宮側行快の嫡男尋快と田辺側湛増の次男快実とが権別当を争って激しく反目していた最中であったが、両派のその対立を一時すてさせて、一致して、宣旨を奉じて、京師に馳せ参じた。  その挙句——。  勢多、宇治の決戦で、京師方の大敗北で、軍勢は壊滅した。  この戦闘に於いては、熊野別当勢は、宇治橋を守って阿修羅《あしゆら》の働きぶりを発揮したが、新宮側尋快の子只長、田辺側湛増の次男快実、同四男湛全はじめ、一族三千六百余人が、討死してしまった。  こうして、熊野別当の勢力は、一朝にして、潰《つい》えたのであった。  新宮側行快の嫡男尋快は、逃亡して地下にひそみ、二十年を経て、ようやく赦免されて、二十八代別当となったが、もはや昔日《せきじつ》の面影《おもかげ》はなかった。三十一代正湛にいたって、還俗《げんぞく》して、宮崎|豊後《ぶんご》と名のり、地下侍となって、ここに、熊野別当は終熄《しゆうそく》したのである。  この牢人者は、どうやら、三十一代正湛の末裔のようであった。 「身共は、宮崎湛九郎と申す。……貴公は、宮本武蔵殿でござろう」 「ご存じであったか」 「偶然でござった。貴公が、四年前、日高川の磧《かわら》で、宍戸梅軒《ししどばいけん》と決闘されたのを、身共は、わが家の庭から、見とどけ申した」  この熊野別当の末裔は、日高川下流の山麓《さんろく》に、隠れ家を持っていたのである。 「如何でござろうか。あばら家に、二、三日ご逗留《とうりゆう》頂けまいか?」 「…………」 「この宮崎湛九郎、熊野別当が伝えのこした薙刀《なぎなた》術に、おのれの工夫をいささか加えて居り申す。貴公と、一度、立ち合いたく存ずる。まげて、ご承諾頂きたい」  そのさそいをきくと、武蔵の心が、動いた。  武蔵も、「熊野薙刀」をきいたことがあった。  熊野別当が終熄するとともに、熊野薙刀も滅びて、伝説中のものとなった、という噂《うわさ》であったが、その末孫がなお、受け継いでいたのである。  どれだけ変幻自在の術であるか——にわかに武蔵は、興味をそそられた。 「承知いたした。お招きを受け申す」  武蔵は、こたえた。 「忝《かたじけ》ない。……では、ご案内つかまつる」  雌雄を決することを約束した二人は、肩をならべて、砂浜から松林に入った。   贋者《にせもの》墓     一  その田辺湾の防風林の中に、武蔵と宮崎湛九郎を、待ち伏せていた者があった。  木立に入ったとたん、武蔵は、姿は見えぬが、自分たちにそそがれる鋭い眼光を、感じた。  宮崎湛九郎もまた、察知して、 「甘いものには、蟻《あり》がたかって参り申すのう」  と、云《い》った。  二人は、しかし、待ち伏せを避けようとはせず、まっすぐ、進んで行った。  松林の中には、幾棟かの網子《あご》小屋がちらばっていた。  それらの小屋は、網子の住居ではなく、漁猟道具が置かれてある網元の持物であった。勿論《もちろん》、寝泊りはできるようになって居《お》り、大漁の季節になると、田畑をたがやしていた者たちが、動員されて、ここを|ねぐら《ヽヽヽ》として、どっと、海へ出て行くのであった。  小屋のひとつから、ぬっと、姿を現したのは、おそろしく派手ないでたちをした武士であった。  白綸子《しろりんず》の小袖《こそで》に、掌大《てのひらだい》の鹿《か》の子紋をつけた茜染《あかねぞめ》の袖無羽織をまとい、葡萄色《ぶどういろ》の革袴《かわばかま》をはいていた。  年歯《ねんし》は、武蔵と同じくらいであったが、身丈《みのたけ》はむこうの方が、すこし高く、肩幅もひろく、胸も厚かった。  容貌《ようぼう》も秀麗といえた。左眼が、はなはだしく眉間《みけん》に寄りすぎている眇《すがめ》である欠点をのぞけば、たぐい稀《まれ》な造作といえた。  宮崎湛九郎の面相は、魁偉《かいい》であったが、これとは比べもならぬ品格があった。  小屋からは、つづいて、数人が出て来たが、これらは、いずれもむさくるしい風体で、この武士の容姿をひきたてる役割を果していた。 「御辺《ごへん》がたが、先刻、鶏合せで取得した金子を、所望いたす」 「あきれたのう」  熊野別当の後裔《こうえい》は、首を振った。 「物取り強盗を働く者は、もうすこし凶悪な面構《つらがま》えをしていてもよいが……。成程、孔子《こうし》の教えている通り、貌を以《もつ》て人を取る、之《これ》を子羽《しう》に失う、か。顔つきなどは、信用できぬものと相|判《わか》った」 「つべこべ申さず、その金筥を、渡してもらおう」 「お主の腕で、はたして、奪えるかな」 「拙者の名をきけば、おとなしゅう渡すであろう」 「うかがおうか」 「先年、京洛《けいらく》に於《お》いて、孤剣をふるって、室町兵法所|吉岡《よしおか》道場を滅亡せしめた宮本武蔵が、この拙者と知るがよい」  堂々と名乗られて、宮崎湛九郎は、一瞬、武蔵の横顔を、視《み》やった。  武蔵は、眉毛《まゆげ》一本動かさぬ無表情で、贋者を視かえしているだけであった。  宮崎湛九郎は、にやっとして、 「成程、貴公は、その剣名にふさわしい風姿を所有して居《お》る。しかし、宮本武蔵ともあろう一流|芸者《げいしや》が、物取り強盗の振舞いに及ぶとは、解《げ》せぬ」 「拙者は、諸方各地に、剣一筋に精進をつづける門弟を、あまた置いて居る。これらの門弟どもを、やしなうためには、斯様《かよう》な合力もやむを得ぬ仕儀だ」 「貴公のうしろにならぶ面々が、剣一筋に精進している門弟がたか。ちょっと見受けたところ、食いつめた、性根のいやしい牢人《ろうにん》連中のようだが……」 「黙れっ!」  呶号《どごう》を噴かせて、贋武蔵は、抜刀した。  それにならって、後の五人の牢人者も、抜きつれた。 「どうする? 金筥を、この宮本武蔵殿に渡すか? それとも——?」  湛九郎は、薄ら笑い乍《なが》ら、武蔵に、訊ねた。  武蔵は、贋武蔵へ、冷たい眼眸《まなざし》をあてて、 「ひとつだけ、きいておきたい」 「なんだ?」 「お主は、幾人かを斬《き》ったであろうが、仆《たお》した対手《あいて》の中に、宮本武蔵に劣らぬ業前《わざまえ》の持主が、いたかどうかだ?」 「宮本武蔵の前に、敵は居らぬ!」  贋者は、喚《わめ》いた。 「それでは、返答にならぬ」 「吉岡清十郎、伝七郎及び一門ことごとく討ちすてただけでは、まだ、この宮本武蔵の腕前が不足と申すのか、貴様っ!」  贋者は、青眼《せいがん》に構えて、じりじりと迫って来た。  五人の牢人者は、さっと、包囲の陣形をとった。     二  その時、宮崎湛九郎が、 「身共は、見物させてもらおう」  と、云って、金筥を、そこに置いて、踵《きびす》をまわし、ゆっくりと遠ざかった。  贋武蔵は、数歩の間近さまで、切先を突きつけて来て、 「一命が惜しくば、おのれも、おとなしゅう退《さが》れ!」  と、叫んだ。 「退るわけには参らぬ」 「宮本武蔵だぞ、おれは!」 「お主が、宮本武蔵だからこそ、それがしは、退るわけには参らぬのだ」 「なんだと?!」 「同じ空の下に、宮本武蔵という兵法者が、二人居ることは、許されぬ」 「な、なに?」  贋者は、微《かす》かな狼狽《ろうばい》の様子を示した。  武蔵は、円陣を布《し》いた牢人者たちを、見まわして、 「お主らは、この男を、贋の宮本武蔵と知りつつ、手下になって居るのか?」  と、云った。  かれらの表情に、一斉《いつせい》に、動揺の色が浮かんだ。  一瞬の沈黙ののち——。  贋武蔵は、奇妙な、悲鳴のような懸声もろとも、武蔵に斬りつけて来た。  武蔵は、躱《かわ》したともみえず、対手のわきをすり抜けた。  位置が入れ代って、対《むか》い立った時、贋武蔵の右手は、手くびから両断され乍らも、なお柄《つか》を掴《つか》んでいた。  武蔵は、白刃を地摺《じず》りに下げて、しずかに、峰を下に向け変えた。  贋武蔵は、残った気力をふりしぼって、夜鳥が啼《な》くにも似た叫びとともに、右手が柄を掴んだままの剣を、左手で、ふりかぶり、よろめきつつ、武蔵へ肉薄した。  武蔵は、緩慢ともみえる、動作を起した。  峰をかえした白刃を、すうっと、振りあげたのである。  その切先の道筋に、贋者の顔面が、あった。  顔面は、頤《おとがい》から、唇、鼻梁、眉間まで、真二つにされて、血汐《ちしお》を噴かせた。  屍体《したい》となって地ひびきたてた時、五人の牢人者は、文字通り蜘蛛《くも》の子を散らすように、遠くへ遁《に》げていた。  湛九郎が近づいて来て、 「お見事!」  と、云った。 「討ち果して、自慢になる敵ではなかった」  武蔵は、独語するように云いすてた。 「いや、この男、宮本武蔵と名のるだけあって、並の兵法者ではなかった。太刀行きの速さは、尋常の対手では、ふせぎきれぬものがあった。……まことの宮本武蔵に出会ったのが不運であったと申せる」 「…………」 「これからも、宮本武蔵と名のる兵法者は、つぎつぎと出現いたそう。貴公の強さにあやかりたいという気持が、つい、名のらせるのかも知れぬゆえ、ま、許しておやりなされ」  湛九郎は、贋武蔵の胸に手を置いてやると、網子小屋から、砂地を掘る道具を見つけて来た。 「葬《ほうむ》ってやり申すゆえ、しばらくお待ち下され」 「いや、墓穴を掘るのは、それがしがいたす」 「なんの……、おのれを殺した敵よりも、見物した者の手で、葬られた方が、せめてものなぐさめと相成り申そう」  武蔵は、湛九郎が、葬るあいだ、海を見ていた。  ——もうそろそろ、豊前《ぶぜん》へ行かねばならぬ。  武蔵は、江戸で長岡佐渡守康之《ながおかさどのかみやすゆき》と約束した日が、近づくのをおぼえた。  小倉へおもむいて、佐々木小次郎と試合をすること。  それであった。  武蔵は、長岡佐渡守の言葉を、思い出した。 「わしは、巌流《がんりゆう》と名づけた一心一刀虎切刀という業を視たが、噂にたがわぬ、鬼神にひとしい速技であった。その限りでは、まさに、天下一流の兵法と申せる。……しかし、佐々木小次郎は、一国の師範たるべき器量ではない。人格に、いやしさがある。野にあってこそ、その獰猛《どうもう》ぶりを発揮できる猛虎と、看《み》た」  ——おれは、どうなのだ?  武蔵は、おのれに問うてみた。  ——おれの人格には、いやしさはないのか? ……敵がたの名目人というだけで、十一歳の少年を、むごたらしくも、斬り殺している。江戸から立ち去る際には、武蔵七党の後裔の娘を、犯している。……たったいまの決闘でも、一太刀で、あの世へ送れるものを、わざと右手を切断しておいて、逆薙《さかな》ぎに顔面を割る残忍非情な殺しかたをしている。士道を踏んで歩いて居る者の所業ではないではないか。  所詮《しよせん》は、佐々木小次郎と自分は、同じではないか、と思えるのであった。  これは、後悔しているのでもなければ、反省しているのでもなかった。  兵法者とは、つまりは、野生の猛獣として生きねばならぬ宿運を背負うているのだ、と武蔵は、おのれに明言できるのであった。  家に飼われたり、檻《おり》に入れられたならば、その時から、真の兵法者ではなくなるのだ。  柳生《やぎゆう》但馬守宗矩《たじまのかみむねのり》などは、もはや、兵法者ではない。徳川家の飼い犬にすぎぬ。小野次郎右衛門ですらも、赤坂|溜池《ためいけ》の道場で、逢《あ》った限りでは、檻に入れられている不自由な身と、目に映った。  住居を定めず、山野を家として、流浪《るろう》をつづけ乍ら、絶えず、おのが身を、死の危険にさらして生きてゆくのが、兵法者というものではあるまいか。  兵法者の生甲斐《いきがい》も死甲斐も、真剣の勝負にあるのであれば、そうでなくてはなるまい。     三 「やあ、お待たせ申した」  湛九郎から、声をかけられて、武蔵は、われにかえって、振りかえった。  そこには、盛られた土|まんじゅう《ヽヽヽヽヽ》に、墓標も建ててあった。  墓標には、 「自称宮本武蔵之墓」  と、記されていた。  武蔵は、魁偉ではあるが、すでに老いの皺《しわ》をきざんだ熊野別当《くまのべつとう》の末裔の顔を、じっと視た。 「こう書かれては、不快の念を催されるかな?」  湛九郎は、問うた。 「いや、べつに……」  かぶりを振った武蔵は、 「ここにて、お別れつかまつる」  と、告げた。 「それは、なるまい。日高川のあばら家に同道して頂いて、熊野|薙刀《なぎなた》と立ち合って頂く約束でござるぞ」 「それがしも、是非、熊野薙刀とは、いかなるものか、拝見いたしとう存じますが……」 「ならば、同道されよ」 「それが……」  武蔵は、ちょっとためらったが、 「お手前様と立ち合うのは、避けたく存じます」 「理由は——?」 「お手前様が、菩提《ぼだい》心をお持ちでありますれば……」 「ははあ、判った。……貴公は、墓穴を掘って、葬った身共に、疲労の色の濃いのを、看て取られたのじゃな。老いの身が、如何様《いかよう》に、熊野薙刀を使おうとも、この宮本武蔵の敵ではない、とさとって、立ち去る存念でござろう」 「…………」 「貴公は、これまで、立合いを挑《いど》まれて、拒絶されたことが、一度でもおありか?」 「ありませぬ」 「されば——、身共との試合を放棄すれば、貴公は、敗れたことに相成り、生涯《しようがい》の汚点となり申そう」 「…………」 「貴公が、絶対に勝つ、とはきまっては居り申さぬ。……熊野薙刀は、身共をもって終る技芸でござれば、兵法者たる者、必ず、しかと見とどけておくべき、と存ずる」  武蔵は、そうまで云われては、別れるわけにいかなかった。  ——あそこであったな。  武蔵は、昏《く》れなずむ日高川の磧《かわら》へ、視線を投げて、四年前の決闘を、思い泛《うか》べた。  竜神《りゆうじん》温泉から、まっしぐらに、「高野みち」を降りて来た宍戸梅軒《ししどばいけん》を、払暁《ふつぎよう》に、ここで、迎えたのであった。  意外の策を思慮し、その策は見事にあたって、梅軒を討つことができたのである。  しかし、水中に、片足をひっかける工夫をした手槍《てやり》をかくした策は、卑劣といえばいえた。  梅軒の宍戸|八重垣流《やえがきりゆう》を破るには、この一手しかないと思いきめ、それを実行し、成功した武蔵であったが、洛北《らくほく》一乗寺|下《さが》り松で、十一歳の少年を斬ったことと共に、思い出したくない試合であった。  再び、「高野みち」には足を踏み入れたくない、と思っていたのである。 「宮本氏、あの決闘に用いた奇略は、あっぱれでござったよ」  湛九郎は、武蔵の胸中を看てとったように、云《い》った。 「卑怯《ひきよう》のてだてでありました」  武蔵は、正直にこたえた。 「それは、ちがう。引き分けというもののない真剣の一騎討ちに於いてこそ、千思万考の策略がのぞましい。貴公は、勝つべくようにして、勝って来られた。よいのだ、それで——」  湛九郎は、そう云って、笑った。  そのおだやかな笑顔を眺《なが》めて、武蔵は、この人物とだけは立ち合いたくない、という意識が、つよく働いた。  おそらく、おのが生涯で、二度とは起るまい気持であったろう。  その意識は、紀州木の密林を背負うたその家にともなわれて、さらに増した。  はっと、目を洗われるように美しい娘が、迎えたからであった。 「娘でござる」  ひきあわされた娘に、 「佐久《さく》と申します」  と、挨拶《あいさつ》された武蔵は、この男としたことが、珍しく、とまどいの表情になったことであった。  宮崎湛九郎は、佐久という娘と、父娘二人ぐらしであった。   予感     一 「…………?」  武蔵は、闇《やみ》の中の臥牀《ふしど》で、大きく目蓋《まぶた》をみひらいた。  殺気が迫って、睡《ねむ》りを破られた、というのとは、ちがっていた。  常人ならば、起きていても、その気配さえも感じられないに相違なかった。  それほど、この部屋へ忍び入って来た者は、気配を消す習練ができていた。  墨で塗りつぶしたような完全な暗黒の夜半であり、いかに夜目の利《き》く武蔵でも、見分けることは不可能であった。  睡りは深かったし、この部屋を与えられた時、よもやおのれに襲撃がなされるなどとは、みじんも予想しなかった武蔵であった。  いわば、決闘を以《もつ》て生涯をつらぬこうとしている男が、幾年かに一度、神経をゆるめて、安らかにすごそうとした一夜であった。  ——そこにいる!  目覚めると同時に、闇の中にいる者の位置と距離を、感知したのである。  これは、武蔵の天性の鋭い直感力と、刻苦の鍛練によるものであった。  たとえば、丑刻《うしのこく》(午前二時)に身を横たえても、卯刻《うのこく》(午前六時)に目をさまそうと思っていれば、一秒の狂いもなく、睡りの中から意識をぱっともどすことができるように神経をとぎすます修業の成っている武蔵であった。  対手《あいて》がみごとに気配を消していても、武蔵を目覚めさせずにおくことは不可能であった。  その者が、立っている位置と距離さえも、咄嗟《とつさ》に、武蔵は、感知する能力をそなえていたのである。  ただ、合点しがたかったのは、  ——宮崎湛九郎が、何故に、おれを、卑劣な闇討ちに遭わせようというのか?  そのことであった。 「熊野薙刀」を継承した熊野別当の末裔《まつえい》ともあろう人物が、このような武芸者にあるまじき手段をえらんで、殺そうとするのは、許しがたかった。  そして、それよりも、宮崎湛九郎を、菩提心をそなえた立派な人格者と信用したおのれの不明に、腹が立った。  闇に大きく双眸《そうぼう》を張った武蔵は、襲撃の一瞬を、待ちかまえた。  愛刀の長船祐定《おさふねすけさだ》は、床の間の刀架けにあり、手をのばして把《と》ることは、叶《かな》わなかった。兵法者としての不覚であり、油断であった。  ……その瞬間は、来なかった。  およそ四半刻《しはんとき》も、むなしく、過ぎた。  暗黒の世界で、侵入者も動かず、武蔵も動かなかった。  やがて、武蔵が、自分の方から口をきかなければならぬ、と考えた。  武蔵は、身じろぎもせず待つあいだに、嗅覚《きゆうかく》が働いたのである。  頭髪と肌《はだ》の匂《にお》いは、男のものではなかった。 「佐久どの、と申されたな。それがしに、なんのご用があって、忍び込まれて来たか、うかがいたい」 「宮本武蔵殿!」  佐久は、忍び入ったものの、呼びかけて、目を覚させるのをためらっていたところを、反対に、武蔵の方から声をかけられて、息をはずませた。 「お願いの儀がござりまする」 「申されい」 「このまま、夜の明けぬうちに、お立ち退《の》き下さいますまいか?」 「…………」 「おたのみ申しまする」 「理由をうかがおう」 「貴方《あなた》様は、父の熊野薙刀を看《み》るために、当家にお寄りになったのでございましょう。……父には、もはや、熊野薙刀を使う力は、ござりませぬ」 「と申すと?」 「熊野別当は、老醜をさらして生きのびてはならぬ掟《おきて》がござりまする。殊《こと》に、熊野薙刀を受け継ぐ者は、五十歳までの生命《いのち》と、さだめられて居《お》りまする。父は、今年四十七歳でございまする」 「…………」 「父は、数年前より、からだの加減が悪《あ》しく、いくたびとなく、血を喀《は》いて居りまする。……されば、貴方様とお会いできたのをさいわいに、試合をして、斃《たお》れる肚《はら》をきめたのでござりましょう」 「…………」 「わたくしは、子として、父を死なせとうはござりませぬ。父が五十歳に相成るまでは、あと三年ございまする。その三年を、生かせとう存じまする」     二  武蔵は、その家を、こっそり立ち出た。  視界は、まだ昏くとざされていたが、ほどなく明けるであろう時刻であった。  武蔵は、日高川をへだてた向いの山岳の上に、明《あけ》の明星を仰ぎ乍《なが》ら、  ——おさらば……。  と、胸裡《きようり》で、宮崎湛九郎と娘佐久へ、別れを告げた。  何事も起らずに、立ち去ることに、武蔵は、はじめて、やすらぎに似た気分をおぼえていた。  湛九郎が、贋《にせ》武蔵の屍骸《しがい》を葬《ほうむ》るのを眺めたあと、ふっと、立合いを避けたい、という気持が起ったのは、やはり意識せぬまま、死を急ぐ者を斬《き》りたくなかったからに相違ない。  ——おれのカンは、決して狂わぬ。  武蔵は、闇の底の「高野みち」を歩き乍ら、自身に云いかけた。  ——おれは、やがて、豊前小倉へおもむいて、佐々木小次郎と試合をするであろうが、必ず勝つ。その予感がする。  戞々《かつかつ》と、馬蹄《ばてい》の音が、後方から近づいて来たのは、ものの一里も、下流へ降りた頃合《ころあい》であった。  もうその時には、空は淡々《あわあわ》と明けそめて、明の明星は姿を消そうとしていた。  武蔵は、べつに、振りかえりもせず、同じ歩幅で、凍《い》てついた道を踏んでいた。  疾駆する馬は、たちまち、武蔵の背後へ来た。 「武蔵殿っ!」  馬上から、呼ばれて、武蔵は、振りかえる代りに、ぱっと、かたわらの畑へ跳んだ。  もし、振りかえっていたならば、あるいは、脳天から真二つに割られていたかも知れなかった。  畑へ跳びかわしつつも、おのれが在った空間を截《き》る薙刀の凄《すさま》じい刃音が、武蔵の五体を、じいんとしびれさせるほどに、響いたことであった。  湛九郎は、奔馬の胴を、両脚で締め乍ら、双手《もろて》使いで薙刀をふるったため、仕損じたあと、十間あまりも、むこうへ、走って、ようやく、たづなを引きしぼった。  棹立《さおだ》った馬から、地上へ跳び降りた湛九郎は、とたんに、激しく咳込《せきこ》み、背中をまるめて、薙刀を杖《つえ》にした。  しかし、すぐに、おのが見苦しい姿を、武蔵に眺められるのに堪えがたく、ぐっと頭をあげ、胸を張り、咳をころした。  武蔵は、路面へ戻ると、そのまま、立ちどまった。  湛九郎は、かなりの沈黙を置いてから、口をひらいた。 「無断の退去、ゆ、ゆるせぬ!」 「…………」  武蔵は、無言で、湛九郎へ、視線をかえしていた。 「兵法者が、情《なさけ》を催すとは……、当方にとって、この上の、侮辱はない!」  湛九郎は、云った。 「…………」 「それゆえ、無礼討ちを仕掛け申したが、流石《さすが》は、貴公、よくぞ、躱《かわ》された。……あらためて、立ち合い申すぞ」 「別当殿、あと三年を、平穏にすごされい」 「なに?!」 「佐久どののために、そうされよ」 「貴公、む、むすめに、願われて、それで、無断で、退去されたのか」  湛九郎の方は、娘の佐久が起きる前に、武蔵と試合をして、いさぎよい最期《さいご》を遂げるべく、そっと、武蔵を起そうとして、臥牀がもぬけの殻《から》になっているのを知り、かっと逆上して、馬で追って来たのであった。 「熊野薙刀《くまのなぎなた》を継承する別当《べつとう》が、五十歳までと、生涯を限られていることは、それがしは、承知して居りました。お手前様が、労咳《ろうがい》をわずらって居られることは、田辺の浜辺で、すでに看てとり申しました。痩《や》せさらばえて、病牀《びようしよう》で息をひき取るよりは、せめて、最後の花を咲かせて、あの世へおもむこう、と決意されたお気持は、よく判《わか》りましたゆえ、お宅へ同道いたしました。……しかし、佐久どのにひきあわせて頂いた瞬間、試合をすてる存念が起り申した」 「何故に——?」 「佐久どのに、むかし恋した娘の俤《おもかげ》をみたのです」  武蔵は、生まれてはじめて、嘘《うそ》をついた。虚言は、おのれ自身でもおどろくほど、すらすらと、口から送り出された。 「左様か——」  湛九郎は、うなずいた。 「ただ、身共にだけ、情を催されたのであれば、断乎《だんこ》として立合いを迫り申すのだが……、そのような理由で、去ろうとなさるのであれば、いたしかたござらぬ。お別れ申そう」 「これからの三年の月日を、大切にして、おすごしなさるよう、お祈りつかまつる」 「そういたそう」  湛九郎は、微笑して、こたえた。  武蔵は、近づき、一揖《いちゆう》すると、わきを通り過ぎた。  刹那《せつな》——。 「ええいっ!」  凄じい懸声が、背中へあびせられた。  同時に、武蔵は、目にもとまらぬ抜きつけの一閃《いつせん》を、からだごと旋回させた。  これは、反射する神経がそうさせた働きであった。  ぞんぶんの手ごたえをおぼえた——次の瞬間、  ——しまった!  と、武蔵は、瞠目《どうもく》した。  湛九郎は、懸声もろとも薙刀を撃ちかけて来たのではなかった。ただ、懸声だけを、あびせたにすぎなかった。  斬られるためであった。  長船祐定は、立てた薙刀を両断した上で、湛九郎の腹部を薙《な》ぎ斬っていた。  武蔵は、茫然《ぼうぜん》と、地ひびきたてて仆《たお》れる湛九郎を、眺めた。     三  武蔵が、湛九郎のなきがらを馬にのせて、その家へひきかえして来た時、佐久は、そうなることをちゃんと知っていたように、石だたみの上の門口に、佇《たたず》んで、待っていた。  武蔵は、馬の口をとって、石だたみを登ると、 「斯様《かよう》な仕儀に相成り、ふかく、おわびつかまつる」  と、頭を下げた。 「いえ——」  佐久は、しずかに、かぶりを振った。  朝の冬陽《ふゆび》を受けた美しい顔は、無表情に近かった。  なきがらを仏間に寐《ね》かせておいて、座敷で対座した二人のあいだには、長い沈黙の時間があった。  武蔵は、その重苦しい沈黙に堪えがたくなった。 「お父上は、熊野薙刀の秘法を、充分に発揮しておいて、逝《い》かれました」  佐久は、じっと、武蔵を瞶《みつ》めかえして、 「父には、熊野薙刀を使えなかったはずでござりまする」  と、云った。 「………!」 「当家は、まぎれもなく、熊野薙刀を受け継いだ別当の後裔でござりまするが、その術は、父の曾祖父《そうそふ》までで、絶え果てました。父の曾祖父は、三十歳になるやならずで他界し、その時、父の祖父はまだ四歳でございました。父の祖父も、父の父親も、薙刀など、生涯《しようがい》一度も、手に把らずに、いずれも、若死いたしました。……父だけが、どうにかして、熊野薙刀を復興せしめようとして、遠い先祖が書きのこしたものを読みあさり、年少の頃より、薙刀を使う習練をいたした模様でござりまする。……わたくしが、物心ついた頃、父は、奈良へおもむき、宝蔵院をたずね、住職の胤栄《いんえい》殿に、試合を申し入れ、ひと突きのもとに倒されて、半死半生のていにて、もどって参ったのを、おぼえて居りまする。それでも、父は、一日も欠かさず、精進をつづけて参りました。わたくしも、父に、十年あまり修業の対手をさせられました。でも、修練した術は、熊野薙刀ではなく、父が自分で工夫したものでございました」 「…………」 「父は、おのが術を、一流の兵法者と立ち合って、試そうと思いつづけたに相違ありませぬが、その機会がないままに、年齢《とし》をかさね、病躯《びようく》になってしまったのでござりまする」 「…………」 「思えば、気の毒な一生でございました」 「佐久どの——」  武蔵は、云った。 「このことだけは、はっきりと申し上げられる。お父上の薙刀術は、きわめて秀《すぐ》れたものであった、と——」 「まことでございますか?」 「誓って、いつわりではありません」  武蔵は、声音をつよいものにして、こたえた。 「貴方様に、そう仰言《おつしや》って頂きますと、父の霊もうかばれましょう」  はじめて、佐久の双眸《そうぼう》に、うっすらと泪《なみだ》がにじんだ。 「では、これにて——」  武蔵は、立ち上ろうとして、頭を下げた。 「あの……、もし、およろしければ、しばらくのあいだ、当家におとどまり下さいますまいか?」  佐久は、とどめた。 「試合とは申せ、お父上を斬った男を、逗留《とうりゆう》させては、ご先祖の諸精霊が、快くお思いになりますまい」 「いいえ——」  佐久は、かぶりを振り、 「わたくしは、貴方様に、先祖が書きのこした熊野薙刀に関する古文書に、目を通して頂きたいのでございまする。それが、父に対する供養《くよう》になろうか、と存じまする」  と、云《い》った。  ——なんという心根の立派な娘なのだろう!  武蔵は、感動した。 「拝見つかまつる」 「うれしゅう存じまする」  あらためて、目と目が合ったとたん、武蔵は、ふっと、  ——おれは、はじめて、女子に心を奪われるかも知れぬ。  と思った。  おのが予感の確率の高さを知る者としては、これは、きびしく自戒しなければならぬことであった。   子連れ和尚《おしよう》     一  雪もよいの、寒気が、衣を透《とお》して、肌《はだ》を刺す日であった。  和尚|沢庵《たくあん》は、伊勢《いせ》、坂の下の、一瀬川に沿うた海道わきに立つ古びた地蔵堂の中にいた。  堂内には、境《さかい》神の石地蔵が、七、八体も安置されて、それぞれ、地下人《じげにん》の供物が盛られてあった。  地蔵は、現世と来世の境界に立って、守ってくれる身近な存在であるから、この石地蔵たちは、それぞれ、子供の安全を守るとか、寿命を延すとか、|とげ《ヽヽ》抜きとかの願いごとを叶《かな》えてくれるべく並んでいるのであろう。  沢庵が堂内から仰いでいる前方にそそり立つ山岳は、巨巌《きよがん》と古松がつくった岩根山であった。一名筆捨山ともいう。  狩野《かのう》古法眼《こほうげん》が、東国へおもむく際、この山の景色を写そうとしたが、画心がおよばず、山間に筆を投げすてた、という里諺《りげん》がのこっている。  名所図会流《めいしよずえりゆう》に述べると——。  蒼松《そうしよう》の黛色《たいしよく》はこまやかで、突出した奇巌はそれぞれ千差万別の趣きをたたえ、それらの岩肌を匍《は》う松の根が奇怪な生きものに似て、枝葉の屈曲ぶりは、盆栽の作り松の|てい《ヽヽ》を示していた。  沢庵は、もう二刻《ふたとき》以上も、この筆捨山を眺《なが》めていたが、しだいに、その景色に微《かす》かな嫌悪感《けんおかん》を催していた。  ——不具の岩や松は、所詮《しよせん》、見あきるものだな。  胸の裡《うち》で、そう呟《つぶや》いた。  狩野古法眼も、画心が逮《およ》ばずして、筆を捨てたのではなく、眺めているうちに、奇岩の形状や歪《ゆが》み松の姿に、不快な気分になって、描くのを中止したのではあるまいか。  ——曲った木には、曲った影しか映らぬ。  そんなことわざも、沢庵の脳裡《のうり》を掠《かす》めた。  沢庵は、頭陀袋《ずだぶくろ》から、餅《もち》をとり出して、むしゃむしゃと喰《た》べはじめた。  その折、堂前へ、ひょいと、伊賀の妻六の姿が現れた。  江戸滞在を終えて、京都の大徳寺へ帰る沢庵は、妻六と連れ立ったのである。  妻六は、沢庵にたのまれて、伊賀上野の山中にある草庵《そうあん》「洗心洞」で、伊織《いおり》がどんな生長をとげたか、見とどけるべく、趨《はし》ったのであった。  寄る年波には、流石《さすが》の忍者も勝てず、急ぎの往復で、いささか息を切らして、浅葱色《あさぎいろ》の布で、顔や頭の汗をふき乍《なが》ら、 「お待せ申しました」  と、云った。  尤《もつと》も——。  どうしたことか、背中には、三歳あまりの幼児を背負うていたのである。 「伊織は健在であったかな?」  沢庵は、問うた。 「それが……。三月あまり前に、修業の旅へ出てしもうて居《お》り申した」 「幻夢殿は?」 「一年前に亡《な》くなられた由《よし》でござる」 「そうであったか。……日月逝く、歳、我と与《とも》ならず、か。……ところで、その子は?」 「これは、伊織のもうけた子でござる」 「伊織が、子をつくったとな?」  沢庵は、あきれて、妻六の背中でねむっている幼児を、見まもった。女の子であった。 「この子は、百地三《ももちさん》太夫《だゆう》の孫娘でござる」  妻六は、自分が預って来たいきさつを、沢庵に語ってきかせた。  洗心洞幻夢は、伊賀上野の「いくさ後家」たちが、ひそかに訪れて来て、乞《こ》うままに、女体のよろこびを与えるならわしをつくっていた。そのうちに、上忍《じようにん》百地三太夫の娘喜和が、やって来て、百地家の血統を絶やさぬために、是非にも幻夢によって、身ごもりたい旨《むね》を願った。しかし、幻夢は、いくさ後家衆をたのしませてはいたが、決して子を産ませなかった、とことわったが、ふと思いかえして、いまだ十六歳の童貞である伊織に、その役目を命じたのであった。  その時、喜和は、もう二十八歳になっていたが、幻夢のすすめる伊織が、尋常の若者ではないと看《み》て、承知した。  喜和は、やがて、身ごもり、出産した。あいにく、男の子ではなかったが、百地家の血統を継ぐ子をもうけたよろこびで、母娘二人の平穏なくらしをつづけて来た。  伊織は、十七歳の秋に、一度だけ、百地屋敷を訪れて、喜和を抱いたが、そのことを、幻夢にさとられ、厳しくいましめられて、その後、ついに、喜和に逢《あ》う機会を持たなかった、という。 「……これは、虫の知らせ、とでも申そうか、上野へ参って地下人の噂《うわさ》をきき、百地屋敷を、訪れてみましたところ、あわれや、喜和殿は、労咳《ろうがい》をわずらって、垂死の牀《とこ》に就いて居られたのでござる」     二  妻六は、喜和から、時雨《しぐれ》と名づけたその幼児を、育てあげて、伊賀上忍十一家のうちの若者をえらび、夫婦にする役目を引き受けて頂けまいか、とたのまれたのであった。  妻六が、音羽の城戸家の分家の上忍、と判《わか》ってみれば、死を迎えた喜和が、その願いを思いついたのは、当然であったろう。  妻六は、ためらった。  故郷をすてて、盗賊になり下った自分などに、そんな大事なつとめを、引き受けられるかどうか——気が重かった。  しかし——。  ふと、同行の沢庵の顔が、思い泛《うか》ぶと、  ——そうだ!  と、肚《はら》をきめたのであった。  喜和の生命《いのち》は、もうあと十日と保《も》つまい、と看てとった妻六は、 「たしかに、お引き受け申した」  と、承知して、母とはなれたくないと哭《な》きさけぶ|しぐれ《ヽヽヽ》に、ねむり薬をかがせて、意識を喪《うしな》わせしめると、背負うて、百地屋敷を出たのであった。  桑楡《そうゆ》迫った身を起して、門口まで見送った喜和の、幽霊のようにいたましい姿が、まだ、妻六の目蓋《まぶた》の裏に焼きついている。 「和尚殿、この妻六には、とうてい、この子を、すこやかに、育てあげて、正しゅう躾《しつけ》をつける自信などござらぬ……。貴方《あなた》様に、是非とも、お願いいたしとう存じます」  妻六は、両手をつかえて、頭を床へすりつけた。  沢庵は、床へ寐《ね》かされた幼児の可憐《かれん》な顔を見やり乍ら、 「お主は、わしに押しつける考えがわいたので、預って来たのか」  と、微笑した。 「実は……、まことに、勝手乍ら、左様でござる」 「しかし、百地三太夫の娘御のたのみは、伊賀の筆頭上忍の血統を絶やさぬため——、つまり、この子に、秀れた忍者を産ませて欲しい、ということであったのであろう」 「左様でござる」 「わしには、そのような、ばかげた養父役は、つとめられぬの」 「は、はあ?」  妻六は、いささか、当惑して、沢庵を瞶《みつ》めた。 「この沢庵にできることは、この子を、どこかの比丘尼《びくに》御所にでもあげて、育ててもらい、女子《おなご》ひと通りの教養を身につけさせてやる。それだな」 「はあ——」 「妻六、忍者などという者が、働く時代は、すでに去ったことを、お主が、いちばんよく知って居るではないか。さらにまた、かりに、忍者の術が買われて、大名に召しかかえられたとして、その身分がどれだけ下級に置かれるか、扶持《ふち》のすくなさも話にならぬことは、云うまでもあるまい」 「…………」  妻六は、黙り込まざるを得なかった。 「伊賀甲賀衆で、徳川家に随身した者たちのうち、旗本にとりたてられた者が、一人でもいるかな? 服部半蔵《はつとりはんぞう》でさえも、旗本にはされて居らぬ。所詮は、|かまり《ヽヽヽ》者に過ぎぬ」  |かまり《ヽヽヽ》者、というのは、忍者の蔑称《べつしよう》であった。  |かまり《ヽヽヽ》というのは、忍者《すつぱ》用語で、「かがむ」という意味であった。  合戦場で、要所要所に、捨て石のように配置され、敵勢の攻撃または退却に対して、突如として、地からわき起ったごとく、襲いかかる、かがんで潜んでいる伏兵のことであった。近代戦でいう狙撃兵《そげきへい》、といえば、きこえはいいが、正軍からはずされた一隊であり、その働きがいかに目ざましく、抜群の功名|手柄《てがら》を樹《た》てても、恩賞立身につながらぬのであった。つまり、あくまでも、消耗品でしかなかった。  関ケ原役に於《お》いて、敗走する薩摩《さつま》勢を、追撃した井伊直政《いいなおまさ》は、島津家の|捨てかまり《ヽヽヽヽヽ》に狙撃されて、落馬し、その鉄砲傷が原因で、翌年二月に、四十二歳の壮年で歿《ぼつ》している。(ちなみに、|捨てかまり《ヽヽヽヽヽ》という忍者蔑称が、幕末までのこったのは、薩摩藩だけであった) 「……妻六、この子を、わしにあずける以上は、決して、|かまり《ヽヽヽ》者の妻にはせぬ。よいかな?」 「…………」  妻六は、しばらく、俯《うつむ》いて考え込んでいたが、やがて、顔をあげると、 「和尚殿、おまかせつかまつる」  と、云った。 「ならば、よろこんで、引き受けよう」  沢庵は、ねむりつづける幼児を、膝《ひざ》の上へ抱きあげて、 「ほう……、伊織のおもざしを、そっくり、もらって居るぞ。美人になるぞ、これは——」  と、笑った。 「和尚殿、尼寺におあずけなされたならば、尼にされてしまうのではありますまいかな?」  妻六は、ちょっと、不安げに、訊《たず》ねた。 「莫迦《ばか》を申すな。せっかく、これほどの器量|佳《よ》しに生まれた娘《こ》に、男知らずの生涯《しようがい》を送らせてなるものか。この沢庵にまかせておくがよい。三国一の聟《むこ》をえらんで、めあわせてくれようず」     三  その子の父——伊織は、その頃《ころ》、美作国《みまさかのくに》にいた。  吉野郡宮本村。  おのれが生涯の師と思いきめた宮本武蔵の生家を、伊織は、十年ぶりで、訪れたのであった。  竹藪《たけやぶ》に掩《おお》われた丘陵の中腹を一上一下する細い道を、辿《たど》って来て、伊織は、やがて、眼下に、小さな盆地を見出すと、 「お! あそこだ!」  と、双眸《そうぼう》をほそめた。  段になってひろがる田畑。二、三十戸の聚落《しゆうらく》。そして、村の中央にそびえ立つ多羅葉《たらよう》の巨木。  十年前と、そのたたずまいは、全く変らなかった。 「おーい!」  伊織は、あの日の少年に還《かえ》ったように、両手を口にあてて、大声で、呼んだ。 「伊織が、参りましたぞっ!」  桑畑のむこうの古びた大きな構えの屋敷に、武蔵が戻って来ていて、自分を待っていてくれるような気がした。  伊織は、まっしぐらに、丘陵を駆け降りて、桑畑の中の細径《ほそみち》を抜けて行った。  籾干《もみほ》しの広い庭に立った伊織は、大きく息を吸い込んだ。  故郷を持たぬ伊織は、わが家へ帰って来たような、なつかしい思いがしたのである。 「ごめん!」  案内を乞うたが、屋内はひっそりとして、人の気配はなかった。  数度呼んでみたが、返辞がないので、伊織は、無断で、高い上框《あがりかまち》に腰かけて、待つことにした。  小半刻が過ぎた。  跫音《あしおと》が、門口に近づいた。  伊織は上框から降りた。  よく熟れた柿《かき》を盛った竹籠《たけかご》をかかえた女が入って来るのを迎えて、 「|きち《ヽヽ》どの! ……そうですな」  伊織は、云《い》った。 「…………?」  |きち《ヽヽ》は、一瞬、怪訝《けげん》な面持《おももち》になったが、 「貴方……伊織さん?」 「そうです! 伊織です」 「まあ! すっかり大人になって……、ほんとに、たくましい若い衆におなりになって——」  |きち《ヽヽ》は、みるみる泪《なみだ》ぐんだ。 「|きち《ヽヽ》どのも、すこしもお変りではありません。若くて、きれいです」  伊織は、云った。  京の廓《くるわ》へ売られて、夕加茂《ゆうかも》という源氏名で枕席《ちんせき》にはべっていた|きち《ヽヽ》は、武蔵のおかげで、故郷へ帰ることができ、爾来《じらい》、ずうっと、この新免《しんめん》家でくらしていたのである。  |きち《ヽヽ》は、もう二十五、六になっているはずであったが、二十歳そこそこにしか見えなかった。 「わたしは、あたまが弱いゆえ……」  |きち《ヽヽ》は、ふっと、さびしげな表情をみせたが、 「ようたずねて下さいましたなあ!」  と、泪をためた双眸を、心からうれしそうに微笑させた。 「於幸様は——?」  伊織は、訊ねた。 「お亡くなりになりました。もう六年になります」 「そうじゃ。あの時、加減がわるうて、伏せっておいでだった。……武蔵様は、毎年、一度は、お戻りですか?」 「いえ、四年前に一度だけ、お帰りになりました。それも、一泊もなさらず、墓詣《はかまい》りをすませると、すぐに、ご出発になりましたのです」 「それでは、|きち《ヽヽ》どのは、たった一人きりで、この屋敷の留守居をされているのですか?」 「はい」 「女子は、強いな」  伊織は、「洗心洞」に於《お》いて、幻夢の亡《な》きのち、孤独でくらした半年間、幾度か、寂寥感《せきりようかん》に襲われたのを思い出した。  |きち《ヽヽ》が、心をこめた夕餉《ゆうげ》の膳部《ぜんぶ》に就いた伊織は、 「このような食事を摂《と》るのは、生まれてはじめてです」  と、云った。 「伊織さんは、家庭というものを知らないで育ったのでしたね?」 「そうです。父母の顔も、おぼえては居り申さぬ。物心ついた頃からの浮浪児であったので……」 「その貴方が、このように立派な若い衆におなりになるとは——」 「武蔵様の弟子になったおかげです。……沢庵《たくあん》和尚様や、幻夢先生や、わしの面倒をみて下されたかたがたが、みな、偉いおひとであったおかげです。……つまり、こうして人並の兵法者になれそうなのは、浮浪児であったからこそ、お三人にめぐり会うことができた、と申せるのです。自分一人の力で、一人前になることはできるものではありません。……武蔵様は、天才ゆえ、自分一人の力で、天下に名をあげられたのであろうけれども……」  生まれてはじめて知るなごやかな夕餉のひとときであった。   二天一流     一  新免家に、意外な訪問者があったのは、それから三日後の朝であった。  伊織は、朝餉を摂り了《お》えると、於幸の墓詣りに出かけて行き、家の中には、|きち《ヽヽ》が一人になっていた。  しばらく逗留《とうりゆう》させて頂く、という伊織の申し出が、|きち《ヽヽ》をうきうきした気分にさせていた。  於幸が亡くなってから六年の間、|きち《ヽヽ》は、武蔵の帰って来る日を待ちつづけて、一人きりで、この家を守って来たのであった。淋《さび》しさと侘《わび》しさで、泣いたことは、数知れなかった。|きち《ヽヽ》は、それに、能《よ》く堪えて来た。  四年前、なんの前ぶれもなく、武蔵が帰って来た時のよろこびは、口にも筆にも尽せぬものがあった。  しかし、武蔵は、一泊すらもせず、まして、|きち《ヽヽ》を抱こうともせず、昼食を摂っただけで、墓詣りをしたその足で、何処へともなく去って行ったのである。  その夜、|きち《ヽヽ》は、泪が涸《か》れ果てるほど、哭いたことであった。  泪を流すだけ流したあとで、|きち《ヽヽ》は、孤独で生きる力をとりもどした。爾来、|きち《ヽヽ》は、四季の推移にしたがって、その日その日を、せっせと立働いて来たのであった。  |きち《ヽヽ》が、京都で姫勤《ひめづと》め(女郎|稼業《かぎよう》)の身であったことは、地下人《じげにん》たちには、いつとなく知れわたっていたが、夜這《よば》いをして来る男は一人もいなかった。  宮本武蔵という剣名が、日本中にひびき渡ったことを、地下人たちは伝えきいていたからである。  曾《かつ》て——。  武蔵は、十三歳の時、村を出て行くにあたって、六十七人の地下人たちを集めて、次のような宣言をしたのであった。  自分は、宮本村の長《おさ》、新免家の当主である。亡父新免|武仁《たけひと》は、各戸に田畑ならびに山林を貸し与えたが、その分に応じての納品を課しはしなかった。しかし、自分が当主となったからには、こん後、米一石につき銅銭十枚を、新免家に納めるように命ずる。自分は、兵法修業の旅に出るが、行くさきざきで路銀をかせぐような、貧乏たらしいまねはせぬ。お主らが納めてくれる金を、その費用にあてる。納金を怠ることは、許さぬ。その代り、自分は、必ず、日本一の兵法者になってみせると約束する。これよりは、宮本武蔵と名のり、宮本村の名を天下に知らしめる。  そして、一年一度は必ず帰村して、新免家をないがしろにし、納金を怠った者があれば、問答無用に、討ち果す、かまえて違約いたすな、と命令したのであった。  武蔵は、一年に一度、帰村する、という約束は破ったが、室町兵法所|吉岡《よしおか》道場の当主清十郎はじめ一門ことごとくを討ち滅して、一躍、四方に剣名をひろめてみせた。  宮本村の人々は、新免家を誇りとし、米一石につき銅銭十枚の納入を怠る者はいなかった。  於幸が亡くなり、|きち《ヽヽ》が留守居となったが、村人たちは、決して、|きち《ヽヽ》を軽蔑《けいべつ》したり、侮辱したりはしなかった。|きち《ヽヽ》を、武蔵の妻と同様に扱ったのである。  その限りでは、|きち《ヽヽ》は、幸せであった。  納金は、武蔵の手紙によって、毎年年末に、大坂にある日本一の酒屋|鴻池屋《こうのいけや》の支店へとどけられていた。武蔵は、諸国を経巡《へめぐ》っていたが、大坂に立寄った際、その支店から、金を受けとっている模様であった。  |きち《ヽヽ》としては、せめて、年に一度だけは、武蔵が帰村して、金を持って行ってくれるように、願ったが、それはのぞむべくもないとあきらめると、新免家を守るつとめをはたすことを、神仏から課せられたわが運命《さだめ》と、自分に云いきかせたのであった。  そこへ——。  偶然にも、武蔵の唯一《ゆいいつ》の弟子である伊織が、逞《たくま》しく生長して、現れたのである。  |きち《ヽヽ》は、うれしかった。  昨夕、伊織が云った「このような食事を摂るのは、生まれてはじめてです」という言葉が、今朝の|きち《ヽヽ》を、幾度も微笑させていた。  ——伊織さんが、一年も逗留して下さればよいのに……。  せっせと柿の皮を剥《む》き乍《なが》ら、|きち《ヽヽ》は、胸の裡《うち》で呟《つぶや》いた。  その折——。 「たのもう」  案内を乞《こ》う声が、ひびいた。 「はい」  内土間と表土間を仕切る紅殻格子《べにがらごうし》を開けたとたん、|きち《ヽヽ》は、はっと息をのみ、立ちすくんだ。     二  戸口に立っているのは、大兵《だいひよう》の武士であったが、刀痕《とうこん》が、額から左眼を割って、頬《ほお》を走って居り、それは、肩から袖《そで》がだらりと垂れているのから推測して、左腕を喪《うしな》う一閃裡《いつせんり》の迅業《はやわざ》をあびた時、蒙《こうむ》ったものと、知れた。  化生《けしよう》じみた凄惨《せいさん》な面相のその武士の背後には、配下らしい六、七人の牢人者《ろうにんもの》たちが、いずれも、険しい気色をみなぎらせて、横列に立ちならんでいた。 「新免|伊賀守《いがのかみ》血族、宮本武蔵の生家は、ここだな?」  武士は、たしかめた。 「はい」 「身共は、小西|摂津守《せつつのかみ》行長の旧家臣、小西与五郎」  武士は、名のった。  武庫郡和田崎に於ける血闘で、大半の配下を斬《き》られた挙句、武蔵と一騎討ちをした小西与五郎は、このような無慚《むざん》な一太刀をあび乍らも、生き残ったのである。 「武蔵は、戻って来て居《お》ろう。小西与五郎が参ったと告げよ」 「いえ、あるじは、ここ四年あまり、一度も、帰って来ては居りませぬ」 「かくすな! 戻って来たのを、見とどけて、報《しら》せた者が居るのだ」  おそらく、復讐鬼《ふくしゆうき》と化した小西与五郎は、武蔵の行方を追いもとめて、この生家に戻って来ることもあろうかと、見張りの者を、佐用《さよう》街道にも置いていたものであろう。 「人ちがいをなされて居ります。屋敷内をおさがしなされても、かまいませぬ」 「武蔵ともあろう男が、何故に、身をひそめるのだ! 出あえっ!」  与五郎は、大声を発した。  その時、ゆっくりと、裏口から入って来て、|きち《ヽヽ》の前に出たのは、伊織《いおり》であった。 「宮本武蔵は、いかなる強敵に対しても、背《そびら》を向けて、逃げかくれするような兵法者ではござらぬ」  伊織は、云った。 「なんだ、おのれは?」 「山野辺伊織と申す、宮本武蔵の弟子です。……たぶん、見張りの御仁が、編笠《あみがさ》をかぶって通ったそれがしを、師と見まちがえたのでありましょう」  二十歳に満たぬ若年乍ら、伊織は、すでに武蔵以上の骨格をそなえている。編笠をかぶっていれば、佐用街道から、宮本村へ入る伊織を、武蔵だと勘ちがいしたのも無理ではなかったろう。 「武蔵は、いま、何処に居る?」  小西与五郎は、伊織に訊《たず》ねた。 「その行方を、それがしも、尋ねて歩こうといたして居るのです」 「たばかるか! 弟子たる者が、その行方を存ぜぬ筈《はず》はあるまい」 「それがしは、師とは、十一歳の時に別離して、爾来《じらい》一度も、めぐり逢《お》うては居らぬのです」 「黙れ! 弟子と申す以上は、じかに木太刀を把《と》って習うて居るに相違ない。十一歳の時に別離した、などと、ようも、そらぞらしゅう、ほざけた」 「いつわりを申しては居りません」  伊織の態度は、物静かであった。  師を討ち取りに来たに相違ない面々を前にして、このようにおちつきはらっていることができる——その不敵な様子自体が、討手方を、怪しませた。 「おのれは、いかにも、師になり代って、対手《あいて》をしようと云いたげだな」  与五郎は、隻眼《せきがん》で睨《にら》み据《す》えた。 「剣の道筋の行きかたは、別の師によって学びましたが、自らのぞんで、殺戮《さつりく》をいたしとうはござらぬ」 「殺戮だと!」  与五郎の後方の一人が、かっとなって呶号《どごう》した。 「うぬは、われら一統を斬る自信がある、とでも申すのか!」 「それがしは、多敵と闘った経験は、一度もありませぬゆえ、もとより、おのおの方を斬って、生き残る自信など、毛頭ありません」 「殺戮をいたしとうない、などとほざいたのは、勝つうぬぼれを蔵して居る証左ではないか! 青二才のぶんざいで、小面《こづら》憎い高言を、うそぶいて、あたら若い一命を落すな」 「お気にさわられたならば、お詫《わ》びつかまつる」  伊織は、頭を下げた。  小西与五郎は、 「このような若者を斬っても、恨みははれぬ。……山野辺伊織とやら、武蔵に逢ったならば、しかと伝えい。小西与五郎は、必ず報復せずには置かぬ、とな」  と、云って、踵《きびす》をまわした。  すると、配下の一人が、 「お館《やかた》、拙者は、武蔵の弟子と称するこやつを、このまま、看過《みすご》しておくわけには参りませぬぞ!」  と、叫んだ。 「止《や》めておけ、弥左《やさ》——。斬るには、若すぎる」 「いいや! ……宮本武蔵は、吉岡道場の名目人というだけで、わずか十一歳の少年を、容赦なく、斬りすてて居り申す。……こやつ、高言するだけあって、いささかの兵法修業は、いたして居り申そう。……片づけ申すぞ」  与五郎は、敢《あ》えて、はやりたつ配下の闘志をしずめようとはしなかった。 「では、一人対一人の立合いをやってみるがよかろう」     三  伊織が、戸口を出ると、その挑戦者《ちようせんしや》をのこして、与五郎以下配下一同は、半円形に後退した。 「古藤田弥左衛門」  牢人者は、そう名のるや、びゅんと鞘走《さやばし》らせて、ぴたりと青眼《せいがん》につけた。  学び鍛えた構えであった。  伊織は、差料《さしりよう》を抜くと、構えもせず、だらりと下げた。 「それは、何流だ!」  与五郎が、問うた。 「二天一流、とおのれで名づけました」  伊織は、こたえた。 「二天一流という意味は?」 「われわれが仰ぐ天はただひとつ乍ら、昼と夜に別れて居ります。昼は太陽があり、夜は月があります。されば、これをふたつの天と、みることができるかと存じます。……ふたつの天を、ひとつにする——すなわち、陽と陰を合一せしめる流法とお心得下され」 「大層な高言を、うそぶくものぞ。……弥左、この若者は、只者《ただもの》ではないようだ。おくれをとるな」 「ははは……」  古藤田弥左衛門は、呵々《かか》と高笑いした。 「ふたつの天をひとつにいたすなど、あり得ることではござらぬ。昼は昼、夜は夜、太陽が昇れば、月は消えて居り、太陽が沈んでのち月は照るのが、道理。陽と陰を合一せしめる流法などとは、この青二才の小生意気な錯覚に過ぎ申さぬわ」  そう云《い》いはなって、弥左衛門は、じりっじりっと、距離を縮めはじめた。  伊織は、その肉薄に対して、大刀を下げたなりの自然体を、微動だにさせなかった。  伊織は、身丈《みのたけ》骨格こそ、武蔵にまさるとも劣らぬまでに逞しく発達していたが、面貌《めんぼう》を全く異にしていた。  すがすがしいまでに、眉目《びもく》が整い、双眸《そうぼう》が美しく澄み、鼻梁《びりよう》や唇《くちびる》のかたちなど女性的ですらあった。そして、その若々しい面長《おもなが》な輪郭には、気品があった。  遠いむかしの王朝の貴族たちが、美女をえらんで、数十代にもわたってつくりあげた公卿顔《くげがお》という、一瞥《いちべつ》して判《わか》る相貌があるが、伊織は、その血筋でもひいているようにみえた。いや、あるいは、伊織は、堂上公卿の落胤《らくいん》かも知れなかった。  襤褸《らんる》をまとって、諸方をうろつきまわっていた浮浪児も、伊賀山中の「洗心洞」で生長しているうちに、次第に、その正しい血統を、眉目にあらわした、といえる。  したがって——。  肉薄されるにまかせて、自然体を保った伊織の姿は、いささかの無気味さも滲《にじ》ませてはいなかった。  弥左衛門は、伊織をおのが刃圏内に容《い》れると、 「参るぞ!」  と叫びざま、大上段にふりかぶった。 「…………」  伊織は、依然として、眉毛《まゆげ》一本、そよがせもせぬ。 「ええいっ!」  凄《すさま》じい懸声もろとも、弥左衛門は、きえーっ、と空間を截《き》って、伊織の脳天めがけて、斬りつけた。  勝負は、その一|刹那《せつな》で、決定した。  見まもる小西家残党たちの目には、伊織の動きは、撃ち込む弥左衛門の蔭《かげ》になって、映らなかった。  刃と刃が噛《か》み合う鏘然《しようぜん》たる音が、鋭く高くひびくのをきくとともに、弥左衛門の腹部を刺した剣が、臓腑《ぞうふ》を貫いて、その背中へ切先を突き出したのを、みとめて、あっと、息を詰めたことだった。  伊織は、弥左衛門が斬りつけた白刃を、柄《つか》を逆掴《さかづか》みに脇差《わきざし》を抜きざま、受けとめると同時に、大刀で、その腹部を刺し貫いたのであった。  大小の二刀を、文字通り目にもとまらぬ迅さで、みじんの狂いもなく、その思案通りに使ってみせたのである。  ゆっくりと五つばかりかぞえるほどの、重苦しい沈黙が、庭上を占めた。  伊織が、大刀をひき抜き、弥左衛門の躯幹《くかん》が、朽木のように仆《たお》れるのを見て、小西家残党たちは、 「おのれっ!」 「くそっ!」 「許せぬぞっ!」  おのおの、雄叫《おたけ》びつつ、抜きつれた。  とたん、 「待て!」  冷静な小西与五郎の声音が、制した。 「闘いは、ならぬ!」  厳然として、禁じた。 「お館! 何故、止められる?」 「こやつ、敵《かたき》武蔵の弟子でござるぞ!」  牢人連は、喚《わめ》きたてた。 「左様、この若者は、その弟子であって、武蔵自身ではない。だから、犠牲は、弥左一人だけでよい。……いま見た通り、この若者は、只の兵法者ではない。師の武蔵にまさるとも劣らぬ芸者だ。……闘えば、われら一統の大半が斬られるであろう。われら一統の目的は、武蔵を討って、恨みをはらすことにある。その秋《とき》のために、いたずらに、頭数を減らしては相成らぬ」   女体     一  武蔵が、熊野別当《くまのべつとう》の末裔《まつえい》・宮崎湛九郎の家に逗留《とうりゆう》して、十日あまりが過ぎた。  佐久《さく》は、土蔵におさめてあった熊野|薙刀《なぎなた》に関する古文書を、見せたが、武蔵はひと通り目を通しただけで、さして興味をおぼえないようであった。  それよりも、佐久に案内をたのんで、日高川の磧《かわら》を歩きまわった挙句、気に入った青石を見つけ、これをこまかに砕いて粘土をまぜると、一体の塑像《そぞう》をつくることに、昼夜をついやした。  佐久は、しだいにつくりあげられる姿を眺《なが》めて、それが、亡父湛九郎を写したものであることをみとめた。 「それを、どうなされます?」  佐久が訊ねると、武蔵は、 「墓標の代りにいたす」  と、こたえた。  武蔵としては、生まれてはじめて、試合をしたくなかった対手であった。その供養《くよう》のつもりであった。  十日目に、武蔵は、見事に、塑像を完成すると、佐久のみちびきで、熊野別当|累代《るいだい》の墓地へ登った。それは、密林の中腹をきりひらいた平地に、苔《こけ》むした、殆《ほとん》ど風化した墓石をはじめ、数十基が、整然とならんでいた。  久安年間からの、代々の別当が、ここにねむっていた。  夜半に、粉雪が降って、墓碑も地面も濡《ぬ》れていた。  武蔵は、湛九郎の土まんじゅうの上に、塑像を据えて、長いあいだ、祈りをささげた。  佐久は、背後に佇立《ちよりつ》して、武蔵の後姿を見まもっていた。  やがて——。  やおら、身を起した武蔵は、佐久に向って、冷たい眼眸《まなざし》を当てた。 「父上の霊魂の前で、仇討をされぬか?」 「え?」 「いやしくも、父を討った男を、そのまま、立ち去らせるのは、熊野別当の末裔としては、恥辱でござろう。……この武蔵、いつ何処《どこ》に於《お》いてでも、相果てる覚悟はできて居《お》り申す」 「…………」  佐久は、家を出る際、武蔵から、亡父湛九郎の薙刀を持参して、墓へ供えられたい、とすすめられて、携えて来ていたが、その意味が、いま、合点できた。 「そなたが、一度も、薙刀の修練をしたことのない娘御であれば、このような申し出は、いたさぬ。滞在のあいだ、そなたの挙措《きよそ》態度を拝見しているうちに、あるいは、父上以上の天稟《てんぴん》を持って生まれたのではあるまいか、と看てとり申した」 「わたくしごとき女子《おなご》が、とうてい、貴方《あなた》様の敵ではありませぬ。……貴方様に返り討ちになるのは、ごめんを蒙《こうむ》りたく存じます」 「いや——」  武蔵は、かぶりを振った。 「佐久どのを、返り討ちにする存念など、毛頭みじんもありません」 「では、何故《なにゆえ》に、敵討《かたきうち》をせよ、と申されるのですか?」 「あるいは、そなたが、熊野薙刀の血筋を、父上よりも、はるかに濃く、受け継いで居られるのではあるまいか、と存じたからです。それがしは、それが、見たい」 「でも……、たとえ、わたくしが、いささかの天稟を受け継いでいたとしても、とうてい、貴方様の敵ではありませぬ。わたくしは、不具になったり、撃たれどころがわるくて死に至るような結果が目に見えている敵討は、ごめん蒙りたいと存じます」 「立合いは、そなたが、その薙刀をふるい、それがしは、無手です。もし、それがしが、そなたの手から薙刀を奪うことができれば、と存ずる」 「…………」 「お願いつかまつる」  武蔵は、頭を下げた。  佐久は、しかし、容易に承知せず、押し黙った。  武蔵は、じっと、佐久の双眸《そうぼう》へ、視線を食い込ませて、 「では、それがしの性根を、正直に申し上げる。……それがしは、生まれてはじめて、女子というものに、心を奪われ申した。そなたのことが、片時も、念頭から離れなくなったのです。……生涯《しようがい》、妻をめとらぬとかたくおのれに誓ったこの宮本武蔵としては、おそらく、生涯に一度の恋と存ずる。……このままでは、宮崎家を立ち去ることは、でき申さぬ。……そなたに、敵討をして頂いて、それを区切りとして、別離を——、と思いつき申した。……そなたに、もし万一、斬《き》られて斃《たお》れるとしても、みじんの悔いもござらぬ」  佐久は、まばたきもせず、武蔵を瞶《みつ》めかえしていたが、 「かしこまりました」  と、こたえてから、 「それには、ひとつだけ、条件をつけたく存じます」  と、云った。 「申されい」 「もし、わたくしが敗れましたならば、今宵《こよい》、わたくしにお情《なさけ》を下さいませ」 「…………」  流石《さすが》に、武蔵は、その条件には、咄嗟《とつさ》に、返辞をしかねた。 「愛した女子のからだを抱いて、その未練をふりきって、ご出立なさるのも、兵法の上で、なにかのお役に立ちましょう」 「承知いたした」     二  佐久は、父の墓前に供えるべく携《さ》げて来た薙刀を、武蔵の所望によって、ふるうことになった。  粉雪で濡れた墓地で、佐久は、約七歩の距離をとって、身構えた。  それは、武蔵が想像していたのとは、全くちがった構えであった。  菖蒲形《しようぶがた》の二尺の刃を、峰をかえして、切先を地面すれすれに落したのであった。  当時——。  剣や槍《やり》とちがって、薙刀の流派というものは、殆どなかった。  流派が乱立したのは、徳川期も中頃《なかごろ》になってからであった。天道流、穴沢流、先意流、正木流、常山一刀流、月山流《がつさんりゆう》、戸田流、根岸流、米田流、武甲流、留田流、柳剛流、巴《ともえ》流、静貫流など——。  のみならず、薙刀術のみを以《もつ》て、派を樹《た》てているのではなく、多くは剣または槍を使う、兵法者たちが、武家の女子に、心得として教えたのである。  根岸流に於ける八相の構えとか、武甲流に於ける巻落しとか、米田流に於ける四天の構え、穴沢流に於ける扇体の構えなど、江戸時代に入って、それぞれ考案された基本型、法形であった。  この時代に、世にきこえているのは、天道流の始祖|斎藤判官伝鬼房勝秀《さいとうはんがんでんきぼうかつひで》が、天正《てんしよう》十五年に、常州真壁の不動堂で、桜井霞之助を頭領とする霞党二十余人と闘った挙句、矢で射殺された際、その大薙刀で、十数本の飛矢を両断した「一文字の乱」という術ぐらいのものであった。  斎藤伝鬼房は、塚原卜伝《つかはらぼくでん》に師事して、新当流を修業した剣の芸者《げいしや》であった。天正十二年には、京都で、御所に参内して、紫宸殿《ししんでん》に於いて、「一刀三礼」と称する秘術を披露《ひろう》し、左衛門尉《さえもんのじよう》を拝任しているくらいであるから、傑出した名人であった。  薙刀流は、いわば、伝鬼房の余技であった。  しかし——。 「なぎなた」の歴史はふるい。『本朝世紀』は、久安二年の条に、源経光所持の武器を説明して、 「俗にこれを奈木奈多《なぎなた》と号す」  と、記している。  この年、園城寺《おんじようじ》と延暦寺《えんりやくじ》の僧兵たちは、すべて、この奈木奈多をふるって、死闘している。  奈木奈多は、やがて、長刀という文字に変えられたが、それらは、後世の物とは形がちがっていた。  南北朝時代に入って、四尺あるいは五尺以上の長い太刀が使われるようになって、長刀の方は、柄を長くして、人馬を薙《な》ぎはらう意味から、薙刀という文字に変えられたのである。  室町時代に入ると、もっぱら、僧兵の得物となり、刀身四尺、柄五尺などという大薙刀が、好んで所持され、用いられるようになった。  したがって——。  熊野薙刀は、正しくは、熊野奈木奈多と称《よ》ぶべきであり、いま、佐久が持っている刀身二尺、柄三尺のそれとは、かなり形がちがっていたものであったろう。  佐久が持っている薙刀は、父湛九郎が工夫してつくった品に相違なかった。  刀身と柄が、室町時代の僧兵が使った(いまも使っているであろう)大薙刀より、はるかに短いということだけは、熊野薙刀の特長であろう。  いわば、宮崎湛九郎は、遠い先祖の用いた奈木奈多を薙刀に改良したと思われる。  それにしても——。  薙刀は、文字通り、薙ぎ斬る得物であるゆえ、構えは、八相か、しからずんば、左肩をまわして刀身を背中にかくす形であろう、と想像していた武蔵の想像は、はずれたのである。  佐久の構えは、はねあげの一手のみ放つことを、示しているのであった。  だらりと両手を脇《わき》にたらした武蔵は、咄嗟に、このはねあげの迅業《はやわざ》に対する防禦《ぼうぎよ》の手段が、脳裡《のうり》には、わかなかった。     三 「参りまする!」  佐久は、澄んだ高い声音で、予告すると、きわめてゆっくりと、迫って来た。  武蔵は、一瞬、無手でこれをふせぐには、自分がつくった湛九郎の塑像を、中間に置くべく、そのうしろへ退《さが》るしかない、と思った。  しかし、それは、この場合、武蔵としては、えらび得ぬことであった。  塑像に見まもらせておいて、闘わなければならぬ立場を、自らがえらんだのである。  ——間合を見切る以外にはない!  武蔵は、おのれに云いきかせた。  佐久は、肉薄をつづけ、ついに、刃圏内に、武蔵を容《い》れた。  その時、武蔵は、すっと、一歩後退した。  次の刹那《せつな》——。 「えい!」  佐久は、一歩踏み込みざま、地摺《じず》りの逆刃を、きえーっ、とはねあげた。  同時に、武蔵は、躯幹《くかん》を弓なりに反らした。  薙刀の切先は、仰向けに武蔵の顔面を——頤《おとがい》を紙一重といってもよい、すれすれの空間を、掠《かす》めて、天を刺した。  もとより、佐久は、はねあげの一手だけで、停止の秒間を置かなかった。双手《もろて》で、柄をまわしつつ、薙刀を宙で大きく旋回させて、胴薙ぎの迅業に継続させた。  しかし、その時は、すでに、武蔵は佐久の手もとへ、躍り込んで、その柄を片手|掴《づか》みにしていた。  柄をひとねじりされて、薙刀を奪われた佐久の美しい顔には、結果が当然こうなることを予想していたごとく、徐々に、優しい微笑が浮きあがって来た。  夕餉《ゆうげ》の座に就いた武蔵は、 「夜明けを待たずに、おいとまつかまつる」  と、告げた。  佐久は、ちょっと、不審な面持《おももち》になったが、すぐ、 「はい」  と、うなずいた。  膳部《ぜんぶ》を台所にさげた佐久は、もどって来ると、 「奥で、お待ちいたして居りまする」  と、ことわっておいて、姿を消した。  武蔵は、小半刻《こはんとき》を置いて、立ち上った。  奥の座敷には、麝香《じやこう》の匂《にお》いがただようていた。  佐久は、すでに、延べた褥《しとね》の中にいた。  枕辺《まくらべ》に立てた三基の燭台《しよくだい》の灯《ひ》に映えた寐顔《ねがお》の美しさは、武蔵の息をのませた。  武蔵が逗留しているあいだ、一度も化粧したことのなかった佐久は、うっすらと白粉を刷《は》き、口紅をつけていた。  ——この娘は、おれと一度限りの契《ちぎ》りをむすんだだけで、生涯、孤身《ひとりみ》を通すのではあるまいか!  ふっと、そんな予感がした。  掛具をあげて、入ってみると、佐久は、一糸まとわぬ素はだかになって、双手を脇に添わせてさしのべていた。  無言裡に、武蔵は、男女の営みを始めた。  唇《くちびる》が口でふさがれると、その双手が、はじらいがちに、そろそろと、逞《たくま》しい肩にすがって来るのが、いじらしかった。  武蔵は、女体を愛撫《あいぶ》するすべを知らなかった。おのが欲情を処理するだけのものとして、女子は存在する、と考えていた。  いまは、しかし、武蔵は、この無垢《むく》の美しい女体に対して、おのれの愛情が、どれほど燃えているか、あかしを示したかった。  ——どうすればよいのだ?  抱き締めて、唇を吸いつづけ乍《なが》ら、武蔵は、まよい、あせった。  秘処を破って、精気を射《はな》つだけでは、愛情のあかしにはならぬのだ。  やがて——。  武蔵の男の本能が、五体を、佐久の上から下方へ、滑らせた。  掛具は、はねのけられ、ゆらめく焔《ほのお》の中で、処女の肢体《したい》は、柔らかな陰翳《いんえい》を織り乍ら、開かされた。  その開いた股間《こかん》へ、武蔵は、顔をうずめた。 「……ああ!」  思わず、佐久の口から、ひくい呻《うめ》きがもらされた。  渇いた者が、谷あいの草蔭《くさかげ》に清滌《みず》を見つけて、夢中で顔をひたすように、武蔵は、あふれ出て来るのを、嚥《の》みつづけた。  佐久の喘《あえ》ぎは、しだいに、せわしくなった。  羞恥《しゆうち》が官能を昂《たかぶ》らせ、喜悦を呼んで、必死にもらすまいとしても、おのずと、喘ぎがあらわになるようであった。  あふれ出る女液を、武蔵は、嚥みつくすように、いつまでも、その行為を止《や》めようとはしなかった。  これは、おのが股間にふくれ漲《みなぎ》った巨根から放射しようとするのを堪える異常な忍耐の修練にもなっていた。  およそ一刻を経て、男女はひとつになり、武蔵は、相果てた。  そして、そのまま、佐久がすがりついているにまかせて、武蔵は、微動だにしなかった。  ——一生のうち、このような契りは、一度だけでよいのだ。  脳裡には、その独語があった。  おのれ自身を叱咤《しつた》せぬ限り、佐久からはなれることができそうもなかった。  佐久は、再び三度《みたび》の官能の波浪にまき込まれるのをねがっているように、じっとすがりつきつづけていた。  そのねがいに、応《こた》えるべきか否《いな》か——武蔵は、迷い乍ら、女体の柔らかさ、豊かさ、なめらかさを愛《いとお》しんで、動かずにいたのである。   八幡船《ばはんせん》     一  それから三月後——。  武蔵は、ふたたび、田辺の浜辺に、姿を現していた。  この田辺湾を根拠としている海賊船に、便乗するためであった。  宮崎家を去るにあたって、佐久から、何処へ参られますのか、と訊《たず》ねられ、豊前《ぶぜん》小倉、とこたえると、 「それならば、田辺から八幡船に乗って、行かれませ」  と、すすめられたのであった。  闘鶏神社で、紅鶏白鶏のたたかいを見物したあと、武蔵は、浜辺に出て、湖水のように静かな景色を眺《なが》めて、  ——そのむかしの熊野《くまの》水軍が根拠とした湊《みなと》らしい。  と、思ったことであったが、海賊衆または船手衆と称ばれた熊野水軍の末裔《まつえい》たちは、いまもなお、この田辺湾内に健在だったのである。  熊野水軍の歴史は、古い。天武帝《てんむてい》の白鳳《はくほう》十三年(西暦六八四年)に、民間に造船が許された頃には、すでに、紀州、伊勢《いせ》には、海賊船が横行していた、という。  この海賊船を、最も巧妙に使ったのは、南朝の忠臣|北畠《きたばたけ》親房《ちかふさ》であった。  延元元年、足利尊氏《あしかがたかうじ》が挙兵するや、親房は、後醍醐帝《ごだいごてい》を奉じて、延暦寺に入った。やがて、尊氏との和議が成ってから、親房は、伊勢の度会《わたらい》郡に趨《はし》って、ひそかに画策するところがあった。  再び南北両朝が争うや、親房の長男|顕家《あきいえ》は、堺《さかい》浦で討死し、新田義貞《につたよしさだ》も越前《えちぜん》国藤島で斃《たお》れた。  天皇は、親房の次男|顕信《あきのぶ》を、陸奥介《むつのすけ》に任じ、義良《のりよし》親王を奉じて、東国に下らせた。  その時、親房の方は、伊勢に下って、紀伊の海賊を招き、五百余|艘《そう》を艤《ぎ》して、海路を東上した。  しかし、天は、義軍に倖《さいわい》しなかった。大時化《おおしけ》に遭って、船舶は、ばらばらに四散してしまった。親房の乗った船は、常陸《ひたち》の海岸に漂着する惨たる結果をまねいた。  南朝の威風が、地に堕《お》ちた頃、紀伊の海賊を説いて味方につけたのは、親房の智謀というべきであった。  脇屋義助《わきやよしすけ》が、熊野船を駆って、淡路、小豆《しようど》などの諸島を制圧し、備前源氏の一党・児島《こじま》の飽浦《あくら》氏と結んで、ついに四国に攻め入り、河野《こうの》氏の後援のもとに、川江、今治《いまばり》、鞆津《とものつ》などの地を侵したのも、当時のことであった。  北朝の方も、これに対抗すべく、紀州の由良湊《ゆらみなと》に本営を設けて、海賊衆を呼んで、水軍として修練した。  すなわち、南北両朝の政戦は、紀伊や瀬戸内海の海賊衆を、二派にわかれさせて、その戦闘力をきたえさせる効果があったのである。  嘉吉《かきつ》、応仁《おうにん》の二乱を経て、戦国の時世に入ると、海賊衆は組織的な水軍として、強力なものとなった。  瀬戸内海の村上水軍、伊勢の九鬼《くき》水軍など、その代表的な海賊衆であった。  殊《こと》に、織田《おだ》信長の命令によって編成された九鬼水軍は、わが国に於《お》ける鉄張船の嚆矢《こうし》であった。  この鉄張の巨船七|隻《せき》と、村上水軍六百隻が、天正《てんしよう》六年十一月六日に、木津川表に於いて、戦っているが、後者が、さんざんに撃破されている。  関東にあっては、北条《ほうじよう》、里見、武田《たけだ》氏の海賊衆があったし、九州の大友、島津、山陰の尼子氏ら、いずれも海賊衆を擁していた。  豊臣秀吉《とよとみひでよし》が、天下を取ってから、諸侯に課して、十万石|毎《ごと》に大艦三隻、中艦五隻の制を定めて擁させたが、その代りに、勝手に横行する海賊を厳禁した。  すべての国、浦の船頭、漁師といえども、その地の地頭、代官の許可なく、船をつかうことは禁ずる。また、領主は、おのが国の沿岸に海賊を住まわせたならば、その領土を没収する。  天正十六年七月の禁令によって、国内に根拠地を失った海賊衆は、相次いで、故国を去り、遠く南洋に新天地をもとめ、八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の旗をひるがえして、暹羅《シヤム》、安南、呂宋《ルソン》、台湾を侵したのであった。  しかし、徳川|家康《いえやす》は、関ケ原役で、天下人の実権をにぎるや、この禁令をゆるめた。  朱印船の制度が設けられたのは、文禄《ぶんろく》元年であるが、その時は、船数わずか九隻にすぎなかったのが、慶長も十年を終ると、百隻を越えていた。  朱印の許可を持たぬ海賊船も、いつの間にか、数を増していたのである。  田辺湾内を根拠とする海賊衆も、往昔の熊野水軍のおもかげはないが、幾艘か復活していた。     二  湾が、ふかい入江になり、湾口は北の天神崎、南の瀬戸崎が突出して、入江を抱き、そのあいだに、灘ノ嶋と沖ノ嶋の双《ふた》つの露出|礁《しよう》が、自然の防波堤となって外海をさえぎっている田辺湾は、海賊船がかくれるには、まさに恰好《かつこう》の場所であった。  家康が、朱印船のみならず、海賊衆が数を増すのを黙許したのも、「倭寇《わこう》」と称されるかれらが、さまざまの品を、本邦へもたらしてくれるからであった。  湖糸といわれる生糸、綿、綿紬、錦繍《きんしゆう》、刀帯などに用いる紅錦、水銀、針、錬鉄、磁器、古文銭、古名画、古書、薬材、絨毯《じゆうたん》、白粉、漆器など。  たとえば、生糸は、中国では百|斤《きん》五十両のものが、日本ではその十倍の価格であったし、水銀もまた十倍の高値であった。  八幡船は、海原を家とし、船を枕《まくら》として妻女子供をともない、波濤《はとう》を乗り越えて行き、時には、二十艘、三十艘と浮連城を形作り、旦《あした》には商船をよそおい、夕《ゆうべ》には一変して海賊となって、端倪《たんげい》すべからざる働きをして、多量の品を、母国へ持ち運んで来るのであった。  家康は、狡猾《こうかつ》に、海賊衆を利用した、といえる。  佐久から、すすめられて、武蔵は、 「八幡船に乗る興味はわくが、ただ、たのんだだけで、かんたんに乗せてはくれまい」  と、云《い》った。  すると、佐久は、微笑し乍ら、 「当家に残る熊野の牛王《ごおう》を、ご持参なさいませ」  と、云って手渡してくれたのであった。  熊野|別当《べつとう》の家の牛王宝印、となれば、これは、海賊衆にとって、将軍家の朱印状などよりも、はるかに有難い品に相違なかった。  熊野水軍は、八幡菩薩の旗じるしとともに、熊野|権現《ごんげん》の使いである鴉《からす》七十五羽を、五つの梵字《ぼんじ》の形に組合せた幟《のぼり》を、舳にかかげていたのである。  小波ひとつ立たぬ入江を、武蔵は、やとった漁師舟に乗って、田辺をあとにした。  田辺の漁師たちは、海賊衆とは親しかった。  漕《こ》ぎすすめてくれる老いた漁師も、武蔵が八幡船に乗るのだ、ときくと、 「大名の家来になるよりは、海賊衆になって、南蛮船と喧嘩《けんか》した方が、よっぽど、男らしゅうて、生甲斐《いきがい》がござるのう」  と、笑って、こころよく送るのを承知してくれたものであった。  南の瀬戸崎の蔭《かげ》に、一隻の八幡船が、碇泊《ていはく》していた。  漁師の話では、この田辺湾を本拠としている八幡船は、六隻あり、いずれも鉄張の千石船で、二年に一度、還《かえ》って来る、ということであった。  掠奪《りやくだつ》した品の幾割かを、田辺を支配する浅野家老臣筆頭浅野|左衛門佐《さえもんのすけ》忠知に、呈上して、一月あまりの休息を、黙認してもらっているのであった。  八幡船は、船長一人、甲長五人、兵六十余人で構成されて居《お》り、第一甲長は仏狼機《フランキ》(大筒・炸弾《さくだん》)を、第二甲長は鉄砲を分担し、第三甲長と第四甲長は刀槍《とうそう》隊の指揮をとり、第五甲長は火弩《ひゆみ》をつかさどるのだ、という。そして、哨船《しようせん》、軽舸《けいか》などの小さな艇《ふね》を、十艘あまり曳《ひ》いて居り、これに分乗して、明《みん》国その他の南方各地を襲撃するのだ、という。  そのいでたちは、色木綿の筒袖《つつそで》に、大胴乱を腰に帯び、皮革または麻布の短袴《たんこ》をはき、腹当、籠手《こて》、臑当《すねあて》をつけ、大刀を背負うているのであった。船長や甲長は、あるいは緋縅《ひおどし》の具足で身がためし、あるいは猩々緋《しようじようひ》の陣羽織をまとっているという。 「爺《じい》さん、あんたも、むかしは、八幡船に乗っていたのではないのか?」  武蔵は、訊《たず》ねた。 「ははは……、そんなにおいがまだのこって居るかの?」  老漁師は、にやっとした。  それから、しゃがれ声をはりあげると、唄《うた》い出した。   十七、八と寐《ね》てはなるるは      ただ浮き草の水ばれよの   十五夜の月は、宵々くもれ      暁さえよ殿御もどそよの   いとしの殿やおいとしの殿や      とまれ弓盾よ箭筒《やづつ》は戴《いただ》こうに  素朴《そぼく》で、情趣のあふれた韻律をもった隆達節であった。  唄いおわると老漁師は、 「幾日、走っても、島影ひとつ見えぬ大海原の上での、月のある晩など、酔い痴《し》れて、こんな歌をうたい乍ら、踊り狂ったものよのう。……なつかしいわさ」  と、云った。     三 「杢兵衛《もくべえ》、なんだ、そやつ?」  舟を着けると、舷《ふなばた》から、一人、乱髪の男が、乗り出して、訊ねた。 「船長《ふなおさ》殿に、取次いでくれや。この船に乗せてもろうて、豊前まで、送って欲しいそうな。……どうせ、おんしらの仲間になろうてや」 「なんという奴《やつ》だ?」 「宮本武蔵と名のっちょる。兵法者じゃ。……おんしらは知るまいが、天下に鳴りひびいた手練者《てだれ》じゃ……。十年あまり前、京洛《けいらく》での、日本一の道場といわれた吉岡《よしおか》道場一門を、七十人以上も、たった一人で、対手《あいて》にして、生き残った御仁だて。あるいは船長殿の耳にも入って居ろうわい」 「ようし、待っちょれ」  やがて、武蔵は、船長の部屋に、案内された。  船長は、もう六十を越えた、白髪|白髯《はくぜん》をたくわえた老人であったが、一瞥《いちべつ》しただけで、無数の死地をくぐり抜けて来た者のみがたたえる貫禄《かんろく》を、そなえていた。  その眼光は、武蔵に、宍戸梅軒《ししどばいけん》のそれを、思い泛《うか》べさせた。  武蔵は、挨拶《あいさつ》すると、佐久から与えられた熊野の牛王宝印をさし出した。  受けとった船長は、目を通して、不審の表情になり、 「どうしてこれを?」  と、訊ねた。  武蔵は、仔細《しさい》を語った。  船長は、宮崎湛九郎とは旧知の間柄《あいだがら》であったらしく、武蔵に討たれた、ときくと、眉宇《びう》をひそめた。 「あの御仁が、相果てられたか!」 「熊野別当は、老醜をさらして生きのびてはならぬ掟《おきて》がある由《よし》。……別当殿には、あと三年の寿命がありましたが、それがしが、挑《いど》まれて、縮め申した」 「娘御が、その仇討を仕損じて、お主に、操《みさお》をくれたばかりか、この誓紙までゆずった、というのか?」 「左様です」 「その業前《わざまえ》、この目で、見たいものぞ」 「おのぞみならば——」  武蔵はこたえた。 「尋常の使い手ならば、十中九までは、生命《いのち》を落すが、その試しでもよいかな?」 「如何様《いかよう》な試しでも、お受けいたす」  武蔵は、平然として、船長を、視《み》かえした。 「あっぱれな度胸よ」  やがて、武蔵は、舳先《みよし》に佇立《ちよりつ》させられた。得物は勝手、ということなので、櫂《かい》を一本、借り受けた。  十数歩の距離をおいて、向い立ったのは、猩々緋の陣羽織をまとった第二甲長であった。鉄砲を携《さ》げていた。  第二甲長は、鉄砲隊を指揮する役であった。  当然、飛ぶ鳥も撃ち落すほどの腕前であるに相違なかった。 「覚悟はよいな?」  船長が、念を押した。  武蔵は、黙然として、視かえしたばかりであった。  船上に集った兵たちは、べつに固唾《かたず》をのむでもなく、日常の遊び事でも見物しているように、眺《なが》めている。  第二甲長は、やおら、鉄砲を構え、筒口を、武蔵へ狙《ねら》いつけた。  のみならず——。  動かずに撃つのではなく、ゆっくりと、一歩一歩、迫って来た。  武蔵は、櫂を右手にして、構えもとらずに待った。  その脳裡《のうり》を、十八歳の日、東西手切れとなり、西軍が、伏見城を攻めた時のことが、ちらと掠《かす》めた。  その攻防の銃撃戦に加わった武蔵は、昨日まで鋤鍬《すきくわ》しか持たなかった百姓の次男三男の足軽も、五歳から一心不乱に兵法修業をした自分も、全く同じ状況下で、弾丸をあびることに、次第に堪えられなくなったことだった。  一発の弾丸をくらえば、あっけなく、虫けらのように生命を落してしまうのであった。それでは、なんのために兵法修業をしたのか、わからなかった。武蔵は、そんなばかばかしい死にかたをしたくはなかった。  武蔵が、その時限りで、合戦に加わることを止《や》めたのは、そのためであった。  いま——。  武蔵は、弾丸の的にされて、立たされていた。  一方的な試練であった。  しかし、いまの武蔵は、この試練をばかげているとは、思わなかった。  兵法者として、これもまた、生涯《しようがい》に二度とはあるまい、おのが業のためしと考えられたのである。  第二甲長は、およそ七、八歩の距離まで、迫った瞬間、引金を引き、轟然《ごうぜん》と筒口から火を噴かせた。  結果は——。  武蔵が眼前に直立させた櫂は、ちょうど頭上二寸あまりのところで、弾丸に貫通されていた。武蔵は、膝《ひざ》を曲げて、四尺ばかりに身丈《みのたけ》を縮めていた。 「見事!」  船長《ふなおさ》が、呻《うめ》くように感嘆の声をあげた。  武蔵は、総身に汗が滲《にじ》んでいるのをおぼえて、正直、  ——助かった!  と、思った。  無謀といえば、これ以上の無謀な試練はなかったのである。   再会     一 「地獄丸」というその八幡船《ばはんせん》が、田辺湾内から、出帆したのは、それから四日後であった。 「この船は、南海路を通って、土佐の浦戸と薩摩《さつま》の坊津《ぼうのつ》に寄港して、種子島《たねがしま》から、まっすぐに南下するのじゃが、こんどは、ひとつ、ひさしぶりに、中国海路(瀬戸内海)を通ってみるかのう」  船長鬼左衛門は、舳先《みよし》に立って、そう云った。  武蔵は、同胞の海賊船と、一戦を交えることはないか、と訊ねた。 「それは、あるのう。なにせ、紀伊の海賊と瀬戸内海の海賊は、二百年もむかしからの犬猿《けんえん》の間柄だからのう。……どっちかが、南蛮の品物を満載して、帰って来たところを、突如として、襲いかかることは、まれではないて。……この地獄丸も、薩摩の坊津沖と、土佐沖で、二度ばかり、村上水軍の関《せき》船に、攻めかけられたことがある」 「では、中国海路を通るのは、危険と存ずるが……?」 「なに、往《ゆ》き船は、襲うては参らぬ。暗黙のうちに、そういうならわしができて居《お》る」 「それにしても、この武蔵のために、わざわざ、瀬戸内海をえらんで頂いたのは、忝《かたじけ》ない」 「ははは……、お主のためではない。実は、伊予や安芸《あき》や周防《すおう》の島から、女子《おなご》をひろって行くのだ」 「女子を——?」 「呂宋《ルソン》にも、安南にも、暹羅《シヤム》にも、いたるところ、日本人町ができて居るが……なにせ、若い女子の頭数が足らぬ。どこも、男十人に女一人、という割あいゆえ、どうしても、奪いあいになって、同胞同士が血で血を洗う、あさましい修羅場《しゆらば》をひき起す。……また、若い女子が不足すると、せっかくつくりあげた日本人町の人口が、減る一方じゃ。で、若い女子を、日本から送り込んでやるのも、われら八幡船のつとめのひとつじゃわい」  子を産ませる女、ということになれば、売春婦ではなく、素人《しろうと》娘をえらぶわけであろう。すなわち、拉致《らち》するのだ。  武蔵は、曾《かつ》て、関ケ原役が終った頃《ころ》、伊予国の沖あいにちらばる島のひとつに逗留《とうりゆう》したことがある。  漁夫たちから歓迎されぬまま、腰を据《す》えていた武蔵は、|さき《ヽヽ》という娘と親しくなり、|さき《ヽヽ》の口から、海賊船が毎年、娘を一人ずつ、連れ去って行くことを、きかされたのであった。  その年は、|さき《ヽヽ》に人身御供《ひとみごくう》の番がまわって来ていた。  武蔵は、|さき《ヽヽ》を救うべく起《た》ち上り、島民たちを説き伏せて、海賊船を奇襲し、およそ七十人の海賊を、その船もろとも、海底の藻屑《もくず》にしてしまったのであった。  その直後、悪魔のような未曾有《みぞう》の暴風雨が、島に襲来して、島長《しまおさ》は、海賊どもを海底へ沈めて、けがしたために、竜神《りゆうじん》が怒った、と云い出し、|さき《ヽヽ》を竜神に捧《ささ》げる、ときめた。  武蔵は、|さき《ヽヽ》に代って、島の鬼門にあたる岬《みさき》から、荒れ狂う波浪へ、身を投げたのであった。  奇蹟《きせき》的に生き還《かえ》って来た武蔵は、自然裡に|さき《ヽヽ》と男女の契《ちぎ》りをむすんでおいて、島を離れた。  |さき《ヽヽ》は、武蔵が小舟で遠く去って行くのを、岬の天狗岩《てんぐいわ》の鼻の上で、見送ったが、  ——生きて居れよ!  武蔵の祈りを裏切って、海へその身をすてたのである。  十八歳の武蔵が、生まれてはじめて受けた最大の衝撃であった。  あの日の光景は、つい昨日の出来事のように、ありありと、脳裡によみがえらせることができる武蔵であった。  ——そうか。八幡船は、南蛮各処の日本人町に送るために、瀬戸内海の島から、娘を拉致して行くのか。  十余年を経て、拉致する側にまわされた武蔵は、運命の皮肉をおぼえずにはいられなかった。  便乗させてもらった以上、黙って、海賊が拉致するのを眺めているよりほかはない立場に置かれているのである。 「ひとつだけ、うかがいたい」  武蔵は、船長鬼左衛門を、瞶《みつ》めて、訊《たず》ねた。 「島から女子をひろう、と申されたが、事情を説いて、納得させて、連れて行かれるのか? それとも——?」 「ははは……」  鬼左衛門は、高笑いした。 「後家であろうと、娘であろうと、納得させることは、まず叶《かな》わぬ。島長を説いて、金で買うのだ」 「金でも、いやだと申せば?」 「掠奪《りやくだつ》するまでだの。但《ただ》し、応分の金は、その島長に渡しておく。……おんし掠奪するのは許されぬ悪業だ、という顔つきをして居るの?」 「…………」 「女子という者は、その時は、死にたげに哭《な》き叫ぶが、さて、呂宋なり、安南なりへ連れて行って、そこの誰かの女房にしてやると、それなりに、幸せをおぼえて、もう日本へ帰ろうなどという気持を起しはせぬ。郷に入っては郷にしたがえというわけで、どのような環境の中でも生きられるように、つくられているものよ、女子というやつは——」 「非道の所業であることは、みとめて居られるはずだ」 「やむを得ぬの。これも、八幡船の任務のひとつと心得てもらおう。……さからうのであれば、船を降りてもらおうか」     二  船長鬼左衛門は、武蔵を船長室にともなって、 「ところで、おんしは、豊前《ぶぜん》小倉へ、何しに行くのかな?」  と、訊ねた。 「佐々木小次郎と申すそれがしの宿敵が、雌雄を決すべく待ち受けて居り申す」 「つまらぬことだの」 「兵法者が、生涯一度か二度めぐり会える強敵と、決闘することが、つまらぬことだと申されるか?」 「つまらぬ。試合をして、勝ったところで、それは、自己満足にすぎまい」 「決闘者として生涯をつらぬく覚悟をきめて居る男でござれば……」 「名利など欲せぬ、というのかの?」 「兵法者として、一生をつらぬく——これが、無駄《むだ》とは、露いささかも思い申さぬ」 「やれやれ、狷介《けんかい》不屈を誇りとして居るようじゃが、第三者から看《み》れば、|うつけ《ヽヽヽ》とも受けとれるの」 「|うつけ《ヽヽヽ》者で、結構です。剣をふるう以外に、取柄《とりえ》のない人間とお思い頂きたい。……この世の中には、一人ぐらい、功利とかかわりなく、生死を賭《か》ける者がいても、よろしかろう」 「ははは……、その覚悟のほど、見上げたものと、ほめなければならぬのかな。……おんしのような人物が、この地獄丸の甲長になってくれるならば、千人の強兵を加えるよりも、心強いのだが……」  鬼左衛門は、血の色をした酒を、|ぎやまん《ヽヽヽヽ》の盃《さかずき》に満たして、武蔵にすすめた。 「佐々木小次郎との試合までは、酒は断って居り申す」  武蔵は、ことわった。 「惜しい!」  鬼左衛門は、並々ならぬ武蔵の面貌《めんぼう》を凝視し乍《なが》ら、心から感動の声をあげた。 「おんしのような人物が、呂宋、安南、あるいは暹羅に渡れば、千騎二千騎の頭領となって、その地を征覇《せいは》できるであろうが……、ひとつ、思いかえして、どうであろうな、佐々木小次郎との試合に勝ったならば、この地獄丸で、海原を渡る存念を湧《わ》かしてもらえまいか?」 「それがしは、一軍を率いる器量は、持ち合せては居り申さぬ。関ケ原役に、下士として参加して、よく判《わか》りました」 「おのが器量は、おのれ自身では測りがたいものよ。……この鬼左衛門は、もとは織田《おだ》家に仕えて、侍大将をつとめた者じゃが、器量の限界を知って、海賊に相成ったが、……後継者を持たぬ。おんしならば、この地獄丸をまかせられる気がする」 「それがしは、ただ一匹で、山野をうろつく狼《おおかみ》にすぎ申さぬ。……買いかぶりは止《や》めて頂きたい」 「これ以上、敢《あ》えては、すすめまい。……それにしても、兵法者には、いろいろあるものぞ。……大半の兵法者は、剣名を挙げて、どこかの大名に、高い扶持《ふち》で売りつけたいと望んでいるのであろうが……」 「それがしは、生涯、主取りはいたさぬつもりです」 「まことに惜しい!」  鬼左衛門は、もう一度、くりかえしてから、 「佐々木小次郎なる兵法者の名は、このわしの耳にもとどいて居る。なんでも、九州一円で、試合をすれば必ず勝ち、無敵を誇って居るそうだが……、お主には、はたして、これに勝つ自信があるのかな?」 「いまだ必勝の手を編んで居りません。勝敗は、天にまかせるのみです」 「おんしに、いまここで、この地獄丸の頭領の座をゆずるといっても、その試合をあきらめまいな?」 「あきらめません。いまは、佐々木小次郎を討つことが、それがしの使命のような気がして居り申すゆえ——」  そう明言する武蔵を、見まもって、鬼左衛門は、歎息《たんそく》した。 「お主の兵法者としての執念は、どうやら、幼少の頃から、つちかわれたもののようだな?」  そう云《い》われて、武蔵は、おのが父|新免武仁《しんめんたけひと》を斬《き》り、さらに、母を犯した平田無二斎という兵法狂信者に育てられたことを物語った。  語り乍ら、自分の母の名と、熊野別当《くまのべつとう》の末裔《まつえい》の娘とが、同名であった偶然を、はじめて思いあたったことだった。     三  その頃、伊織《いおり》の方は、播州《ばんしゆう》を出て、備前に入り、西へ向って、まっすぐに歩いていた。  伊織は、いったん、京都へ出たのであったが、偶然知り合った一人の兵法者の口から、佐々木小次郎が、九州一円で、その無敵の強さをひろめているときき、ただちに、踵《きびす》をまわしたのであった。  わが師武蔵は、必ず、佐々木小次郎と試合をすべく、豊前小倉へおもむくに相違ない。  その予感がしたのである。  宮本武蔵という男の宿敵は佐々木小次郎である、という噂《うわさ》は、京洛《けいらく》にあったのである。  伊織自身、沢庵《たくあん》から、それをきかされてもいた。 「武蔵が、もし敗れるとすれば、その相手は、佐々木小次郎であろうな」  沢庵の言葉は、幼かった伊織の耳に焼きついて、はなれずにいた。  和気《わけ》から片上という海辺に至る街道は、すべて、山の中であった。  ——野伏《のぶせり》のたぐいでも出現しそうだな。  その予感は、的中した。  切通しになった坂道を降りかけた折であった。  突如、一本の矢が、伊織めがけて、唸《うな》って来た。  跳びかわした伊織は、次の襲撃にそなえて、全神経を、四方に配った。  崖《がけ》の上に、三人の男が、出現した。 「おい青二才、身装《みなり》に比べて、大層なつくりの差料《さしりよう》を帯びて居るな」  一人が、にやにやして、云った。  その刀は、亡師幻夢の形見であった。  柄《つか》は白革に地を柿色《かきいろ》に染め、梵字《ぼんじ》を模様として染め出し、鍔《つば》は高肉彫の金銀の象嵌《ぞうがん》の唐鍔で、鞘《さや》は金銀の細い線条を鎖に編んで、巻きつけてあった。  みすぼらしい、若い兵法者の差料としては、およそ似つかわしくない品であった。  幻夢が、自ら製《つく》りあげた逸品だったのである。  中身は、粟田口則国《あわたぐちのりくに》であった。 「どこで、盗んだ?」  野伏の一人が、じろじろと好奇の目を、その刀へ注ぎ乍ら訊ねた。 「恩師よりゆずられた品だ」 「似合わぬぞ、うすよごれた青二才の浮浪人の腰には——」 「たしかに、似合い申さぬ」  伊織は、素直にみとめた。 「おれたちに渡せば、しかるべき大大名に、高く売りつけてくれよう。置いてゆけ」 「恩師の形見を、お主がたに渡すわけには参らぬ」 「生命《いのち》と刀と、どちらが大切だ?」 「欲ばるお主がたこそ、生命を惜しめ」  伊織は、云った。 「ほざいたのう」  野伏たちは、三方をふさいだ。  伊織は、ふさがれるままに、平然と立っている。  いきなり、背後から、凄《すご》い唸りの一撃が来た。  それは、幾人も殺戮《さつりく》の経験を積んだ電光の突きであった。  伊織は、べつだん早いともみえぬ動きを示して、右へ躱《かわ》したが、その瞬間には、ほとんど体当りで、右方の野伏を逆持ちの脇差《わきざし》で胸板を貫いていた。  背後から突きを放った者は、勢いあまって、伊織の前へ、奔《はし》っていた。  伊織は、その背中へ粟田口則国で、袈裟《けさ》がけに、あびせた。  残った一人は、味方の返り血をあびて、悪鬼のていになり、猛然と、滅茶滅茶《めちやめちや》に、白刃をふりまわして、躍りかかって来た。  伊織は、その顔面を、横薙《よこな》ぎに両断した。  またたく間の迅業《はやわざ》であった。  伊織が、二本の刀身をぬぐって、腰に納めた時、背後から、 「まさに、鬼神の迅業!」  と、声がかかった。  振りかえった伊織は、「あ!」となつかしさをこめた声をあげた。 「小父御《おじご》!」  そう呼ばれて、対手《あいて》の方が、とまどいの面持《おももち》をみせた。 「お手前、わしをご存じか?」 「伊賀の上忍《じようにん》ともあろう御仁が、この面影を見分けられぬとは——」  伊織が、笑った。  とたん、妻六は、「いやあっ! おどろいた!」と、頓狂《とんきよう》な叫びを発した。 「伊織! ……あんたが、あのわっぱの生育した姿かや!」 「そうですよ、小父御——」 「参った!」  妻六は、自分で自分の額を叩《たた》いた。 「参った参った! ……しかし、お主が、伊織とは、いかにこの妻六といえども、とうてい、見分けられぬ。十一歳の時の俤《おもかげ》など、みじんもとどめて居らぬではないか。あきれた! 若衆というものは、十年も経《た》たぬうちに、こうも変るものかのう! ……いや、立派になった。その面《つら》だましい骨格は、宮本武蔵にまさるとも劣りはせぬわい。……おどろいた! あきれた!」  妻六は、鄭重《ていちよう》に、頭を下げた。  妻六もまた、九州で剣名をとどろかせている佐々木小次郎の噂をきき、ひとつの期待を抱いて、西へ向って足をはやめて来ていたのである。  伊織と妻六は、偶然ではなく、めぐり逢《あ》うべくして逢った、といえた。   剣二道     一  伊織と妻六は、近年にいたってひろげられた、山麓《さんろく》をめぐる街道を、肩をならべて辿《たど》って、やがて、方上浦に出た。  曾《かつ》て——。  五年前に、武蔵が、岩不動を彫った虫明村で、池田家|目付《めつけ》四人を斬り、元宇喜多家の家人《けにん》であった老いた漁夫によって、舟で送られ、通り過ぎた浦であった。  伊織も妻六も知らぬことであったが、武蔵が通り過ぎた頃《ころ》と比べて、道幅は倍になり、人家も増し、旅籠《はたご》も二、三にとどまらぬ、人馬の往来の多い、にぎわいをみせた山陽道の宿駅となっていた。  宇喜多家が滅亡し、そのあとを備前、美作《みまさか》五十一万石を与えられた小早川秀秋《こばやかわひであき》も、わずか二年で若死したのち、慶長八年二月、姫路城主池田|輝政《てるまさ》が、その次男|忠継《ただつぐ》を岡山城主としてから、備前領は、急速な発展をみたのである。  池田輝政は、西国将軍と称された大大名であった。  関ケ原役後、輝政は、播磨《はりま》五十二万石を領し、姫路城主となった。家康《いえやす》の女聟《むすめむこ》だったからである。「小田原後家」(北条《ほうじょう》氏直《うじなお》の妻)督姫《とくひめ》は、家康の次女であったが、北条家滅亡ののち、輝政の継室となっている。  これは、いわゆる、政略結婚であった。輝政には、中川瀬兵衛清秀の女《むすめ》|いと《ヽヽ》という正妻がいたのである。|いと《ヽヽ》とは、利隆《としたか》という嫡子《ちやくし》までもうけていたが、輝政は、家康の懇望によって、文禄《ぶんろく》三年に、|いと《ヽヽ》を中川家へかえし、督姫を正室にしたのであった。  そのおかげで、播磨五十二万石の太守となった。さらに、督姫が産んだ次男忠継を、備前二十八万石にし、三男|忠雄《ただかつ》を淡路六万石にすることができたのである。  忠継も忠雄も幼少であったので、池田輝政は、実質上、播磨、備前、淡路三国合せて八十六万石の大大名となったのである。  この年——。  輝政は、正三位参議《しようざんみさんぎ》に任ぜられ、松平《まつだいら》姓を家康からもらっていた。  後年——その孫|光政《みつまさ》は、祖父の声望を、重臣たちに、次のように語っている。 [#この行1字下げ]輝政様、御威勢おびただしき事にて候《そうろう》。姫路の事は申すに及ばず、備前へも、諸大名上り下りには立ち寄られ、また、輝政様、駿河《するが》へお越しの節にも、尾張《おわり》様、紀州様など、安倍《あべ》川まで迎えにお出なされし由《よし》なり。  大層な羽ぶりといえた。  当然、領土内は、急速に、諸事万端、西国将軍の称にふさわしく、発展していた。 「はてのう……、こんなにぎやかな宿駅が、いつの間にできたのか」  妻六は、街道に面して、ずらりとならんだ陶器の店や、旅籠を見わたした。  店さきに飾られてあるのは、この方上浦からものの二里もはなれていない伊部《いんべ》郷の伊部|窯《がま》の品であった。  桃山時代からひきつづいて、茶道のさかんな時代であった。古備前伊部焼物は、上々の品として、珍重されていた。秀吉《ひでよし》が、天正《てんしよう》年間に、伊部の陶工に知行ならびに山林免除の朱印状を与えて以来、その業は大いに進歩して、抹茶壺《まつちやつぼ》、点茶碗、床飾りの置物など、大層な高値となった。  池田輝政は、この伊部焼物を、上り下りの西国大名たちに贈って、さらに、その名をひろめさせるとともに、方上浦を宿駅として、それをあきなう店を幾軒も出させたのであった。  もともと、方上浦は、浅水海湾で、大きな船は入らず、湊《みなと》としてさかえるところではなかった。  湾口には、曾島《そしま》、鴻《こう》島の二島が瀬戸内の沖をさえぎり、中国航道から遠くへだたっていたのである。  磯伝《いそづた》いの潮待ち船でさえ、入泊することはまれであった。  輝政は、伊部焼物を大名衆はじめ旅客たちに土産に買わせるべく、方上浦を、ここ数年間のうちに、さかえさせた、といえる。  伊織と妻六は、大名行列を行き交わせるためにひろげられたとおぼしい広い辻《つじ》に出た。  ふと——。  伊織は、辻の一隅《いちぐう》に立てられた高札に、目をとめた。 「小父御、妙な高札が立ててあります」  二人は、近づいてみた。     二      告 [#ここから1字下げ] 方今、御朱印なき怪しき関《せき》船、領海に出没し、島嶼《とうしよ》を侵し、無辜《むこ》の婦女子を拉致《らち》し去ること、しばしばなり。蓋《けだ》し、外国へ押し渡り海辺|諸邑《しよゆう》を剽掠《ひようりやく》して貨財を奪う海賊の仕業なるべし。婦女子を拉致する目的は、海外諸処にある日本人町に送りて、これをさかえしむる名分をかかげ居《お》る由なりと雖《いえど》も、その悪業許す可《べ》からざるものなり。内海航行の勘合船を襲撃することも繁《しげ》ければ、日本人町をさかえしむる名分も信じ難し。依《よ》って、島嶼|防禦《ぼうぎよ》の備えを厳重にし、船手の将士を増して、掃滅せんとすれども、何分にも、外洋を馳駆《ちく》する、倭寇《わこう》と称される鉄張海賊船なれば、船足、武備に於《お》いてまされり。 されば、このたび、諸郷士、牢人《ろうにん》のほか漁師、船方をひろく募りて、各島嶼に配備し、これが襲撃を討伐せんとす。賊徒一人を討ちたるにつき、褒賞金《ほうしようきん》小判十枚を給するものなり。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]池田家船奉行   「これは、面白そうな告示じゃわい」  妻六は、にやっとした。 「小父御、これに応募するおつもりか?」 「伊織、海賊どもを対手に、ひとあばれするのも、兵法修業であろうがな。お主なら、小判百枚は、かせげるのう」 「それがしには、海賊を悪《にく》む気持は、すこしもありません」 「なんと——?」 「それがし自身、海を渡って、異邦を見たいと思ったこともあるのです。……小父御、ほんのわずかの頭数で、千里の波濤《はとう》を乗り越えて、明《みん》国はじめ呂宋《ルソン》や安南や暹羅《シヤム》まで攻め入る勇気を、あっぱれだとは思われぬか?」 「ふうん……」 「それがしは、河野通有《こうのみちあり》の勇猛ぶりを、『洗心洞』にたくわえてあった書物の一冊で読んだことがあります。文永の役にあたって、向後十年、敵が来《きた》らずんば、我れは自ら進んで蒙古《もうこ》を討たんと、三島神社の起請誓紙《きしようせいし》を嚥下《えんか》して待ちかまえたそうな。やがて、弘安《こうあん》の役が起るや、通有は、軽舸《けいか》をとばして、元国の山のような大艦に突撃し、帆檣《ほばしら》を倒して梯子《はしご》として、船中に斬《き》り込んだ、とか——。この河野通有こそ、伊予の住人で、当時すでに海賊の頭領であった、と伝えられて居ります。……また、南北分争の頃には、内海の海賊を率いた村上《むらかみ》三郎左衛門|義弘《よしひろ》が、義旗をひるがえして、南朝に味方したそうな。元弘三年正月、千早城の攻防にあたって、長門《ながと》の探題北条時直が、水軍を催して、六波羅《ろくはら》勢を援《たす》けるべく東上しようとするのを、義弘は、弟義真、今岡四郎通任《いまおかしろうみちとう》、得能《とくのう》通時、土居通増《どいみちます》らとともに、伊予沖で、うち破り——村上水軍の名を、高からしめたといいます」  伊織は、語った。 『本朝武家高名記』によれば——。  村上義弘には、後嗣がなく、一族十七家が、主導権をにぎらんとして、暗闘をつづけたが、やがて、一人の傑物が出現した。村上|山城《やましろ》| 守 《のかみ》師清《もろきよ》であった。  山城守師清は、北畠《きたばたけ》顕家《あきいえ》の遺児——すなわち、北畠|親房《ちかふさ》の孫にあたる人物であった。  父顕家が安倍野《あべの》で討死するや、少年師清は、信州の山中へ遁《のが》れた。  やがて、伊予国前の海賊村上義弘が逝《い》き、家が断絶したと、遠くきこえて来ると、青年になっていた師清は、 「されば、村上家を、この師清が継ごう」  と、三百余騎を率いて、紀州の雑賀《さいが》に討って出て、ここで船隊を組み、まず讃州塩飽《さんしゆうしわく》諸島に押し渡った。  この島の海賊塩飽三郎光盛は、一戦を交えて、師清の強さを知ると、直ちに降服した。師清は、つづいて、備中《びつちゆう》の神島に押し渡って、そこの海賊らを旗下に入れ、さらに、伊予国大島を攻めた。大島には、前代村上義弘幕下の海賊がいたが、師清の説得に随《したが》った。あとは、順風に帆を張るがごとく、村上山城守師清は、瀬戸内海随一の海賊の頭領となった。  師清の嫡子山城守義顕に三子があった。長男は山城守雅房といい、父のあとを継ぎ、次男二郎は備後因島《びんごいんのしま》青木の城に居住し、三男|来島《くるしま》又三郎は、河野氏十八家の内、来島の家を督《つ》いだ。  この三兄弟こそ、明国を侵して、財宝を掠《かす》め奪《と》った最も勇猛な「倭寇」であった。  倭寇の猛威のいかに凄《すさま》じかったかは、明国側の記録で明白である。  その沿岸数百里にわたって、無数の要寨《ようさい》を築き、大きな要寨を「衛」といい、四千から五千の兵を置き、次を「所」といい一千から一千五百を置いた。その次を巡検所といい、弓兵一百を置いた。「衛」は、人家千戸|毎《ごと》に備倭船十|隻《せき》を備えた、という。  すべての要寨には哨戒船《しようかいせん》を配して、倭寇が近づけば、烽火台《ほうかだい》(|烽※[#「土+侯]《ほうこう》)望楼(|※[#「言+焦」]楼《しようろう》)で合図した。それを会哨といった。  明国の水軍は、倭寇に侵されるようになって、数十倍に増強されていた。福船隊(遠洋艦隊ともいうべき大船より成っていた)、滄海船隊(近海艦隊)、艟艨《どうもう》隊(湖江艦隊)の三編成によって組織された水軍は、おそらく、当時としては、世界最強であったろう。  にもかかわらず——。 「倭寇」は、いまもなお、明国を侵しつづけているのであった。  こうした知識を得ている伊織は、海賊を敵として闘う気持は、すこしもなかったのである。     三  伊織と妻六は、新しくひらいたばかりらしい旅籠をえらんで、泊ることにした。 「武蔵殿が、あんたに逢ったら、なんと申されるであろうかな」  妻六は、しみじみと、伊織の顔を見まもり乍《なが》ら、云《い》った。 「小父御も、武蔵様が、佐々木小次郎と、必ず試合をする、と考えているのですか?」 「武蔵殿はな、細川家の筆頭家老|長岡《ながおか》朝臣《あそん》殿から、細川家に仕えた佐々木小次郎と試合をして、討ち果してもらいたい、とたのまれた模様じゃわい。……必ず、試合をされる」 「だが、……武蔵様は、絶対に小次郎に勝てるとは、かぎるまい」 「なにを云うぞ! 宮本武蔵は、天下無敵じゃわい。絶対不敗だ!」  妻六は、憤然となって、云った。 「小父御——」  伊織は、あらたまって、妻六に云いかけた。 「なんだな?」 「わたしは、幻夢先生の許《もと》で、育っているうちに、剣の修業の道には、ふたつある、と考えるようになりました」 「ふたつとは?」 「武蔵様のように、幼い頃から、無我夢中で、おのがからだを酷使して、鳥やけもののように本能をきたえる方法と、幻夢先生のように、成年になってから、心法と兵法の行きつくところは、無と知り敢《あ》えて、禅の修行をすてて、剣を学ぶ手段をえらんだのと——」 「ふむ」 「つまり、同じ剣の奥旨《おうし》をきわめるのに、体から入るのと、心から入るのと、全く逆のふたつの道がある、と考えるようになったのです」 「成程の」 「武蔵様は、十三歳で試合をしたのを兵法者の出発点として、これまで、強敵をえらんで闘い、闘うことによって、強くなり、無敵の手練者《てだれ》となられた。しかし、幻夢先生は、生涯《しようがい》ついにただの一度も試合をされなかった。……お二人が、もし、立ち合ったならば、はたして、いずれが、勝ったであろうか——それを、わたしは、考えつづけて居ります」  伊織は、ここへ来るまでの途次、洗心洞幻夢がどういう人物であったか、そして、幻夢から授けられた二刀の術について、妻六に、語ってきかせていた。 「自然に、さからっては、ならぬ。平常心を、失わずに、……心は早からず、心に用心して、身は要心せぬように……」  それが、幻夢の遺言であった。  伊織が、浮浪児の際に師と仰いだ武蔵は、ことごとく自然にさからって、狂おしいまでの凄じい修業をした兵法者であった。武蔵は、十歳の頃は、自分のからだに蓆《むしろ》を巻きつけ巨《おお》きな蓑虫《みのむし》にして、両足を縛って、その縄《なわ》で、立木の高い枝から逆吊《さかさづ》りにし、振幅を大きくして、幹にあたらぬようにかわす独習をし、さらに、立木の梢《こずえ》のてっぺんからとび降りつつ、枝を斬る、という異常な修練を積んで、ついに四本を斬るまでになったという。  まことに、人間業ではない、おそるべき修業によって、おのれをきたえあげた兵法者であった。  洗心洞幻夢は、武蔵とは、全く対蹠《たいしよ》的な存在であった。 「自然にさからってはならぬ。自然にしたがって生きることだ」  それが、兵法の修業につながっている、と伊織に教えて、実行させたのであった。  夜が明けるとともに、目覚めて、起きる。日が暮れるとともに、牀《とこ》に就いて、睡《ねむ》る。人間とは、このように自然にしたがって生きる生きものゆえ、それにさからうような兵法修業をするのは、徒労であり無駄《むだ》である。それが、幻夢の教えであった。  そして、伊織が、時と場所をえらばずに、幻夢に撃ちかかって、ついに、その小袖《こそで》に、ふれさせることが叶《かな》わなかった時、幻夢が教えたのは、「心の置きどころ」だけであった。  武蔵の修業にも、幻夢の教えも、どちらも理があるように思える伊織であった。  天稟《てんぴん》の有無は、別として、どちらの修業の方が強くなるのか、伊織には、いまだ、判断しかねていた。  ただ——。  伊織《いおり》は、幻夢によって、武蔵とは対極に立つ使い手となっていた。  いまは、伊織は、弟子としてではなく、武蔵によって、幻夢の教えがどれほど事理に叶っているか、ためしたい願望が、つよく心に働いていたのである。  初老の女中が、夕餉《ゆうげ》の膳部《ぜんぶ》を、はこんで来た。  伊織は、背中を向けていたが、妻六の方は、女中の顔を一瞥《いちべつ》して、思わず「おっ!」とおどろきの声をあげた。  鼻と耳朶が、無慚《むざん》に殺《そ》がれた、むごたらしい顔になっている女中であった。 「失礼じゃが、お前さんは、どうして、そのようなおそろしい目に遭うたのじゃな?」  妻六が、訊《たず》ねた。  その問いに、伊織も振りかえって、眉宇《びう》をひそめた。 「|うち《ヽヽ》らは、この沖の島者で……、海賊に、娘がさらわれようとしたので、さかろうて……、このような化物になったのでござります」 「なんと、まあ、むごいことを!」 「亭主も息子も、海賊めらに、手向うて殺されてしまいました。それで、しようことなく、こうして、恥をしのんで、この化物顔を、お客人の前にさらして居ります。……どうぞ、気分をわるうしないで下され」   長島     一  三日後、伊織と妻六は、小舟に乗って、方上《かたがみ》浦を出た。  方上浦は、湾口を、曾島、鴻島にさえぎられて、水道が東南に分れていた。  小舟が進んだのは、南水道であった。これは、虫明瀬戸に連結していた。  播磨《はりま》、備前をつなぐ一海駅である虫明の沖には、長島という長さ(東西)二海里半の、かなり大きな島嶼《とうしよ》があった。  伊織と妻六は、その長島に滞在して、海賊がやって来るのを、待ち受けることにしたのである。  方上浦の旅籠《はたご》に泊り、そこの女中の無慚な面貌《めんぼう》を見せられて、伊織は、心をひるがえし、池田家船奉行の募集に応ずる肚《はら》をきめたのであった。  娘をさらわれたその女の住んでいたのは、方上浦の東水道の沖にある鹿久居島《かくいじま》であった。  その際、海賊は、二年後には、虫明沖の長島へやって来る、と予告して去った、という。  海賊船が沖あいに出現するのは、きまって、年の暮であった。  虫明瀬戸に入った折、伊織は、何気なく、右方の山へ、視線を向けて、 「小父御《おじご》——あれ、見事な!」  と、妻六に、指さした。  疎林《そりん》を配した渚《なぎさ》から数丈もの高処《たかみ》に——内側へ彎弓《わんきゆう》した絶壁の上に、海へ向って突出している巨大な岩に彫られた不動明王が、朝陽《あさひ》をあびて、異常な力強い姿を浮きあげていたのである。  湖水のように、波静かな内海の入江には、なんとなくふさわしからぬ彫像であった。  彫った者の烈《はげ》しい業念が、その不動明王の面貌にあふれているようであった。 「はてな?」  妻六は、じっと見まもっていたが、漕《こ》いでいる漁夫に、 「あれを彫った御仁は、もしかすると、仏像師ではなく、牢人者《ろうにんもの》ではなかったかな?」  と、訊ねた。 「ああ、そうじゃった。虫明の村長《むらおさ》にたのんで、あの岩に不動尊様を彫らしてくれ、とたのみなさっての——。もう五、六年も前のことじゃったが……」 「その牢人者は、宮本武蔵とはいわなんだか?」 「さあ、なんちゅう名前じゃったか、ききもらしたがの……、黒井山にかくされた宇喜多家の軍用金をさがしに参られた池田様のお目付衆に立ち退《の》きを命じられての、争いになって、その牢人者は四人のお目付衆を斬り殺しておいて、何処かへ消えてしもうたそうじゃがな」 「武蔵殿だぞ、それは! 伊織、まちがいないわい。あの不動尊は、武蔵殿の作じゃ!」  妻六は、断言した。  武蔵とともに、江戸に在った頃《ころ》、妻六は、武蔵の作った仏像を、日本橋|袂《たもと》の市で、売ったことがある。  したがって、妻六は、武蔵が作る仏像の貌《かお》の特長を、熟知していた。  あの頃、武蔵が作る仏像は、釈迦如来《しやかによらい》とも薬師如来とも弥勒菩薩《みろくぼさつ》とも、区別のつかぬものであった。おのれ自身勝手に、想像力の働くままに作りあげた貌であった。我流乍ら、いやその我流が、一種独特の見事な表情を完成した、といえる。  その巨岩に彫られた不動尊の貌は、明らかに、武蔵独創の表情を示していた。 「伊織、世間とは広いようで、せまいものよのう。武蔵殿が滞在して、あの不動尊を彫られた土地に、わしらが、やって参るとは……、合縁奇縁とは、これをいうのか。武蔵殿とわしらは、なにやら目に見えぬ糸でつながっているようじゃわい」  妻六は、しみじみと述懐したことだった。  しかし——。  伊織の方は、海を睨《にら》んだ不動明王を仰ぎ視《み》乍ら、別のことを考えていた。  ——たしかに、これは、見事な彫像に相違ないが、あの面相には、なにか、狂おしい気色がみなぎっている。降魔《ごうま》の怒りを示している、というより、右手の剣も左手の縛縄《ばくじよう》も、背負うた迦楼羅炎《かるらえん》も、すべて、魔気を発しているように思われる。  不動尊の憤怒相は、人間の幸せを守って、一切の邪魔を取りひしぐためのものでなければならぬはずである。  彫った者の業念の激烈さをみなぎらせている、ということは、人間の幸せを守る象徴とはいえぬ。  伊織は、そう感じた。洗心洞幻夢の正念を、伊織は、どうやら、おのれのものとして、心に据《す》えたようであった。     二  長島は、平安朝のむかしから、官牧の島であった。  虫明側の渚に小舟を着けて、伊織と妻六が、砂地に立つと、すぐ目の前の草地に、幾頭もの馬や牛が、のんびりと、ちらばっていた。  風もなく、陽ざしもあたたかく、浜辺を洗う小波《さざなみ》の音もなかった。  島の地形が、ひくい丘陵の起伏したなだらかさで、緑の濃い松を配した草原なのであった。  人家が、松のあわいに、ちらほらとちらばっていた。  送ってくれた漁夫の案内で、島長《しまおさ》の家へむかい乍ら、妻六は、 「海賊めらが、こんなおだやかな島の人々をおびやかすとは、許せぬ所業じゃわい」  と、云った。  島民は、牧畜だけでくらしをたてているらしく、どこにも田は見られなかった。  島長の家は、島の東端の小高い場所にあり、高い櫓《やぐら》を有《も》っていた。  櫓の上で見張っていた者が、近づいて来た三人を誰何《すいか》した。  漁夫が、この二人の牢人衆は、方上浦にやって来て、池田家船奉行の高札を読み、海賊討ちに応じたのだ、と説明した。  櫓から降りて来たのが、島長自身であった。 「たったの二人では、どうにもならんがのう」  心細げに、かぶりを振った。  まだ三十七、八歳の壮年であったが、ひどく顔色がわるく、しきりに空咳《からぜ》きをしていた。胸でも患《わずら》っているのであろう。 「なんの、われわれ二人だけで、海賊船を追いはらってみせ申すぞ。ご安心あれ」  妻六は、自分たちの素姓を説明した。  伊織は、若いが、無双の兵法者であり、この妻六は、いささか老いているが、伊賀の上忍《じようにん》であり、海賊の十人や二十人、斬り伏せ、遁走《とんそう》せしめる確信がある、と。  そう説明されても、島長は、池田家船奉行の高札に応募する郷士、牢人が一向にいないことを、なげいて、助勢がたったの二人だけなら、むしろ、なまじ海賊船に反抗しない方がよい、と云った。  すると、妻六が、 「まあ見ていてござれ、われわれの働きぶりを——」  島長の不安を、笑いとばしておいて、櫓の柱に、ひょいととびつくと、猿《ましら》の速さ、軽さで、するするとのぼって行き、その上から、鳥のように飛んで、島長の面前にひょいと立ってみせた。  いつの間にか、遠巻きに集っていた島民たちから、わあっと、素朴《そぼく》な感嘆の叫びがあがった。  島長だけは、それでもなお、暗い面持《おももち》で、ともかく家の中へ、二人を誘った。  古代の官牧の島の長であった時からの家らしく、屋内の造りは、どっしりとして、立派であった。  座敷も、貴人を迎える格式をそなえ、縁《ふち》金の折上げ格天井《ごうてんじよう》で、上段と下段とに分けられていた。  島長は、裳掛《もかけ》という苗字《みようじ》を持ち、太郎左衛門といった。  伊織と妻六が、座に就くと、太郎左衛門は、手をたたいた。  お茶をはこんで来たのは、十六、七の眉目の整った娘であった。太郎左衛門と生写しといっていいくらい、よく似ていた。 「娘でござる。久美《くみ》と申し、明けて十七歳になり申す」  太郎左衛門は、ひきあわせておいて、 「この久美には、すでに、覚悟をきめさせて居《お》り申す」  と、云った。 「覚悟とは?」 「二年前に、鹿久居島から、娘を一人さらって行った海賊船が、この次は、長島へ来ると伝えておけ、と申した由《よし》。……これまで、この長島には、いまだ一度も、海賊が参っては居り申さぬ。尤《もつと》も、この長島は、馬飼いの島であるため、むかしから——宇喜多様の時代から、若者は、二十歳になると、岡山城下へ召されて、侍大将の馬の口取《くちとり》になるならわしがあり、二十年つとめあげて、帰って来ることになって居り申すゆえ、娘どももまた、徒《かち》若党となった者の嫁になりに、城下へ出て行ってしまうのでござる。さきほど集った島の者どもを、ごらんになったでござろうが、年寄と子供ばかりでござる。……島には、この久美のほかには、十代の娘はわずか三人しか居り申さぬ。それも、久美を除けば、まだ十五歳にもなって居らぬ娘ばかりでござる。……島の長としては、わが娘をかばって、ほかの小さな娘を、海賊に渡すことは、面目上とうていでき申さぬ。そこで、久美に、覚悟をさせた次第でござる」  太郎左衛門は、沈痛な態度で、わが娘へ視線を向け、深い吐息をした。  伊織と妻六もまた、俯《うつむ》いた久美を、あらためて、見まもった。  鼻すじの通った、細おもての、肩の線がほっそりと優しい、いかにも翳《かげ》薄い姿であった。  太郎左衛門の妻は、数年前に逝《い》ったということであり、平和な父娘ぐらしであったろう。病んだ父親が、娘を奪われることは、堪えがたい苦痛であろうし、娘もまた、わずらいついた父親をのこして、生贄《いけにえ》にされることは、死ぬほどの辛《つら》さであるに相違ない。 「ふびんな!」  妻六は、云った。 「伊織! この娘御を、断じて、海賊に渡してはならぬ! な、そうであろうが——。お主、誓って、渡さぬ、と島長殿に、云うてくれい!」     三  八幡船《ばはんせん》「地獄丸」は、瀬戸内海に入って来ていた。  便乗した武蔵は、舳先《みよし》に立って、ひさしぶりに眺《なが》めるのどかな景色に、|さき《ヽヽ》の姿を想《おも》い泛《うか》べ乍《なが》ら、  ——おれの会ったのは、みな、不幸な女ばかりであったな。  ふっと、呟《つぶや》いていた。  海へ身を投じた|さき《ヽヽ》、女郎に売られた|きち《ヽヽ》、尼になった夕姫、備前虫明村で毒殺された赤音《あかね》、そして、おのが父親を斬《き》ったこの武蔵にすすんでからだを与えた佐久。  ——この手で、生みの母親を殺してしまった罪を背負うているせいかも知れぬ。女子《おなご》を幸せにはしてやれぬ男なのだ、このおれは……。  背後に、跫音《あしおと》が近づいた。  船長の鬼左衛門であった。 「そろそろ、備前の虫明瀬戸の沖あいじゃて——」 「虫明?!」  武蔵は、ききとがめた。 「ほう、おんしは、虫明を知って居るのか」 「虫明村の黒井山という山中の無住寺に、しばらく逗留《とうりゆう》したことがあります」 「そうか。今年は、その虫明村の沖の長島から、娘をひろうて行く」 「…………」 「島長の娘が、大層な器量|佳《よ》し、という噂《うわさ》をきいて居るのでな。二年前に、方上浦沖の鹿久居島から、娘をひろうた折、その噂をきいて、いずれ、もらいに来る、と予告しておいた」 「…………」 「おんし、わしを冷酷無比な外道《げどう》だと思うて居るだろうが、この地獄丸は、買うた娘は、決して、船の者どもにもてあそばせはせぬ。瀬戸内海の海賊どもは、拉致《らち》した女子を、船長はじめ水主《かこ》全員が、|たらい《ヽヽヽ》まわしに抱くそうなが、この鬼左衛門は、そんな非道なまねはせぬ。たとえ、さらって来たのが、生娘《きむすめ》ではなく、後家であっても、誰にも、手を出させぬ。大切にとり扱うて、呂宋《ルソン》なり、安南なり、暹羅《シヤム》なりに、連れて行き、そこの日本人町のしかるべき男に、妻合《めあわ》せるのじゃ」 「…………」 「わしは、その日本人町を再び訪れて、その女子が、子供を産んで、幸せにくらして居るのを眺めると、おのが罪が許されるのをおぼえるのじゃ。いや、わしに対して、礼を云うてくれた女子も、一人や二人ではない。日本の小さな島で、貧しい生涯《しようがい》を送るよりは、たとえ異国であっても、さむらいの妻として、ゆたかなくらしができるのは、お前様のおかげでございます、とな。……その言葉をきくと、わしは、なんとも、うれしゅうてな、柄《がら》にもなく、胸がじいんと熱うなるて」 「…………」 「わしは、べつに、おのれの非道の振舞いを、弁解して居るわけではないのだ。おんしも、一度、海を渡って、日本人町へ行ってみれば、わしらの所業を、とがめる気持が消えるであろう」 「…………」 「のう、おんし——、佐々木小次郎との試合を中止して、この地獄丸で、呂宋にでも、安南にでも、行ってみぬか?」  鬼左衛門から、すすめられた武蔵は、しばらく沈黙を置いて、 「人、それぞれの道があり申すゆえ——」  と、こたえた。 「どうしても、試合をする、というのか?」 「あれは、慶長五年——関ケ原役の頃でした。それがしは、この瀬戸内海の、伊予沖の島のひとつに、身を寄せていました。ちょうど、その折、海賊が、娘を連れに参ったのです。……それがしは、島長を説き、島民どもを指揮して、いささかの奇計を用いて、その海賊船を、沈没させたことがあります。いわば、お主がたの敵にまわった男なのです、それがしは——」  武蔵が、正直に打明けると、鬼左衛門は、にやりとして、 「で、その島は、その後、どうなったか、おんしは、知って居るかな?」 「いや、その直後、立ち去り申したゆえ……なにも——」 「その島は、弓削《ゆげ》島であったろう」 「ご存じか?」 「おんしが、よけいな正義を発揮したばかりに、半年後、島民は、女子供にいたるまで、みな殺しにされたわ」 「…………」  武蔵は、愕然《がくぜん》となって、鬼左衛門を瞶《みつ》めかえした。 「おんしが、弓削島の者どもを指揮した牢人者であった、とは知らなんだのう。……瀬戸内海の海賊船は、いまだ、その牢人者を、必ず見つけ出して、殺してくれる、と云い合って居るわ。……そうか、あのしわざは、おんしであったか。はははは……、わしは、いよいよ、おんしに惚《ほ》れたぞ」   迎え撃つ者     一 「おーい! 来たぞ! 海賊船が来たぞようっ!」  長島の東端にある高櫓《たかやぐら》から、沖を見張っていた老人が、叫んだのは、ちょうど昼餉《ひるげ》の膳《ぜん》に就いて、伊織《いおり》と妻六が、箸《はし》を把《と》りあげた時であった。  二人は、顔を見合わせた。 「お主が、今日まで鍛えあげた業前《わざまえ》を、ぞんぶんに発揮する好機じゃぞ!」  妻六は、云《い》った。 「八幡船には、ふつうどれくらいの人数が乗り組んで居るのか、小父御《おじご》はご存じか?」 「すくなくて四十人、多くて七十人、というところか」 「七十人!」 「お主の師匠宮本武蔵は、洛北《らくほく》一乗寺|下《さが》り松に於《お》いて、吉岡《よしおか》一門七十余人と闘って、見事に勝って居るわい。お主も、師におくれをとるまいぞ。この妻六も、老い花咲かせて、ひとつ、はなばなしゅう働いてみせ申そうず!」 「小父御、海賊と闘うのは、この伊織一人だけにしてもらいたい。小父御は、ただ、見物していてくれるだけでよい」 「いいや、そうは参らぬ。伊賀の妻六も、生涯ひとつぐらいは、義に勇んで、阿修羅《あしゆら》となろうわい。たとえ、一命を落しても、悔いはない」  妻六が、にやりとしてみせた時、島長《しまおさ》の太郎左衛門が、部屋へ入って来た。  その顔面は、全く血の気を失ったものになっていた。 「お二方に、お願い申す。海賊が参っても、手出しをせずと、すてておいて下され」  そうたのんで、頭を下げた。 「お主は、われわれの働きを、承知されたではないか!」  妻六が、気色《けしき》ばむと、島長は、 「左様、いったんは、お二方のお申し出を、受け申したが……、やはり、あきらめて、わが娘を——久美を、渡すことにいたしました」  と、こたえた。 「莫迦《ばか》なっ! 最愛の娘を——たった一人しか居らぬわが子を、海賊に奪《と》られて、どうしてあきらめられようぞ! われわれが、もし敗れて、斬死いたしたならば、あきらめて、娘御を海賊の手に渡されい!」  妻六は、云いつのった。  太郎左衛門は、俯いて、 「どう考えても、たった二人ではのう」  と、ひくく独語するように云った。 「島長殿は、この若者の強さを、ご存じないから、心細いのでござろうが、なんの、一騎当千とは、この伊織のためにつくられた言葉でござる。海賊の五十人や六十人、たちまちのうちに、討ち取ってみせ申す。ご安堵《あんど》あれ、な、ご安堵あれ」  妻六が、膝《ひざ》をすすめて、その肩へ手をあてたとたん、太郎左衛門は、激しく咳込《せきこ》んだ。口に手をあてたが、その指のあいだから、鮮血が、したたり落ちた。 「これは、いかん! 寐《ね》なければいかん。さ、居間で、牀《とこ》に就きなされ」  妻六が、かかえ起そうとすると、太郎左衛門は、咽喉《のど》奥を、ごおっと鳴らして、おびただしい血汐《ちしお》を喀《は》いた。  久美が、走り込んで来た。  伊織は、黙って、庭へ降りた。門を出てみると、島民たちが、口から口へと伝えあって、そこへ、奔《はし》って来ていた。  太郎左衛門が、云った通り、年寄と子供ばかりであった。十代の娘は三人しかいない、ということであったが、三人とも、どこかにかくされたとみえて、見当らなかった。  ——やむを得ぬ!  伊織は、おのれに云いきかせた。  ——おれ一人で、闘おう!  櫓の上へ登った伊織は、沖あいに碇泊《ていはく》した海賊船から、三|艘《そう》の小舟が、こちらへ漕《こ》ぎ進められて来るのを、みとめた。  ——わが師は、七十余人を敵として闘われたが、その吉岡一門衆は、実戦の経験者が、ほんのわずかであった、ときいた。ところが、あの八幡船に乗り組んで居る者どもは、明《みん》国から倭冦《わこう》と称《よ》ばれて、恐怖されている生命《いのち》知らずの面々なのだ。人を殺していない者は、一人として、居らぬだろう。吉岡道場の弟子たちとは、おのずから、戦闘力がちがう。  伊織自身、すでに人を斬る経験を二度も持っているが、生命知らずの海の強者《もさ》を数十人も、ただ一人でひき受けて勝つ自信はなかった。  妻六とともに、方上浦を出て、長島へやって来た時には、すでに、多勢の郷士や牢人《ろうにん》が、応募して集っているであろうし、あとからぞくぞくとやって来る、と考えていたのである。  すくなくとも、二十人以上は集るものと、考えていた伊織であった。  意外にも——。  応募したのは、伊織と妻六と、二人だけであった。  他の島に、応募者がいる、とは思えなかった。  海賊は、二年後には、虫明沖の長島へ来るぞ、と予告していたのである。  伊織は、応募者の一人として、実戦豊富な、猛気|熾《さか》んな海賊と闘うのも、よい経験となる、と自分に云いきかせて、この長島へ渡って来たのであったが……。  事態は、伊織に、あるいは、ここを死場所とさせるかも知れなかった。     二  三艘の小舟は、岬《みさき》をまわって、入江に入って来た。  六、七人ずつ、二十人あまりが分乗していた。  先頭の小舟には、船長《ふなおさ》の鬼左衛門が乗っていた。  入江に入るまでに、東端の小高い処《ところ》に在る、櫓を有《も》った家を、島長《しまおさ》の住居と見てとっていた鬼左衛門は、そこへ登る小径《こみち》を、一人に見つけさせると、 「弥左、九市、汐政、三人だけ、ついて来い」  と、命じた。  鬼左衛門のやりかたは、まず、島長に面会して説得につとめ、どうしても肯《き》き入れない時、待機させた手下どもを呼んで、力ずくでも、娘を買う、とおどす。それでもまだ拒否した場合、暴力をふるうのであった。勿論《もちろん》、多額の金子《きんす》は、のこしてゆく。  娘を拉致《らち》することに於いては、他の海賊とかわりはなかったが、鬼左衛門としては、一応筋みちを通したのである。  坂を登りきろうとした——その時。  赤松の林の中から、一人、すっと、小径をふさいで、佇立《ちよりつ》した若者があった。 「なんだな?」  鬼左衛門は、けげんそうに、牢人|てい《ヽヽ》の若者を視《み》やった。 「島長になり代って、もの申す。当長島には、八幡船《ばはんせん》に渡す娘は、一人も居《お》り申さぬ。すみやかに立ち去って頂きたい」 「この長島には、島長の娘が、大層な器量|佳《よ》し、という噂《うわさ》をきいたが、嘘《うそ》かな?」  鬼左衛門は、薄ら笑い乍《なが》ら、云った。 「たしかに、島長には、十七歳の娘がいる。しかし、目下、島長は、血を喀いて病臥《びようが》中であり、娘は、その看護をいたして居る。この旨《むね》、ききとどけて、退去して頂きとう存ずる」  伊織は、語気おだやかに、云った。 「島長が、不治の病いに冒されているとすれば、あと一年か二年の寿命であろうが……」 「左様に、見受ける。さればこそ——」 「待たっしゃい! 娘が看護すれば、治癒《ちゆ》する、という病いであれば、当方も、思慮せぬでもない。さきのない生命ならば、誰が看病しても同じじゃろうて。……銀一貫目、と思うて参ったが、そういう事情なら、二貫目で買おう」 「ことわる!」 「ことわる? ……おんし、何者じゃな?」 「この長島を、海賊の暴行から守るべく、池田家船奉行にやとわれた者だ」 「はて、さて——?」  鬼左衛門は、眉宇《びう》をひそめて、 「見受けたところ、おんし、一人のようじゃが——。それとも、他に、多勢、そこいらに伏せて居るのかな?」 「それがし一人だけだ」 「はっはっは……、たった一人で、われら『地獄丸』に歯向おうというのか?」 「お主らを幾人|斬《き》って、船を退散させることができるかどうか——闘ってみなければ、結果は判《わか》らぬ」 「よい度胸っぷりだ。……試してみるかの」  鬼左衛門は、うしろにしたがった弥左、九市、汐政の三人を、振りかえり、かかれ、と目顔で命じた。  坂径は、左右が赤土の急斜面になって、切通しのかたちになっていたので、三人が、一挙に攻撃することは出来なかった。  まず——。  弥左という六尺ゆたかの巨漢が、背負うた三尺数寸もある太刀を抜きはなって、凄《すさま》じい呶号《どごう》をほとばしらせつつ、駆け登って行った。  勝負は、一瞬にして、決定した。  伊織は、弥左が体当りするまでに突進させておいて、大小二刀を抜きざま、右手の大刀で、弥左の大太刀を受けとめると同時に、左手の小刀で、ふかぶかと敵の腹部を刺し貫いた。  伊織が、その小刀をひき抜くとともに、弥左は、のけぞった。  ころがり落ちて来た弥左の死体を、九市が躍り越えた。その手には、六尺|柄《え》の手槍《てやり》がつかまれていた。  その勝負も、一瞬|裡《り》に終った。  びゅーっ、と突いて来た手槍を、伊織は、小刀で、|けら《ヽヽ》首から刎《は》ねざま、大刀をまっ向から、振りおろし、九市の脳天から頤《おとがい》まで、両断して、血《ち》飛沫《しぶき》を散り撒《ま》かせた。 「おのれっ!」  汐政は、仲間二人の屍《しかばね》をまたぎ越して、じりじりと肉薄して来た。  伊織の二刀に対抗すべく、汐政もまた、背負うた大太刀を抜くとともに、腰に携《さ》げていた二尺数寸の剣を鞘走《さやばし》らせていた。それは日本刀ではなく、明国で奪ったらしい唐剣であった。  汐政は、身丈こそ尋常であったが、肩幅胸幅など、常人の倍はあった。  汐政は、その二本の白刃を、びゅんびゅん振りまわして、迫って来た。  まさしく、かぞえきれぬほど人を斬った実戦の闘法であった。  伊織は、すこしずつ、後退した。  そして、背中を、赤松の幹へすりつけた。 「う——おっ!」  野獣の咆哮《ほうこう》にも似た叫びとともに、汐政は、もはや後退不可能の地点に在る伊織めがけて、躍りかかった。  伊織が、背中を赤松の幹にすりつけたのは、作戦であった。  ぱっ、と伊織の身が沈み、汐政の大太刀は、ざくっと赤松の幹へ食い込んだ。  汐政の動きが、一瞬、停止した——その隙《すき》をのがさず、伊織の大刀は、下方から、汐政の頸《くび》めがけて、突きあげ、|のど《ヽヽ》仏あたりから、ぐさっと、二寸余も刺し込んだ。 「うむ!」  またたく間に、三人の屈強の手下を殺された鬼左衛門は、はらわたをねじるような呻《うめ》きを発した。     三 「地獄丸」では、一刻《いつとき》余が過ぎたが、鬼左衛門が、娘をひろって戻って来る様子がないので、ようやく、ざわめき立った。 「池田家では、八幡船を追いはらうために、牢人どもをやとって、島を守備させて居る、という噂があるぞ。もしかすると——?」  鬼左衛門の腹心である副船長満十郎が、云った。  四艘の小舟を、長島へ漕ぎ着けるべく、満十郎が、下知しようとした時、武蔵が、 「それがしが、まず、一人で、様子を見て参ろう」  と、申し出た。  満十郎は、武蔵が便乗者であるからには、よけいな助勢は無用だ、といったんは拒絶した。  武蔵は、 「便乗させて頂いた礼をかえしとう存ずる」  と、云った。  満十郎は、思いかえして、武蔵の申し出を承知することにした。  船長の鬼左衛門が、日本国内での殺戮《さつりく》をきらっていたし、武蔵の業前の凄《すご》さは、すでにわかっていたからである。 「お主が、様子を見に行って、半刻|経《た》っても、なんの合図もない時には、全員で、押し入る」  満十郎は、云った。 「承知いたした。あの岬から、松明《たいまつ》が投げられたら、攻撃無用、ということにいたす」  武蔵は、云いのこした。  小舟は、母船をはなれた。  舳先《みよし》に坐《すわ》った武蔵は、ふと、頭《こうべ》をまわして、漕ぎ手を視やった。  船で一番若年であろう、まだ紅顔の整った容貌《ようぼう》の少年であった。 「そなた、幾歳になる?」  武蔵は、問うてみた。 「十四歳です。石田|左馬之助《さまのすけ》と申す」  立派な名前を名のってみせた。 「自分からのぞんで、海賊となったのか?」 「わしは、船長殿にひろわれた戦場《いくさば》の残り児です」 「…………」 「わしは、佐和山城が陥《お》ちた際、女中に背負われて、遁《のが》れ出たが、その女中も病いで斃《たお》れて、鬼左衛門殿にひろわれ申した」  佐和山城は、石田|治部少輔三成《じぶしようゆうみつなり》の居城であった。  この少年が、石田左馬之助と名乗るからには、三成の血縁であろうか?  もし、三成の子ででもあれば、いまだにきびしい徳川幕府の落人詮議《おちうどせんぎ》の網にかからぬためには、海賊船が、ちょうど恰好《かつこう》の|すみか《ヽヽヽ》であろう。 「宮本武蔵殿——」  左馬之助の方から、話しかけて来た。 「うむ?」 「お手前様は、兵法者として、生涯《しようがい》を、試合をしつづけてすごされるおつもりですか?」 「そういうことになろう」 「その剣名を天下にあげるだけで、満足なされますか?」 「わが名が人に知られるのは、結果にすぎぬ。べつに売名をのぞんで、つぎつぎと決闘しているわけではない」 「判りませぬ!」 「…………」 「なんの報いものぞまずに、一命を賭《か》けて、兵法試合を、しつづけられるのか——?」 「…………」  武蔵は、なんともこたえなかった。  小舟は、やがて、岬をまわって、入江に入った。  渚《なぎさ》には、鬼左衛門たちを乗せて来た三艘の小舟が、置きすてられてあった。  あたりに、人影はなかった。 「どうしたのじゃろ?」  左馬之助は、不審げに、見まわした。 「お主は、ここで、待っていてもらおう」  武蔵は、舳先から跳んで、砂地に立った。 「要心なされ!」  左馬之助が、歩き出した武蔵の後姿へ、声をかけた。   邂逅《かいこう》対立     一  ものの二十歩も、人一人やっと通れるほどの細い坂径《さかみち》を、登ったろうか。  武蔵の足が、ぴたりと停《と》められた。  べつだん表情は、変らなかったが、一瞬、双眸《そうぼう》から、稲妻のように、光が放たれた。  常人では考えられぬほど、この決闘者の感覚は、異変に対して、遠い地点に在り乍ら、それをさとる敏感さを備えていた。その天性をみがきあげていた、といえよう。  武蔵は、ちょっとまぶしげに、細目になると、再び、ゆっくりと登り出した。  はたして——。  十歩と辿《たど》らぬうちに、生血のにおいが、鼻孔を衝《つ》いた。  坂径は、そこからゆるやかに曲《くね》っていた。その曲り角へ至って、武蔵の視界の中に、あまたの死体が入って来た。  さまざまな恰好《かたち》になっているが、重傷《ふかで》で蠢《うごめ》いている体はひとつもなく、すべて死に絶えた静寂が、そこにあった。  文字通り、死屍累々《ししるいるい》であった。しかも、斬られているのは、ことごとく、小舟で分乗して来た「地獄丸」の者ばかりであった。  武蔵といえども、白昼、これほど多く斬り殺された光景に接したのは、はじめてであった。  曾《かつ》て、洛北《らくほく》一乗寺村|下《さが》り松で、吉岡《よしおか》一門と死闘した時も、おのれが斬った屍《しかばね》を、見とどけるいとまなどはなかった。  ——よほどの手練者《てだれ》が、待ちかまえていたとみえる。  武蔵は、呟《つぶや》いた。  曲り角から、勾配《こうばい》がけわしくなって居《お》り、死体が二つも三つも、重なり合っているのは、斬られてころがり落ちたものであった。  近づいた武蔵は、のこらず、一太刀で殺されているのをみとめた。  またぎ越え、あるいは、跳びあがって、登りつつ、武蔵は、島へ到着した二十余人が、一人も生き残っていない、と直感した。  赤土の壁にはさまれた切通し状の地点まで来て、胴をはなれた三個の首を、見下した武蔵は、  ——池田家が守備させた者のしわざであろうが、池田家に、これほどの術者がいたかな?  と、疑った。  武蔵ほどの実戦者になると、この海賊たちを斬り仆《たお》したのは、一人だけであることが、その斬り|ざま《ヽヽ》を視《み》ただけで、判定できたのである。  ……ついに、武蔵は、登りきった。  赤松をちらばせた平らな草地が、ひらけた。 「…………」  武蔵は、七、八歩前方の赤松の幹に、後手にくくりつけられた船長《ふなおさ》鬼左衛門の惨《みじ》めな姿を、発見した。  ——生きている!  がっくりと首を垂れているが、あきらかに、生捕られた惨めな姿を露呈していた。  武蔵は、視線を、移した。  これだけの多数を斬った者が、すぐ近くの場所に、寐《ね》そべっていた。  不敵な休息をしているのは、まだ二十歳ばかりの若者であった。  こちらが、気配を消して登って来たので、気がつかぬようであった。疲労を癒《い》やすため、仮睡をとっているのかも知れなかった。第二次の襲撃にそなえているのであろうか。  よもや、この若者が、たった一人で、二十余人を斬り仆し、鬼左衛門を捕虜にしたとは、武蔵には、考えられなかった。  見張りであろうか?  武蔵は、この若者の顔を、どこかで見たような気がした。  と——。  宙を截《き》る手裏剣《しゆりけん》の唸《うな》りに、武蔵は、大きく跳躍して、一本の松の幹に、身をかくした。  手裏剣は、三本、つづけさまに飛来して、いずれも、松の幹に突き刺さった。武蔵に、野性の本能ともいえる素早く躱《かわ》す業《わざ》がなかったならば、その一本か二本かは、体のどこかを刺していたであろう。  その瞬間、若者は、はね起《た》っていた。  武蔵は、幹|蔭《かげ》から、手裏剣の飛来した方角を、ちらと視やった。  放って来た者との距離は、遠かった。 「小父御《おじご》、手出しするな! 敵は、わし一人で、片づける」  若者が、叫んだ。  すると、遠いその地点から、 「そやつ、ただの海賊ではないぞ、伊織!」  その返辞が、かえってきた。  武蔵は、思わず、「お!」と小さな声をもらした。     二  武蔵は、すっと幹蔭から、姿を現した。 「対手《あいて》を見さだめて、手裏剣を撃て、妻六」  そう云《い》う武蔵に対して、伊織が、 「あ! お師匠様っ!」  と、歓喜の声をあげ、むこうの岩の上へも、妻六が、とびあがって、 「武蔵殿っ!」  と、わが目を疑うおどろきの叫びをたてた。  武蔵は、伊織を正視して、 「お前、伊織か!」  なかば疑いの問いを投げた。 「伊織です! おひさしゅうございました」 「八幡船《ばはんせん》の者どもを、斬ったのは——?」 「それがしです!」 「…………」  武蔵には、なお信じ難かった。  そこへ、妻六が、跛をひき乍ら、馳《は》せて来た。右膝《みぎひざ》をしばった布に血汐《ちしお》がにじんでいるところをみると、鉄砲ででも撃たれたのであろう。 「申しわけござらぬ。お許し下され。この妻六、やはり、年齢《とし》には勝て申さぬ。視力がおとろえて、つい、武蔵殿とは気づかず、とんでもないことをいたし申した。平に、ご容赦のほどを——」  妻六は、土下座した。  武蔵は、伊織から、視線をはずさず、 「どこで、これだけの業前になるまで、修業した?」  と、訊《たず》ねた。 「沢庵和尚《たくあんおしよう》様にともなわれて、伊賀上野へ参り、そこの山中に住む洗心洞幻夢という先生について、二刀の術を教わりました」 「洗心洞幻夢?」  武蔵は、そのような剣名をきいたことがなかった。 「幻夢先生は、生涯《しようがい》ただの一度も、試合をなされなかった御仁《おひと》なのです」 「………?」  武蔵は、眉宇《びう》をひそめた。  妻六は、わが子の手柄《てがら》ででもあるかのごとく、 「ごらんなされたでござろうがな、この伊織の強さを——」  と、鼻たかだかと云った。 「妻六、お前も伊賀の出身ならば、洗心洞幻夢という人物を知らぬはずはあるまい」 「いや、それが一向に、存ぜぬ人物でござった。伊織の話では、そのむかしは、禅僧であった由《よし》でござるが、いつ伊賀に移り住まわれたのか、すこしも、知り申さなんだ。……ともあれ、伊織は、その幻夢なる御仁によって、このように強い兵法者になり申したのでござる。およろこび下され」 「それが、よろこぶわけには参らぬ」 「なんと?」  妻六は、目をひき剥《む》いた。 「おれは、そこにくくられて居る老|船長《ふなおさ》にたのんで、八幡船に便乗し、豊前《ぶぜん》小倉へおもむく途中なのだ」 「すりゃ、お手前様は、池田家船奉行の高札を読んで、海賊退治に参られたのでは……?」 「いや、お主らの敵にまわって居るのだ」  武蔵は、冷たい語気でこたえた。 「なんということでござる!」  妻六は、舌打ちした。  伊織の方は、涼しい眼眸《まなざし》で、じっと、武蔵を見まもって、無言でいる。  武蔵は、鬼左衛門へ近づくと、活を入れて、意識をとりもどさせた。 「おお! おんし、救いに来てくれたか?」 「船長殿、貴方《あなた》の部下を、斬ったのは、この武蔵の弟子でした」 「なに?!」  鬼左衛門は、愕然《がくぜん》となって、視線をまわし、おのれをこのような恥辱に遭わせた若者を、凝視した。 「これが、おんしの弟子であったのか!」 「弟子と申しても、この伊織が十一歳の折、別れたきりで……、伊織は別の師について剣法を学んだ模様ですが、それがしと師弟の間柄であることには、かわりはありません」 「……む!」  鬼左衛門は、呻《うめ》いた。  武蔵は、言葉をつづけた。 「しかし、いまは——、八幡船方として、それがしは、この島に参ったのであり、伊織は、どうやら池田家にやとわれて島を守る側に立って居ります。申さば、師弟は、敵同士にわかれて居り申す」 「…………」  鬼左衛門は、武蔵を仰ぎ視て、まばたきもしなかった。 「船長殿、御辺《ごへん》を救うためには、それがしは、弟子の伊織と決闘いたさねばなり申さぬ」  武蔵が云ったとたん、妻六が、 「そ、そんな莫迦《ばか》なっ!」  と、呶鳴《どな》った。 「武蔵殿と伊織が、勝負をする——そんな、莫迦なことがあり得てなるものか! 狂気の沙汰《さた》じゃ!」 「妻六! 乱世では、父と子が、兄と弟が、戦って、殺し合って居るぞ。お主も、その例をいくらも知って居ろう」 「いいや、他人の事はいざ知らず、この妻六の目の前では、決闘などさせ申さぬ!」 「妻六、この武蔵は、娘を掠奪《りやくだつ》することは別としても、この海賊の頭領を救うて、船へ戻らねばならぬ。その任務があるのだ。……便乗者としての当然のつとめだ。もし、救うて船へ戻らぬ時には、船の全員が、この長島を襲って来るぞ。鉄砲もたくさん携え、大筒(大砲)もそなえて居る。島民は一人のこらず、殺されるぞ。……と申して、伊織、お前は、この武蔵が現れたので、むざと、船長を、許して、渡すか?」 「いいや、渡しませぬ!」  伊織は、きっぱりとこたえた。 「やむを得ぬ。伊織、おれとお前との試合となるぞ」 「はい!」     三 「駄目《だめ》じゃ! 駄目じゃ! 駄目じゃ! そんなことは、この妻六が、断じて、させませんぞ!」  妻六は、血相を変えて、両者の間に、立った。 「どうしても、勝負をしたければ、この妻六を斬ってからにして下されい!」  憤怒の形相で、喚《わめ》きたてた。  その時——、 「待ってもらおう」  鬼左衛門が、言葉をはさんだ。 「宮本武蔵殿、おんし、この長島へ、とどまるがよい。わしは、船にもどる」 「………?」 「島長《しまおさ》の娘をひろうことは、あきらめて、おとなしゅう、立ち去ろうわい」 「二十余人も斬《き》られて、娘もともなわずに、船へかえれば、船長としての面目を失われよう」  武蔵が云うと、鬼左衛門は、かぶりを振り、 「やむを得ぬ。船へもどって、長島は襲わぬ、と一同に申しきかせたならば、わしは、船長の地位を降りようわい」 「三十余年も、勇猛無比な八幡船の頭領であった者が、面目を失うて、その地位を降りる、といわれるのか?」 「老いぼれ申しただけの話じゃ。副長の満十郎に、その地位をゆずるか、それとも、五人の甲長に、籤《くじ》をひかせて、誰を船長にならせるか、あいつらに協議させようて」  いかにも枯れた態度であった。  武蔵は、鬼左衛門とともに、入江へ降りると、待っていた小舟に、この肝の太い寛容な老海賊を、乗せた。 「おさらば——」  頭を下げると、鬼左衛門は、 「佐々木小次郎との試合、お主の勝利を祈って居るぞ」  と、云った。 「お世話になり申した。……船長の地位を降りられたら、田辺で、しずかに余生を送られぬか?」 「さあ、どうなろうかの。……ただ、お主に云いのこせることは、八幡船というものは、たとえ、豊臣《とよとみ》の天下になろうと、徳川の天下になろうと、絶対に滅びぬ、ということだ。ごらんの通り、この漕《こ》ぎ手の少年をみてくれるがよい。あと十年も経《た》てば、一隊を指揮して、明《みん》国を侵し、安南を襲い、呂宋《ルソン》を攻めて、はなばなしゅう、日本男子の勇猛ぶりを発揮してくれるであろうて」  あるいは、石田三成の落し胤《だね》かも知れぬ少年左馬之助を、武蔵は、眺《なが》めやり、 「期待いたす」  と、云った。  やがて、島長の家へ、やって来た武蔵は、べつに、この奇遇をあらためてよろこぶ風もなく、伊織に、 「二刀をふるって、あれだけの人数を、斬ったか?」  と、訊ねた。 「はい」 「八幡船の者どもは、いずれも、血みどろの戦闘の経験を積んだ生き残りのつわものぞろいだ。それを、お前一人で、皆殺しにしたとは、いまだ信じられぬが、洗心洞幻夢の教えた二刀の術を、一度、見たいものだ」 「いずれ、お見せいたします」  妻六が、そばから、 「佐々木小次郎と、いよいよ、試合をなさるか?」 「うむ」 「見事、勝利をおさめて下され」 「いや、まだ、小次郎に勝つ自信はない。……敗れるかも知れぬ」 「そのようなことを申されるものではござらぬ」 「天稟《てんぴん》に於《お》いて、おれは、小次郎に劣るかも知れぬ。業《わざ》に於《お》いても、名人|越後《えちご》の直《じき》弟子である小次郎の富田流《とだりゆう》と、おれの我流とでは、常識として、おれが劣る」 「そんな……」 「これは、事実だ。……ところで、伊織」 「はい」 「お前は、洗心洞幻夢なる人物によって、正しい剣を学んだ模様だな?」 「はい、学びました」 「もし、おれが、佐々木小次郎に勝ったならば、そのあかつきには、お前は、この武蔵と立ち合ってもらおう」 「はい」 「お前が斬り仆《たお》した死体の群を眺めた時、おれは——おれには、このような剣はふるうことはできぬ、と看《み》た。お前の剣は、おれの剣とは、根本に於いて、異質であるようだ。師弟という間柄を越えて、一度、真剣の試合をしてみたい」   魚心庵《ぎよしんあん》老人     一  慶長十七年二月下旬の某日の朝であった。  小倉城大手門の真向いにある細川家筆頭国家老・長岡佐渡守《ながおかさどのかみ》興長邸を、興長の父|康之《やすゆき》が、ただ一人で、訪ねて来た。  佐渡守康之は、去年、興長に筆頭家老の職をゆずって、旧姓松井にもどり、魚心庵と号し、到津《いたつ》の浜に、隠居所を建てて、魚|釣《つ》りに明け暮れる晩年を送っていた。  魚心庵康之は、書院で、下座に就き、佐渡守興長と、正月元旦以来、二月ぶりに顔を合せた。  挨拶《あいさつ》をすませると、康之は、 「大坂の空の雲ゆきが、だんだん怪しゅうなった模様じゃな」  と、云った。 「戦いは、避けられますまいか?」  興長は、眉宇《びう》をひそめた。  前年三月二十八日、豊臣|秀頼《ひでより》は、大坂城を出て上洛《じようらく》し、二条城に於いて、徳川|家康《いえやす》と会見していた。  その模様は、主君細川|忠興《ただおき》から、魚心庵康之は、書翰《しよかん》をもらって、知っていた。  大坂を発《た》った秀頼を、鳥羽まで出迎えた徳川方は、家康の息子二人——右兵《うひょう》衛督《えのかみ》義直《よしなお》と常陸介頼宣《ひたちのすけよりのぶ》であった。十二歳と十歳の少年たちであった。  二条城に入った秀頼を応対したのは、この二人の少年のほかは、藤堂高虎《とうどうたかとら》と池田|輝政《てるまさ》だけで、他の大名は一人もいなかった。  秀頼の供は、織田有楽《おだうらく》、片桐《かたぎり》市正《いちのかみ》且元《かつもと》、大野修理らであったが、ほかに、加藤清正、浅野|幸長《よしなが》が、万が一の凶変を予想して、城内に詰めていた。  家康と秀頼の会見は、ごく内輪に、なごやかにすまされた。  この会見によって、関東と大坂の険悪な空気は、なごんだかと思われた。  ところが——。  この会見によって、豊臣家は安泰、と胸をなでおろした——その気のゆるみが、死神を招いたごとく、同年中に、浅野長政、堀尾吉晴《ほりおよしはる》、加藤清正らが、ばたばたと相次いで世を去ったのである。  特に——。  加藤清正という、家康が最も気をくばり、重く視《み》ていた豊臣氏守護の頭領ともいうべき武将の死は、毒殺の噂《うわさ》も起るほど、世間に動揺を与えた。  大坂城に於いては、片桐且元が、京都東山の方広寺の大仏殿再建にかかりきりになっている間に、大野修理が、つぎつぎと名ある武辺を、豊臣家に随身せしめていた。 「百年の栄耀《えいよう》は風前の塵《ちり》、一念の発心は命後《みようご》の燈、と太平記にもあるが、まさに、槿花《きんか》一日の栄だのう」 「豊臣家は、滅びる、と申される?」 「左様——、駿府《すんぷ》大御所は、すでに七十|翁《おう》と相成って居《お》る。その目で、大坂城が焼け落ちるさまを、見とどけねば、安心して目蓋《まぶた》を閉じられぬ執念を持って居られる。一両年うちに、大軍が、大坂城を包囲することに相成ろう」  父の明言を、興長は、なかばおどろき、なかばあきれて、きいた。  そんなに早く、家康が秀頼をほろぼすとは、興長は、予測していなかったのである。  おのれにまさる父の前途の看通しのたしかさを、興長は、これまで、しばしば、知らされていた。 「ところで……」  魚心庵老人は、話題を転じた。 「佐々木小次郎と、対等に闘い得る実力を持った者が、来月うちに、当地に参る」 「ほう、それは……」  興長は、目を光らせた。  細川家兵法師範になった小次郎は、すでに、道場に於いて、家中の若い士六人を、木太刀で撃ち殺し、四人を永久の不具者にしていた。  稽古《けいこ》をつけられていて、未熟のあまり、死傷したのであるから、小次郎に対する咎《とが》め沙汰《ざた》はなかった。  それにしても——。  当主忠興が、小次郎を召抱えた時、長岡康之が、「野《や》におくべき兵法者だ」と断定し、細川|忠利《ただとし》と興長も、これに反対意見を持ったが、その予想通り、巌流《がんりゆう》佐々木小次郎は、大名の兵法師範役の人格など、みじんも具備してはいなかった。  しかし、「冥途《めいど》送りの栄貌者《えいぼうしや》」というあだ名をつけられて、九州一円を畏怖《いふ》させ、無敵を誇る小次郎は、主君忠興から、 「細川家の名を挙げる者」  として、家中の若者を幾人、撃ち殺そうと、追放されるけはいなどすこしもなかった。  家中から、兵法師範としては不適格である、という声もあがってはいなかった。ただ、小次郎は、おそれられているばかりであった。  強い、ということが処世の第一義にされている時代であった。     二 「佐々木と業が拮抗《きつこう》している者が、居りましたか?」  興長は、訊《たず》ねた。 「お許《もと》も存じ寄りの兵法者だ」  康之は、微笑して、こたえた。 「はて——?」  ちょっと、小首をかしげた興長は、すぐ、 「おお! 思い当りました。宮本武蔵!」 「左様——、去年、出府した際、たまたま、訪ねて参った武蔵に、小倉に参って、佐々木小次郎と試合をしてくれまいか、とたのんでおいた。その返辞が、ようやく、とどいた」  康之は、懐中から、武蔵の書状をとり出して、興長に手渡した。  文面は、ごくかんたんに、お約束をはたしたく、小倉へ参上つかまつりますが、その日はしかと申し上げがたく、たぶん、三月に相成ると存じ居り、参上いたした節には、思うところあって、姿をご面前には現さず、ご当家にて扶持《ふち》を得て居る新免衆《しんめんしゆう》を通じてお報《しら》せ申し上げますれば、そちら様にて、試合の日時と場所をおきめ下さいますように、とあった。  新免衆とは——。  武蔵の血族である新免|伊賀守《いがのかみ》の率いた郷党の生き残り衆のことであった。  関ケ原役に於いて、新免伊賀守は、一族郎党百七十人を引具して、宇喜多秀家《うきたひでいえ》の軍に加わったのであった。  西軍が潰滅《かいめつ》し、秀家が敗走逃亡するとともに、生き残った新免衆もまた、散り散りになった。そのうち、十数人は、秀家が薩摩《さつま》へ落ちのびた、という噂をきいて、 「九州へ行こう」  と、きめたのであった。  そして、黒田|孝高《よしたか》(如水《じよすい》)にたよることにしたのであった。  関ケ原の決戦は、たった半日で終了したが、九州にあっては、徳川方と石田方に分れて、戦いつづけていた。  黒田如水は、豊前《ぶぜん》の下毛郡中津川(現在の中津市)の城にいた。  その嫡男長政《ちやくなんながまさ》は、関ケ原役では、東軍に加わって、武勲をたて、その功績で筑前《ちくぜん》福岡五十二万石の太守になった。  しかし、如水の方は、徳川家康の足下に跪《ひざまず》く気持はなかった。  如水には、天下を征覇《せいは》する野心があった。  徳川家康と石田|三成《みつなり》との戦いは、二年も三年も長びくであろう、と如水は考えていたのである。その機を看て、如水は、加藤清正と盟約を結び、薩摩の島津家とも手をつないで、九州全域の大名を味方につけて、大挙して、京都へ攻めのぼり、家康と天下を争う肚《はら》づもりだったのである。  新免衆残党が、黒田如水をたよったのは、理由があった。新免家は美作国《みまさかのくに》、黒田家は備前国の豪族で、ともに、播州《ばんしゆう》一帯を統治していた三木城城主別所氏に属していた。いわば、先代の面々は、同じ領内の味方同士だったのである。  三木氏は、羽柴秀吉《はしばひでよし》によって滅されたが、新免一族は、備前宇喜多家に属した。黒田|官兵衛《かんべえ》(如水)の方は、三木氏を裏切って、羽柴秀吉に随身し、備中《びつちゆう》高松城攻略に加わった。  秀吉の謀臣としての黒田官兵衛の働きは、めざましいものがあった。  天正《てんしよう》十五年、秀吉の九州征討の際には、軍奉行となり、平定後は、豊前六郡中十五万石を与えられたのであった。  新免衆残党が、黒田如水をたよって、九州へ趨《はし》ったのも、故郷を同じくしていたからである。  中津城に在った如水は、新免衆残党を、こころよく、迎え入れてくれた。  しかし、如水の判断はあやまり、関ケ原役は、徳川家康の大勝に帰したため、如水は逆に、家康に睨《にら》まれ、中津城を立退《たちの》かなければならなくなった。  家康は、如水の肚の裡《うち》を、看て取っていたのである。如水は、ただの千石の土地さえも、与えてもらえなかった。  ただ、嫡子長政が、筑前福岡五十二万石の太守となったので、如水は、隠居の身として、城外に住居を与えられることになった。  その際、如水は、新免衆をひきつれて、筑前国に入り、長政にたのんで、新免衆の頭領新免宇右衛門に三千石を給してもらい、その三千石で新免衆をやしなわせたのであった。  隣国の豊後《ぶんご》、豊前には、細川忠興が、新領主として、丹後宮津から移って来た。  黒田長政は、父如水が逝《い》くと同時に、新免衆を追いはらった。その時、新免衆はわずか六人に減少していた。かれらは、やむなく、小倉城下に移った。  新免衆は、はじめは乞食《こじき》のような惨《みじ》めなくらしをしていたが、野伏《のぶせり》の一団が、城下の豪商を襲った際、刀槍《とうそう》をひっさげて、馳《は》せつけ、またたく間に、二十数人の野伏を一人のこらず退治してみせた。そのおかげで、「新免六人衆」と称《よ》ばれて、人々から尊敬されるようになった。  その噂が、城主忠興の耳に入り、城へ召し出された。   内海孫兵衛   香山半平太   井戸|亀《かめ》右衛門《えもん》   安積《あさか》小四郎   船曳|杢兵衛《もくべえ》   木南《きなみ》加賀四郎  忠興は、六人それぞれ秀《すぐ》れた面《つら》だましいをそなえているのを眺《なが》めて、一人につき二百石を与えたのであった。  武蔵は、同じ血族の新免六人衆が、細川家に仕えていることを、つたえきいていて、佐々木小次郎と試合をすべく、小倉城下へ入ったならば、まず、かれらをたずねて、それから、長岡興長に、その日時と場所を決定してもらい、当日そこへ姿を現す、と報せて来たのである。     三 「武蔵は、どういう存念で、当日まで、姿をかくして居るのでありましょうか?」  興長は、父魚心庵に、訊ねてみた。 「佐々木小次郎を討つには、それだけの工夫が必要なのであろうな。一万騎対一万騎の戦いも、一人対一人の闘いも、兵法にかわりはない。力が均衡して居れば、敵の心理の虚を衝《つ》く方が、勝ちだ」  康之は、こたえた。 「一人対一人の試合に、対手《あいて》の心をみだすのに、どのような策がありましょうか? 身共には、見当もつきませぬな」 「わしにも、予測しがたい。武蔵という男、わしのきき及んだところでは、試合に於いては、必ず、意外の計略を用いて居る模様だ。このたびの試合にも、わしらをおどろかせる工夫をいたすであろう」 「身共から、新免六人衆に、武蔵が参る、と伝えておきましょう」 「いや、それは必要あるまい。それよりも、佐々木小次郎の方へ、通告いたしておくがよかろう」  なぜか、魚心庵康之は、そう云《い》った。 「かしこまりました」  その日の正午、長岡佐渡守興長は、佐々木小次郎を、屋敷へ呼んで、 「宮本武蔵が、その方と試合をいたすべく、来月、この小倉へ参る」  と、告げた。  小次郎は、大きく炬眼《きよがん》を剥《む》いた。 「武蔵が参りますか!」 「あの兵法者との試合、その方、本望であろう」 「生涯《しようがい》ただ一人の宿敵と存じて居《お》り申す」  小次郎は、胸を張って、昂然《こうぜん》とこたえた。  噂は、たちまち、小倉城下中へひろがった。  ——宮本武蔵と佐々木小次郎と。  前者が、たった一人で、室町兵法所|吉岡《よしおか》道場を、まず最初に当主清十郎を破り、次に伝七郎を、そして、一門七十余人を斬《き》りまくって、滅亡せしめたことは、伝説化した強さとして、九州にもきこえていた。  佐々木小次郎の強さは、すでに、九州一円に無敵を誇り、鬼神の生まれかわりのように見られている。  小次郎によって、道場で撃ち殺され、あるいは不具者になった者の肉親や縁者のうちには、  ——佐々木小次郎が敗れますように!  と、神社に願をかける人もあった。  家中では、どちらが勝つか、賭《かけ》をする者もすくなくなかった。 「佐々木小次郎も、冷酷な兵法者だが、宮本武蔵も、吉岡一門との試合では、一乗寺|下《さが》り松で、わずか十一歳の児童を、名目人というだけで、斬り殺して居る。その残忍さに於いては、佐々木以上かも知れぬぞ」 「この試合、金一貫目を賭けてもいいな」 「よし、賭けるぞ」 「やろう」  新免六人衆は、侍小路のはずれの長屋に住んでいたが、すでに、武蔵から、書状をもらっていた。  豊前へ参った時は、まず最初に、同族衆にお伝えいたすが、城主にも国家老にも、面謁《めんえつ》はいたさず、姿をかくして、試合当日まですごしたく存じますれば、その家をさがしておいて頂けまいか。  との依頼であった。  六人衆は、協議をつづけて、絶対に誰にも判《わか》らず、寄宿させていることを他言せぬかくれ家を、えらぶことにした。  ——武蔵は、絶対に、佐々木小次郎に勝つ!  六人衆は、それだけは確信していた。  城内では——。  城主忠利と長岡興長が、試合場を、どこにすべきか、相談していた。  興長は、云った。 「佐々木小次郎はいざ知らず、武蔵は、多勢の見物人が蝟集《いしゆう》する処《ところ》を、きらいましょう。さすれば、紫川の磧《かわら》や、聞《きく》ノ長浜などは、場所として、不適当でありまする」 「広く竹矢来をむすんでは如何《いかが》だ?」 「これは、仇討ではなく、あくまで試合であります。なおまた、武蔵が、決闘をいたすにあたって、如何なる奇策を用いるか存じませぬが、その奇策が用いやすい場所をえらぶべきかと存じまする」 「興長、どうだ、場所の選定は、魚心庵にまかせては?」 「おお、それがよろしゅうございましょう」  興長は、早速、父を、到津の浜の隠居所に訪問した。  康之の返辞は、明快であった。 「人の住まぬ島がよかろう」   賭独楽《かけごま》     一  長門国下関。  まだ、徳川幕府によって国を鎖《とざ》されていないこの時代の湊《みなと》は、海辺には、瓦《かわら》屋根の上に望楼を据《す》えた大きな構えの回船問屋が、ずらりとならび、海上には、さまざまの異国の旗をたてた巨船を碇泊《ていはく》させていた。  当時は、平戸、長崎と競う異邦との交易港であった。さらに、九州と瀬戸内海と日本海をむすぶ唯一《ゆいいつ》の海運の要衝地でもあった。  海運業では、下関が日本随一といってもよいほど盛んであった理由のひとつは、萩《はぎ》城に在る毛利輝元《もうりてるもと》の必死な財政たてなおしの力によるものであった。  曾《かつ》ては、中国八カ国を、祖父|元就《もとなり》から受け継いだ輝元は、関ケ原役に於《お》ける不首尾から、全領土を、家康から召し上げられたのであった。  そして、あらためて、防、長二国を、幕府から、輝元の嫡男秀就《ちやくなんひでなり》に与えられたのである。秀就は、その時、まだわずか六歳であった。  つまり、輝元は、壮年にして、隠居の身分にされたのであった。  防、長二国は、おもての石高二十九万八千四百八十石であった。  豊臣《とよとみ》時代、毛利家は、百万石を越えていた。関ケ原の不首尾で、その四分の一に減ってしまったのである。防、長二国は、平野がすくなく、その物成《ものなり》実収は二十一万七千石余だったからである。  輝元は、従弟の秀元《ひでもと》を、長府(三万六千余石)に封じ、同じく従弟の吉川広家《きつかわひろいえ》を、東境岩国(三万余石)の鎮として、実収二十一万石のうち、約十万石を家士の扶持《ふち》に給し、のこり十一万石をもって毛利家の経費をまかなうことにしたのであった。  削封地六カ国の新領主に対して、慶長五年度の既収租米を弁償しなければならなかった毛利家は、それから四年間、家士さえも、麦八分の粗食にあまんじなければならなかった。  輝元が、萩に城を築いたのは、慶長九年であった。この新城を中心として、防、長二国の政治体制を確立しようとした輝元は、すでに知命(五十歳)を越えて、いちじるしく健康を害していた。城主秀就は、まだ十歳であったが、|てい《ヽヽ》のいい人質として、江戸屋敷に在った。にもかかわらず、輝元自身が、仲のわるい広家、秀元を羽翼として、政治の実権をふるわなければならなかった。  わずか二国に減って財政破滅の窮地に追い込まれた毛利家を富ませるには、海運業を盛んにするのが焦眉《しようび》の急であった。  その港が、下関であった。  萩城が築かれてから、七年を経て、ようやく、毛利家の財政がたてなおったのは、下関のおかげであった。  湊の歴史は、古かった。その歴史を利用して、人を集める祭を催したのは、秀元の智慧《ちえ》であった。  赤間神宮の先帝祭も、それであった。  赤間神宮は、寿永四年三月二十四日、源平壇ノ浦合戦に敗れた平家一門とともに、海へ沈んだ安徳帝を祀《まつ》った社であった。先帝祭は、当時の官女たちが、このあわれな幼帝の御陵に参拝したのが、はじまりといわれている。  境内には、御陵とともに、怪談で有名になった耳無し芳一が、平家の亡霊にまねかれて、墓前で琵琶《びわ》を弾いた、と伝えられる平家一門の墓七盛塚もあった。  壇ノ浦で平家が滅亡したその日——三月二十四日に、京師から勅使がわざわざ参詣《さんけい》に来るならわしをつくったのは、秀元であった。  当然——。  その日は、数万の参詣人でにぎわう下関の一大行事となった。  境内から磯辺《いそべ》まで、無数の見世物興行が催され、さまざまの芸で、客を蝟集させた。  その見世物のひとつに、鮮やかな独楽芸を披露《ひろう》している者がいた。  淡路の七助《ななすけ》であった。  直径五寸の大独楽を、左手の甲の上でまわしておき、その上へ、つぎつぎと、小振りの独楽をのせてゆき、およそ十五、六もの独楽を積んでおいて、さっと一挙に崩して——次の瞬間、一個のこらず、あるいは頭上で、あるいは肩で、指の先で、足のつま先に散らして、いつまでも回転させる見事な技は、百人以上の見物人の目をみはらせ、感嘆の声をあげさせていた。  五尺そこそこの、おそろしく胸の厚い、大きな双眼が極端に左右へひらいた容姿は、十年前とすこしも変ってはいなかった。  拍手|喝采《かつさい》をあびても、にこともせぬ仏頂面《ぶつちようづら》も、相変らずであった。  ただ——。  ちがっていたのは、投げられた鳥目《ちようもく》をひろいあつめている七助の伴侶《はんりよ》の姿であった。  七助より三寸も上背のある万寿《ます》は、十年の間に、二倍にも肥満していた。鳥目をひろうために、跼《かが》み込むのさえ容易ではなさそうであった。  七助、万寿夫婦は、ついに、子宝にもめぐまれず、小さな家を持つこともなく、こうして、十年前と同様、独楽芸を売り乍《なが》ら、諸方を経巡《へめぐ》っているのであった。     二 「さて、皆の衆——。いよいよ、これからが、鳴門流《なるとりゆう》兵法者淡路七助が、ごらんに入れる本芸じゃ。但《ただ》し、この本芸には、わし自身の方から賭をしてみせる」  七助は、口上した。 「よいかな、皆の衆、すでに、この下関にもきこえて居ろうが、近いうちに、豊前《ぶぜん》小倉にて、日本一の兵法をきそう真剣試合が行なわれる由《よし》。すなわち、宮本武蔵と佐々木小次郎と——いずれも、天下無敵を誇って居る。いずれが勝つか、ひとつ、それを、皆の衆のうち、二人代表して、予想して頂きたい」  それに応《こた》えて、多勢が、武蔵が勝つ、佐々木小次郎の方が強い、とそれぞれ、大声で叫びたてた。  七助は、にやにやしていたが、武蔵が勝つと主張した者を一人、小次郎が強いと云《い》いはる者を一人、指さしてえらび出し、自分の近く数歩の地点に立たせた。 「武蔵、小次郎、いずれが勝つか、ここでひとつ、予想いたしてごらんに入れる」  七助は、金泥《きんでい》塗りの独楽を、懐中からとり出すと、 「わしが、これを、空高く、雲雀《ひばり》のように、翔《か》けあがらせる。……落ちて来た独楽は、お手前がた、どちらかの肩に、とまる。独楽のとまった方の御仁の予想の方が、的中いたす。どうじゃな、この賭は——?」  と、云った。 「面白い!」 「やってくれ!」  すでに——。  九州一円に於いて、兵法試合の制覇《せいは》をとげた細川家兵法師範・佐々木小次郎と、室町兵法所吉岡道場一門を滅亡せしめた宮本武蔵とが、近いうちに、試合をするということは、噂《うわさ》となってひろまっていたのである。  これほど、評判を呼んだ兵法試合は、西国に於いては、いまだ曾てなかったことである。 「では、この試合を賭けた本芸を、ご披露つかまつる」  七助は、独楽にくるくると細い麻紐《あさひも》を巻きつけて、 「ついでに、所望つかまつるが、独楽が肩にとまった御仁からは、一文も頂戴《ちようだい》いたさぬ。但し、その代りに、肩にとまらなかった御仁からは、その懐中の財布を、そっくり頂戴いたしたいが、どうでござろうな?」 「よし、約束した」  佐々木小次郎の方が強いと主張したのは、いかにも裕福そうな町人であった。  七助は、ゆっくりと、大きく、独楽に円を描かせていたが、 「えい!」  懸声もろとも、びゅーん、と空へ、投げた。  人目にとまらぬまでに高く、宙に溶けていた独楽は、七助の合図によって落下して来た。  ぴたりと、その肩にとまって、なお、くるくると廻《まわ》ったのは、武蔵が勝つと主張した職人ていの若者であった。 「これで、きまった! 試合は、宮本武蔵の勝利でござる」  七助は、云った。  負けた方の町人は、気前よく、財布ごと、万寿に手渡した。 「本日は、これで、わしの独楽芸は終り申した」  七助は、見物人が散ると、渚《なぎさ》へ出て、胡座《あぐら》をかき、 「万寿、酒じゃ」  と、所望した。 「お前、この財布には、一月も遊んでくらせる金が入って居るよ」  万寿が、その金をみせた。 「佐々木小次郎が、勝つ、などと、ばかくさい予想をたてた罰じゃわい」 「お前、本当に、武蔵様が勝つ、と信じて居るのかえ?」 「お前を手ごめにした佐々木小次郎などに、勝たせてたまるか!」  七助は、吐き出した。 「お前、まだ、むかしのことにこだわって居るのかえ!」 「お前のことだけではない。彼奴《きやつ》には、わしが精魂こめて作りあげた独楽を、両断されている恨みがある」  七助が、そう云った時、背後に、人の気配がした。  夫婦がふりかえると、二十歳あまりの若者が、佇立《ちよりつ》していた。 「お主、まこと、宮本武蔵が勝つ、と確信して居るのか?」  若者は、訊《たず》ねた。 「お前様は、何者じゃ?」 「山野辺|伊織《いおり》、あらため、宮本伊織」 「ははあん、すると、武蔵殿の門弟じゃな」 「そうだ」 「武蔵殿の門弟衆と出会うたのは、幸先《さいさき》がよいわい。どうじゃな、一献——?」 「酒は、やらぬ。……それより、お主、わざと、わが師が勝つと主張した者の肩へ、独楽をとまらせたな」 「お判《わか》りでしたかな」 「独楽を投げ上げる瞬間に判った」 「わしの生命《いのち》を縮めても、武蔵殿を勝たせねばならぬのでござる」 「お主のような味方がいるとは、知らなかった」 「……ところで、武蔵殿は、何処に?」 「たぶん、いま頃《ごろ》は、小倉城下へ、ひそかに、入って居られるだろう。あそこには、新免六人衆がいるから——」  伊織は、こたえた。     三  そこへ、 「おーい!」  と、呼んで、防風林の中から、妻六が駆け出して来た。 「武蔵殿は、冷たい御仁だわい。旅籠《はたご》から、いつの間にか、姿を消してしもうたぞ」 「思案があってのことだ」 「それにしても、水くさい!」  妻六は、ぷんぷんしていた。  奇妙なことに、京洛《けいらく》であれほど武蔵と親しかった七助と妻六は、いまが初対面であった。  伊織は、二人をひきあわせた。  妻六と七助は、すぐにウマが合った。  七助は、云った。 「佐々木小次郎め、悪鬼同様の奴ゆえ、試合に臨んでは、一門を数十人、いや百人も、ひきつれて参ると思うが、お手前は、どう考えられるな?」 「あるいは、そうかも知れ申さぬの。……そうじゃ、伊織、これから小倉へ参り、国家老の長岡佐渡《ながおかさど》殿に、会見して、試合は、あくまで一騎討ちにして頂きたい、と申し入れようではないか?」 「いや、そのご懸念《けねん》はありますまい」 「なぜだな?」 「佐々木小次郎は、そのような卑劣なまねはせぬ、と存ずる」  すると、七助が、いまいましげに、 「わかるものか。わしは、佐々木小次郎という奴を知って居るが、あれは、人間ではないのじゃ。悪鬼の化身でござるよ。女子《おなご》は犯すわ、無辜《むこ》の者を、気まぐれに、辻斬《つじぎ》りするわ、なんともはや、なんと申そうか……」 「いや、いまは、いやしくも、細川家の兵法師範であり、誇りがあろう。……身共は、佐々木小次郎は、必ず、一騎討ちをいたすと存ずるの」  伊織は、確信を以《もつ》て、こたえた。  同じ日——。  編笠《あみがさ》で顔をかくして、海を渡って小倉城下に入った武蔵は、宵闇《よいやみ》にまぎれて、侍小路はずれの新免六人衆の長屋を、こっそりと、おとずれていた。  その一軒に案内を乞《こ》うと、たちまち、六人衆が、その家に集って来た。  いずれも、頭髪に霜を置いた五十すぎの年配であった。  内海孫兵衛は、武蔵の実父新免|武仁《たけひと》とは、幼馴染《おさななじみ》であった。 「父上の俤《おもかげ》を、そっくり受け継いで参ったのう」  孫兵衛は、なつかしそうに云った。  武蔵は、しかし、鄭重《ていちよう》な挨拶《あいさつ》はしたが、べつに、血族たちに親しいそぶりはみせず、 「しばらくの間の、かくれ家をおさがし下されたか?」  と、訊ねた。 「おお、さがし申したぞ。……到津《いたつ》の浜に、さきの国家老筆頭長岡佐渡守|康之《やすゆき》殿が、隠居所を建てて、すまって居られる。そここそ、恰好《かつこう》のかくれ家と存じ……」 「いや——それは、ご辞退いたす」  武蔵は、かぶりを振った。 「それがしは、試合当日までは、この小倉城下には、滞在いたしません」 「なぜかな?」 「いささか、思案がありますれば、……むしろ、海峡をへだてた下関に、かくれていたいと存じて居ります」 「ほう! 下関に? ……さて、下関をえらぶとは、どういう存念であろうか?」 「長岡|上卿《しようけい》殿は、試合の場所を、おそらく、見物人の集まらぬ処《ところ》をえらんで下さると存じます。さすれば、さしずめ、人を寄せつけぬ海峡に浮かぶ無人の島あたりと存じます。……決して、ご城主の面前などという場所は、えらばれますまい」  武蔵は、康之から、佐々木小次郎を斬ってくれ、とたのまれて、承知したのである。  したがって、この試合には、小次郎の心理をかきみだす策略を必要とする。  細川|忠利《ただとし》の面前で、幔幕《まんまく》などをめぐらした試合場では、とうてい、策略などは用いられぬ。  武蔵自身、その業前《わざまえ》に於いて、絶対に佐々木小次郎に勝つ自信などなかった。  あるいは、業前に於いては、小次郎の方に六分の力があるかも知れなかった。  小次郎という人物の性格を看《み》てとっている武蔵は、その心理をかきみだす策略を用いなければならなかった。  それには、多勢の見物人が、とりまいていては、こちらの不利であった。  長岡佐渡守康之という人物は、それくらいのことを心得ているに相違なかった。   木太刀     一 「……はたして、天下一を定《き》めるこの試合、どうなるものかのう」  春|闌《た》けて、早鞆《はやとも》の瀬戸をへだてて、九州の山波がかすむ壇ノ浦の浜辺に、伊織と肩をならべた妻六が、溜息《ためいき》まじりに、云った。  磯馴《そな》れの松が、ちらばっているだけで、あたりに漁師の家も見当らなかった。  下関の湊《みなと》は、赤間神宮を境として、西がにぎわっていた。  壇ノ浦の海は、いまもなお、平家の悲惨な滅亡を偲《しの》んで、その祟《たたり》をおそれるかのように、漁師も船を出さないようであった。 「伊織、お主の予感としては、どうじゃな?」  妻六が、訊《たず》ねた。  伊織は、しばらく、返辞をせず、じっと、渚に打ちかえす白い浪《なみ》がしらへ、視線をあてていたが、ふっと呟《つぶや》くように、 「策略が、佐々木小次郎の心を擾《みだ》すことができれば、あるいは……」  と、云った。 「策略とは——?」 「…………」 「ははあ——、伊織、お主は、武蔵殿から、策略の手だすけをたのまれたな?」 「…………」  武蔵と伊織と妻六は、連れ立って、山陽道を道中して来たが、壇ノ浦の手前の友ノ浦まで来た時、何を思ったか、武蔵は、 「下関で、お主らと別れる」  と、二人に告げたのであった。  旅籠《はたご》で一泊したが、妻六が知らぬあいだに、武蔵は、佐々木小次郎との試合にあたって、すでに考えぬいていた策略を、伊織に打明けたに相違ない。 「伊織、わしにも打明けられぬ策略か?」  妻六は、いささか不機嫌《ふきげん》になって、伊織の端整な横顔を、見まもった。 「いや、べつにかくさなければならぬ策略ではありませんが……」 「ならば、打明けてもよかろう。水くさいぞ」 「小父御《おじご》……」  伊織は、妻六を視《み》かえして、 「先生と佐々木小次郎との試合は、小父御も推測されるように、あくまで、一騎討ちに相違ありますまい。しかし、その試合場には、おそらく、佐々木道場の門弟たちが、見物を許されていることと存ずる。それも、五人や十人ではありますまい」 「ふむ。それは、考えられるの」 「もし、先生が、勝たれた場合、門弟たちが、そのまま、看過すかどうか。あるいは、師の仇を討たんと、その場で、先生に襲いかかることも考えられます」 「成程——、西国武士は、気象が荒いからの……。そうなったら、お主に、助勢をたのむ、と武蔵殿は、云われたか?」 「いや、先生は、助勢をたのむような御仁《おひと》ではありません。……先生は、佐々木小次郎に勝つための策略だけを、千思万考され、一計を心にきめられたのです。それには、この伊織を必要とする、と申されて、命じて行かれたのです」 「きかせてもらおうぞ、その一計を?」 「小父御は、知られぬ方がよい」 「何故だ! どうしてだ?」 「それは……、いまも申した通り、一騎討ちのあと、もし、佐々木道場の面々が、宮本武蔵をそのまま立退《たちの》かせることは許さぬと、総起した時には、この伊織は、師の助勢をいたそうと存ずる」 「その時には、伊賀の妻六も、闘おうではないか」 「小父御がそう云われるであろうゆえ、わが師の策略を、打明けることはできぬのです」 「なんじゃと?!」  妻六は、憤然となった。 「小父御——」  伊織は、微笑して、云った。 「いかに稀有《けう》の技芸者といえども、絶対に敵《かな》わぬものが、ひとつあります」 「なんじゃ、それは?」 「年齢《とし》です」 「…………」 「小父御は、今年、幾歳になられた?」 「……む!」  妻六は、口をとがらせた。  妻六は、すでに四十六歳になっていた。忍者というものは、年少時に、あまりに凄《すさま》じい修業をするために、壮年になってから、急速に、体力がおとろえるのであった。忍者が、最もめざましい働きができるのは、十代後半から、せいぜい二十六、七歳までの約十年間であった。  妻六自身、おのが体力の衰えを知っていた。もとより、きたえあげた忍びの技は、いまでも、常人の目をみはらせるに足りる。しかし、もはや、青年時代のけもののようなしなやかな迅《はや》い動きと耐久力はなかった。  妻六は、備前長島に於《お》ける海賊団との闘いに於いて、おのれの衰えぶりを、思い知らされ、伊織も、それを見とどけていたのである。     二 「十年前ならば、小父御にも、助勢をおたのみしました」  伊織は、ものしずかな口調で云った。  ——十年前?  妻六は、伊織の若い逞《たくま》しい姿を、瞶《みつ》めて、微《かす》かな身ぶるいをおぼえた。  人間が、抗すべからざる歳月というもののおそろしさを、妻六は、おのれと伊織を対比して、思い知らされたことだった。  十年前、伊織は、野性の粗暴な浮浪児であった。  それが、いまは、どうであろう。相貌《そうぼう》には品格をそなえ、言辞|挙措《きよそ》は思慮をふまえたものとし、二刀を使えば、鬼神にひとしい手練者《てだれ》となっている。  それにひきかえて、こちらは、ただ、武蔵の従者のかたちで、いたずらに無駄《むだ》な日々をすごして、頭髪に霜を加え、顔の皺《しわ》を増しただけである。  妻六は、ほっと深い溜息をもらした。 「十年ひとむかし、か。わしも、役立たずになり果てたか。やむを得ぬわい」  その時、伊織の眼眸《まなざし》は、二十歩ばかりむこうの渚に向けられた。  そこに、一人の尼法師が、佇《たたず》んでいた。  数珠《じゆず》を持った手を胸で組んで、海へ向って、祈っている。 「あれは……、そうだ! あのひとだ!」  伊織は、立ち上ると、ゆっくりと砂地を踏んで、尼法師に、近づいて行った。 「卒爾乍《そつじなが》ら——」  伊織に呼びかけられて、尼法師は、笠をかぶった顔を、こちらへ向けた。初老の、念仏|三昧《ざんまい》にすごしている孤独な人生の翳《かげ》を、その貌《かお》に滲《にじ》ませた比丘尼《びくに》であった。 「やはり、貴女《あなた》様でしたか。……伊織です。十年前に、奈良でお別れした——」  尼法師は、洛北一乗寺|下《さが》り松で、吉岡道場の名目人として武蔵に斬られた少年佐野又一郎の母静重であった。 「お手前様が……、あの、伊織さん!」  静重もまた、十年の歳月が変えた凛々《りり》しい青年を、信じがたい表情で、視かえした。 「おなつかしゅう存じます」  伊織は、頭を下げた。 「……これは、み仏のおみちびきでしょうか」  静重は、自分に云いきかせるように、云った。  宮本武蔵を討つことをあきらめて、土佐の佐野家へ帰った静重は、亡《な》き良人《おつと》又十郎が憤死した浦戸城の近くに、草庵《そうあん》を建てて、剃髪《ていはつ》の身となり、義父、良人、わが子の菩提《ぼだい》をとむらう日々をすごしていた。  静重には、年に一度、その草庵を出て、本州に渡るならわしが、五年前からできていた。  この下関の赤間神宮の先帝祭に詣《もう》でることであった。  いとけない身で、無慚《むざん》にも、斬り殺されたわが子を偲《しの》ぶ孤独な女人が、ふと、思いついたならわしであった。  源平壇ノ浦合戦に敗れて、海に沈んだあわれな幼帝の|みたま《ヽヽヽ》をなぐさめる祭に参ることを、悲惨な横死をとげた少年の母親が、比丘尼となって、為《な》すべき唯一《ゆいいつ》のならわしとしたのは、他人の伊織にも、うなずけた。 「立派な若衆におなりなされました。やはり、兵法者になられましたな」 「小母御《おばご》は、近く、わが師宮本武蔵が、佐々木小次郎と試合をする噂《うわさ》を、おきき及びではありますまいか?」 「いえ、なにも……」  静重は、かぶりを振った。 「わが師が敗れたならば、貴女様は、ご子息のうらみをはらされたことに相成ります」  その言葉をきいても、静重の表情は、すこしも変らなかったばかりか、 「武蔵殿は、後の世までものこるあっぱれな試合をなされましょうな」  と、云った。  一瞬、伊織は、息がつまり、言葉が出なかった。  あれほど憤怒と怨念《おんねん》を燃やして、わが子の仇を討とうと必死になっていた女人が、柳生《やぎゆう》石舟斎《せきしゆうさい》の死に遭ったのを契機にして、つけ狙《ねら》うのをあきらめたとはいえ、どうして、このように、恨みの気持が、真空のようにのこりなく心から払われたものであろう?  茫然《ぼうぜん》となっている伊織を、静重は、優しく覗《のぞ》きかえして、 「ふしぎなものですね。わたくしにとって、宮本武蔵という兵法者は、別の世界に住んでいる御仁になってしまいました」  と、云った。 「別の世界?」 「武蔵殿は、その生涯《しようがい》を——亡くなるまで、修羅《しゆら》の巷《ちまた》に生きて行く御仁でありましょう。……み仏にお祈りするあけくれのわたくしとは、無縁の道を歩んで居《お》られます。その試合に、勝たれようと、負けられようと、それは、わたくしには、なんのかかわりもない出来事なのです。……伊織さんも、武蔵殿と同じ道を、歩まれますか?」 「おそらくは、そうだろうと存じます」  静重は、その返辞をきくと、眼眸を海へ向けて、しばらく、黙っていたが、やがて、 「修羅の巷では、たとえ父子、兄弟であっても、相争うて、生き残らなければならぬのではありますまいか」  と、云った。  静重の脳裡《のうり》には、骨肉|相食《あいは》んだ平家と源氏との争闘の歴史が、掠《かす》めたのであったろう。 「…………」  伊織は、静重の言葉をきくと、すぐに、長島にあって、師弟であり乍ら敵同士となった武蔵と自分との関係を、思い出した。  そして、その折、武蔵は、云ったのである。 「佐々木小次郎に勝ったあかつきには、お前と真剣の試合をする」と。     三  武蔵は、下関|湊《みなと》の浜辺にならんだ回船問屋、小林太郎左衛門の家の離れに、泊っていた。  新免六人衆のえらんでくれたかくれ家が、そこであった。  小林太郎左衛門は、元は海賊で、関ケ原役では、毛利家の軍勢を大坂へはこび、西軍勝利のあかつきには、瀬戸内海をわがものにする海賊の頭領にする、と輝元《てるもと》から約束された人物であった。  敗残の新免衆を、ひそかに九州へ船ではこんでくれたのも、太郎左衛門であった。  すでに年齢《よわい》七十になっていたが、遠く南洋諸島まで荒海を乗りきった「倭寇《わこう》」の勇猛のおもかげを、その老貌に、とどめていた。  内海孫兵衛の添状を持参して、逗留《とうりゆう》を乞《こ》う武蔵を迎えて、太郎左衛門は、 「小倉で試合をされるのであれば、長岡佐渡様のお屋敷に、身を寄せられるものと思って居り申したが……」  と、不審を口にした。  武蔵は、無表情で、 「必ず勝つことのできる対手《あいて》ではないゆえ、いささか、思案するところがあって、ご当家に、お世話になり申す」  と、こたえた。  太郎左衛門は、うなずいて、それ以上は、何も訊《き》かなかった。  武蔵を、わが家に泊めたことも、店の者たちに口どめして、かたく秘密にした。  太郎左衛門は、武蔵の身のまわりの世話をする女中を一人、附けようとしたが、 「食膳《しよくぜん》だけおねがいいたしたい。あとは、気ままにさせて頂きとう存ずる」  と、ことわられた。 「あの面《つら》だましいは、わしがこれまで出会った無数の猛者《もさ》のうち、五指のうちに入る」  太郎左衛門は、息子の磯兵衛《いそべえ》に云ったことだった。  離れは、ひっそりとして、一日中、物音ひとつたてられなかった。  食膳をはこぶ女中は、武蔵のたのみで、縁側へ、そっと置いて、ひきさがり、半刻経《はんときた》って、下げに行くと、きれいに喰《た》べられた|それ《ヽヽ》は、ちゃんと、同じ場所に出されてあった。したがって、障子戸をたてきった室内で、武蔵がどのようにすごしているか、ついに、女中は、見ずじまいであった。  武蔵が、太郎左衛門を、その居間にたずねたのは、五日過ぎてからであった。 「おそれ入り申すが、使いふるした櫂《かい》か櫓《ろ》か、五、六本所望つかまつる」  武蔵は、たのんだ。 「なにになさる?」  太郎左衛門は、いぶかった。 「佐々木小次郎との試合に、木太刀を使いたく、それを作ろうと存ずる」 「ほう、差料《さしりよう》をどうしてお使いにならぬのじゃな?」 「佐々木小次郎の物干竿《ものほしざお》は、刀身三尺一寸二分と知って居ります。それがしの佩《お》びている長船祐定《おさふねすけさだ》は、二尺七寸、物干竿とは四寸二分の差があり申す。この差によって、それがしが敗れるおそれがあり申すゆえ、四尺の木太刀を作ろうと存じます」  それをきくと、太郎左衛門は、わが家には、三尺二、三寸の長太刀が、数本あるゆえ、どれでもえらんで下されば、とすすめた。  しかし、武蔵は、ことわった。  太郎左衛門が、店の手代に、納屋《なや》から持って来させた櫂七|梃《ちよう》のうち、武蔵は、最も重い赤樫《あかがし》のものをえらんだ。  木太刀の材料としては、枇杷《びわ》か赤樫が最良とされている。  武蔵は、その赤樫の櫂を持って、再び離れにとじこもった。  枇杷にしろ赤樫にしろ、鋸《のこぎり》で切るのも容易ではなく、素人《しろうと》では鉋《かんな》をかけるのもむつかしいほど、かたい。  武蔵は、それを、小刀で、削った。  木太刀の削りようは、秘事とされていた。柳生流の伝書にも、 「木太刀の削りよう、飯篠山城守《いいざさやましろのかみ》より伝授と云い伝えて詳《つまびらか》ならず。削る時は、吉日をえらび、右の作法を以《もつ》て長太刀を一具にして小太刀を作らず。削りよう秘事なり」  と、記されてある。  武蔵が、小刀で、赤樫の木太刀を削りあげるのを、ついに、誰も見なかった。  二日間をついやして、武蔵が削りあげた木太刀は、四尺一寸八分、重さ二貫目であった。   剣相     一  細川家国家老筆頭・長岡興長が、佐々木小次郎を、屋敷に呼んだのは、武蔵が、下関の回船問屋・小林太郎左衛門の離れで、黙々として、赤樫の木太刀を作っている頃《ころ》であった。 「お許《こと》と、宮本武蔵との試合の日時と場所が、決定した。明日、正式に、主君から、おしらせがある」  と、興長は、告げた。 「日時と場所を、いまお教え頂くわけには参らぬといわれますか?」 「殿から、じきじきに、お伝えなされる」  興長は、冷たい口調で、云《い》った。  小次郎は、この国家老筆頭から嫌悪《けんお》されていることを、すでに、察知していた。 「ご家老、もしそれがしが、武蔵を討ち果したあかつきには、千石とは申さぬが、五百石のご加増にあずかりたく存ずる」 「それは、殿のお胸の裡《うち》次第だな」 「もしご加増なき時は、ご当家を辞して、黒田家あるいは、加藤家、あるいは島津家に、随身つかまつる。おそらく、それらの家では、この佐々木小次郎に、千五百石以上下さると存じます」  小次郎は、ぬけぬけと云ってのけた。 「お主、宮本武蔵に、敗北するおそれなど、いささかも、胸中に湧《わ》かせては居らぬようだな?」 「ははは……」  小次郎は、高笑いした。 「この三年余の間、それがしは、九州一円を経巡《へめぐ》り、武蔵以上の芸者《げいしや》と立ち合って、ことごとく、一太刀で斬《き》り仆《たお》し申した」  興長は、小次郎がそううそぶくであろう、と、予想していた表情で、 「お主の所持する物干竿《ものほしざお》は、よほど斬れ味のよい名刀のようだな」 「ごらん下さいますか」 「拝見いたそう」  興長は、小次郎から、三尺一寸二分の物干竿を受けとると、懐紙を口にして、抜きはなって、直立させた。  この物干竿は、無銘であったが、鎌倉《かまくら》物で、貞宗《さだむね》作と伝えられていた。これは、物干竿と名づけた通り、元は四尺を越えていたが、小次郎は、九州へやって来てから、一尺縮めたのであった。ところで、貞宗作は、どういうわけか、ほとんど無銘であった。相模《さがみ》国住人貞宗と長銘を打ったのは、きわめてまれであり、正宗とよく似ていた。  貞宗作と伝えられるだけあって、興長が直立させた三尺一寸二分の白刃は、みごとな|つくり《ヽヽヽ》であった。  地肌《じはだ》はこまやかで、地色は蒼味《あおみ》をおびて、煮《にえ》あざやかに多かった。興長が、曾《かつ》て見ることのできた、太閤秀吉《たいこうひでよし》の差料であった正宗と、ほぼ同じ出来ばえであった。  興長は、非常に長いあいだ、じっと、凝視をつづけていたが、やがて、 「お許は、剣相というものを無視して居るのか?」  と、訊《たず》ねた。  当時、「剣相」というものは、非常に重視されていた。  刀身を、天の五宮に象《かた》どり、これが信じられていた。刀身を、部分に区切り、例えば、切先《きつさき》から、散、寿、福、運命と看《み》わけたのである。  白刃というものは、|やきかた《ヽヽヽヽ》によって、さまざまの|かたち《ヽヽヽ》が現れる。疵《きず》もできている。|かたち《ヽヽヽ》には、日輪に似たものもあれば、月に似たもの、あるいは星に似たものもあった。  小次郎は、興長を、冷やかに視《み》かえして、 「この物干竿に、凶相がある、と申されますか?」 「忌憚《きたん》なく申せば、これほどの凶相を有《も》った太刀には、はじめて接した」 「ご説明頂こう」  小次郎は、一瞬、険悪な表情になった。  興長は、おちつきはらった態度で、語気をつとめておだやかに、ひとつひとつの凶を、指摘した。 「運命」の部分の樋《ひ》に、三つの星があるが、ひとつは為《な》す事すべて不吉となって貧賤《ひんせん》に陥《おちい》り、ほかの二星は、佩びる者の災をなし、難病をわずらうおそれもある。「福」の部分の|しのぎ《ヽヽヽ》にかかって三つの疵のあるのは大凶で、想像もしない災難に遭うことを現している。さらに「寿」の部分の中央にある疵は、横死を示している。さらにまた、「寿」と「散」とにまたがっている疵は、最も甚《はなはだ》しい凶相で、絶対に討死をまぬがれぬ。  ただ、「寿」の中央——光命宮にあらわれた幾筋かの疵と幾つかの星が、異常なまでに、神力にまさる業力《ごうりき》の強さを現している。  興長は、明快に、そう説明しておいて、物干竿を、小次郎に返した。  小次郎は、その説明をきく間、眉毛《まゆげ》一本そよがせずに、無表情であった。 「ご家老に申し上げる。……お手前様が、ご指摘なされた疵も星も、すべて、この小次郎が、無数の真剣試合をいたした際に、現れたものと、確信つかまつる。つまり、これらの凶相は、それがしがあの世へ送った敵によって、つくられ申した。いわば、これらは、あまたの精霊の怨念《おんねん》がこもったものでござろう。……ところが、一箇所だけ、神力にまさる業力の吉相を示す疵と星があると申されましたな。それがしは、この吉相をたのみとして、宮本武蔵を討ち果し申す。されば、その時、その吉相もまた、武蔵の怨霊《おんりよう》によって、凶相に変じるものと存じます。……申さば、武蔵との試合のあとは、刀身ことごとく凶相を現す太刀となり申そう。その際、お手前様に、献上つかまつりますゆえ、棄《す》てるなり、折るなり、如何様《いかよう》にもなされますよう、お願いつかまつる」  昂然《こうぜん》と、そう云いはなっておいて、物干竿を鞘《さや》に納めると、小次郎は、座を立った。     二      告    兵法試合之事   一、日時 四月十三日|辰之上刻《たつのじようこく》   一、場所 豊前《ぶぜん》長門之海門 船島   一、試合人      当家兵法師範|巌流《がんりゆう》佐々木小次郎      播州《ばんしゅう》牢人《ろうにん》・新免伊賀守《しんめんいがのかみ》血族・宮本武蔵   一、当日、当家の許可なくして、船島へ渡る事かたく停止《ちようじ》。     並びに、見物の船を出す事を禁ず。   慶長十七年四月十日      細川|越中守《えつちゆうのかみ》家中            国家老|長岡佐渡守《ながおかさどのかみ》興長  右の布令《ふれ》は、小倉城下はもとよりのこと、下関にも門司《もじ》関にも、各辻《かくつじ》に、その日のうちに、高札で、人々に示された。  佐々木小次郎と宮本武蔵が、いつ、どこで試合をするか——耳目をそばだてていた海峡左右の住民たちは、いよいよその高札が建てられるや、その噂《うわさ》でもちきった。  武士も町人も職人も漁師も、いずれが勝つか、賭《かけ》をしない者の方が、すくなかった。  賭事を悪としたのは、徳川幕府が制度を確立させてからである。  当時はまだ、賭事は、幕府はもとより大名も、禁じてはいなかった。博奕《ばくち》は、城内から路傍まで、いたるところで、行なわれていた。  合戦の合間など、侍大将から足軽まで、博奕に熱中していた。  賭博《とばく》は、人間の本能のうちでも、最も激しく強いものである。  文武《もんむ》天皇の頃(西紀六九八年)すでに、博奕(双六《すごろく》)を職業とする者がいた。(双六とは、中国から、碁よりも早くもたらされた博奕で、賽《さい》を二つ竹筒に入れ、二つとも六の目が出れば勝つ、という勝負であった)  鎌倉時代には、双六盤による賭博は、|さむらい《ヽヽヽヽ》は一向にさしつかえはないが、下郎にさせてはならぬ、と『吾妻鑑《あずまかがみ》』にみえている。  時代が下って、戦国の時世になると、陣中博奕は、当然の行為となり、金銭のみならず、武具、馬具、馬まで賭けて、素裸になってしまう武士が無数にいた。足軽にいたっては、自分の妻や娘まで賭けていた。  すでに、天下は徳川家のものとなったこの慶長十七年のこの頃も、日本中、博奕にあけくれていた、といってよい。  大御所|家康《いえやす》自身、博奕を好み、慶長十二年に、朝鮮|来聘使《らいへいし》呂祐吉が、出府の途中、駿府《すんぷ》に立寄って、挨拶《あいさつ》に罷《まか》り出ると、オランダ人がもたらした歌留多《トランプ》で、銀六貫目を負けている。織田《おだ》信長も、豊臣《とよとみ》秀吉も、賭博を好んで、ひまがあると、よくしていた。  博奕をしなくなったのは、二代将軍|秀忠《ひでただ》からである。  武家屋敷でも、寺院でも神社でも、公然と博奕場がひらかれている時代であった。  ともに無敵を誇る高名の兵法者が、試合する、となれば、これに賭をせぬ者の方が、すくなかったのは、当然であった。(いわば、これは、現代の競馬ブームに似ていた)  細川・毛利の家中では、武士らしく、おのが秘蔵の太刀や具足を賭けた者がいたし、大町人たちは莫大《ばくだい》な金銀を賭けたし、漁師どもの中には、むこう一年間の漁獲高を賭ける者まであった。  人足下人の輩《やから》までの賭金を、もし総計したならば、小次郎と武蔵の試合は、十万の兵を動かすに足りるほどであったろう。その記録は、しかし、残ってはいない。  ふしぎに、賭博というものの記録は、その時かぎりで、消滅するのであった。  小次郎も武蔵も、おのれに、莫大な金銀が賭けられていることは、知らなかった。  下関の旅籠《はたご》に泊っている妻六や七助《ななすけ》夫婦が、自分たちの見わたした範囲内でも、大変な額の金銀が、この試合に、賭けられているのを見聞きして、あきれたことだった。  高札の建てられたその日の宵《よい》、旅籠にもどって来た妻六は、いまいましげに、 「某という回船問屋と某という回船問屋は、互いに、南蛮交易品のつまった土蔵を、ひと倉ずつ、賭け申したそうな。なんとも、腹立たしい限りじゃわい」  と、吐き出した。  淡路の七助夫婦の方は、町辻で、この試合を大いに利用して、儲《もう》けている模様であった。  伊織《いおり》だけは、ずうっと旅籠にこもっていて、妻六がもたらして来る世間の騒ぎを、黙ってきいていた。  その日の夕餉《ゆうげ》を摂《と》り了《お》えた時、妻六は、 「伊織——、お主は、武蔵殿のかくれ場を、知って居《お》るのであろう。わしにも、秘密にするとは、なんと、水くさい仕打ちか」  となじった。 「それは、小父御《おじご》の疑心暗鬼と申すものです。それがしは、知りません」  伊織は、こたえた。 「かくれ場所を知らずして、どうして策略の打合せができるのだ?」 「計画は、すでに、師より命じられて居ります」 「日時と場所が知らされたのは、今日じゃぞ」 「そうです」 「日時と場所にしたがって、おのずから、策略は変更されようものを……」 「…………」 「それとも、武蔵殿は、ここに到着する前に、長岡佐渡殿から、報《しら》されていたというのかな?」 「いや、知らされては居られなかったと存じます」 「それならば、策略というものは、日時と場所がさだめられてから、とられるはずだ」  妻六は、なんとも納得しがたい表情を示すと、伊織は、ふと思いついたらしく、 「小父御は、舟が漕《こ》げますか?」  と、訊《たず》ねた。 「伊賀山中の出身だからというて、莫迦《ばか》にしてもらうまい。伊勢の海で、漕ぐのも泳ぐのも、ちゃんと修練して居るわい」 「それならば、船島に、わが師を送る舟を漕ぐ役目を、ひき受けて頂きたい」 「おう! ひき受けようとも!」 「但《ただ》し、小父御の役目は、あくまで、舟を往復させるだけで、それ以外のよけいな手だすけは、かまえて、ご無用に——」  伊織は、きっぱりと念を押した。     三  佐々木小次郎は、屋敷に女を置いていた。  細川家のごく軽い身分の士《さむらい》のむすめで、出戻りであった。  良人《おつと》に山犬狩りで横死されて、実家に戻って、数年が経《た》ち、年齢もすでに二十六歳になっていたが、きわ立った美貌《びぼう》で、それに小次郎が目をとめて、 「身のまわりの世話役に——」  と、もらい受けたのである。  須絵《すえ》といった。  絖《ぬめ》のように白い肌は、褥《しとね》の中で、如何《いか》ように官能を狂わせても、終始冷たく、また、小次郎にからみつく肢体《したい》は、異常なしなやかさであった。  須絵を家に入れてから、小次郎の女あさりの悪癖は、止っていた。 「わしは、そなたをわがものにしてから、蛇《へび》に呑《の》まれた蛙《かえる》のようになった」  小次郎は、正直に、告白していた。  武蔵との高札が建てられたその日、須絵は、昼食の給仕をし乍《なが》ら、 「わたくしに、当家から、おひまを下さいますまいか!」  と、唐突に、願い出た。 「何故だ? なんの理由だ?」 「わたくしが、当家にとどまっていることは、このたびの試合に、|さわり《ヽヽヽ》になるような、不吉な予感がいたします」  須絵は、口数のすくない、いつも影のようにひそやかな立居振舞いをする女で、閨房《けいぼう》内でのみ、激しく変貌していた。 「女子《おなご》の不吉な予感になど左右されるこの小次郎ではない。莫迦なことを申すな!」  小次郎は、声を荒げて、きめつけた。  須絵は、視線を膝《ひざ》に落し乍ら、 「わたくしは、さきの良人に嫁ぐ際、なんとはなく、自分を妻にされる御仁《おひと》は、不慮の死をとげられるのではあるまいか、という不吉な予感がいたしました。そして、その通りに相成りました」 「その男はその男、わしはわし——。そなたを、家から追い出すような縁起かつぎを、この佐々木小次郎がやったとなれば、たとえ試合に勝っても、世間の目は、わしを、ひくく見ることになろう。わしは、神力にまさる業力をそなえて居る人間だ。この業力は、おそらく、百万人に一人、と申してよいだろう。……くだらぬことを、いまになって、口にするな!」  そう云い乍ら、小次郎は、いつの間にか、須絵を愛している自分を、意識した。  女性を愛す。  未《いま》だ曾《かつ》て、そんな気持になったことのない小次郎であった。われ乍ら、不意に湧《わ》いたこの意識に、微《かす》かなおどろきをおぼえた。  須絵は、顔をあげた。 「貴方《あなた》様は、わたくしのからだに、夢中になっておいででございます」  夜だけではなく、昼間でも、不意に、衝動的に、小次郎は、須絵を抱いていた。その冷たいしなやかなからだを抱かぬ日は、一日もなかったのである。 「それがどうした?」 「貴方様は、わたくしをお抱きになるたびに、稀有《けう》の兵法者としての精気を、すこしずつ、減らされているように思われてなりませぬ」 「莫迦なっ!」  小次郎は、呶鳴《どな》った。 「そなたを抱いたからというて、おのが精気を吸いとられるようなこの巌流か! ……須絵! そなたは、わしを嫌悪《けんお》するようになったな?」 「滅相もない! 貴方様のことを深く想《おも》えばこそ、わたくしは、いまの幸せから身を引こうと考えたのでございます」 「わしは、武蔵に勝つ! 絶対に勝つ!」  小次郎は、須絵を凝視しつつ、毅然《きぜん》として、云った。  その容姿には、曾ての野獣にも似た凶暴なけはいは、全くなく、正しい兵法の道を歩む者の清爽《せいそう》な気色があらわれていた。 「武蔵に勝ったならば、わしは、そなたを、正式に、妻とする!」   その行方     一  長岡|佐渡守《さどのかみ》興長は、おのが屋敷で、夕餉を摂る気にもならぬ焦躁《しようそう》の|てい《ヽヽ》で、新免六人衆が、下関から帰って来るのを待っていた。  今日は、四月十二日であった。  佐々木小次郎と宮本武蔵との試合が、明朝に迫っていた。  ところが——。  武蔵が、行方知れずになったのである。  長岡興長は、新免六人衆から、武蔵がたしかに小倉城下に現れた、という報告を受けていた。  その報告を受けた時、興長は、当然、武蔵が新免六人衆の長屋に、ひそかに逗留《とうりゆう》するものとばかり思ったのであった。  試合の高札を建ててから、念のため、興長は、六人衆の頭領である内海孫兵衛を呼び、 「武蔵は、いかがすごして居るのか?」  と、訊ねた。  すると、孫兵衛は、 「さあ? どのようにしてすごして居りまするや、それがしどもも、一向に——」  と、こたえたのである。  興長は、おどろいて、武蔵はお主たちの長屋に逗留して居るのではないのか、と訊ねた。 「武蔵は、下関にかくれて居りまする」 「下関に?!」  興長は、そのかくれ家をなかなか告げようとせぬ孫兵衛を、無理に責めて、回船問屋小林太郎左衛門宅の離れ、と打明けさせると、武蔵|宛《あて》の書状をしたためた。  小倉城には、去年隠居した忠興《ただおき》様が、わざわざお入りになり、佐々木小次郎を召されて、細川家の兵法師範の面目にかけても、必ず試合に勝つように、と激励されたばかりか、ご自身の船を貸与なされ、それで、船島へ渡るように、とお命じなされた。御辺《ごへん》が下関に在るときいたので、この長岡佐渡の持船をまわすゆえ、その船で、定めの刻限までに船島へ到着するように——。  そういう内容であった。  内海孫兵衛は、その手紙を持参して、海峡を渡って行ったが、帰って来るや、不審の態度をかくさずに、 「武蔵は、試合の場所と日時を知るや、そのまま、小林宅の離れから、姿を消して居りまする」  と、報告した。 「なんぞ、思案があってのことであろう」  その場は、興長は、べつに、あわてはしなかった。  しかし、いよいよ、試合が明朝に迫った今日ともなると、全く音沙汰《おとさた》のない武蔵に対して、  ——何故に、小林太郎左衛門の宅からも、姿を消さなければならなかったのか!  しだいに、不安感におそわれて来た。  宮本武蔵ともあろう兵法者が、よもや、試合を放棄してしまう、とは考えられなかった。  武蔵は、佐々木小次郎の物干竿《ものほしざお》が、九州一円を兵法|制覇《せいは》した——その幾試合かの模様を、くわしく耳にしたに相違あるまいが、そのために臆病風《おくびようかぜ》に吹かれる兵法者ではない、と確信できる。  ——武蔵は、絶対に逃げたりなどはせぬ!  今朝、いくども自分に云《い》いきかせているところへ、内海孫兵衛以下新免六人衆が、うちそろって、引見を乞《こ》い、 「これより、下関へ参り、武蔵が何処へかくれて居るか、さがしてつきとめまする。そして、ご家老様のお持船にて、船島へ渡るように、とりはからいたく存じまする」  と、申し出たのであった。 「ご苦労だが、たのむ」  興長は、許した。  この日一日は、興長にとって、苛立《いらだ》たしく、長かった。  黄昏《たそがれ》が来ても、新免六人衆は、帰って来なかった。  戌刻《いぬのこく》(午後八時)になって、興長も、ようやく、夕餉の膳部《ぜんぶ》を、はこんで来るように命じた。  箸《はし》を把《と》った時、あわただしく、用人が入って来て、 「新免衆が帰参つかまつりました」  と、告げた。 「そうか!」  興長は、急いで、表玄関へ出て行った。  そこへ平伏した六人の姿を、一瞥《いちべつ》した瞬間、興長は、  ——さがしあてられなかったな!  と、直感した。  しかし、自分の方からは、それを口にしなかった。  内海孫兵衛が、顔をあげた。仄《ほの》ぐらい灯《ひ》の中でも、その表情の沈痛の度の深さが、看《み》てとれた。 「武蔵は、もはや、下関には、居りませぬ」  手わけして、一日中、必死に、さがしまわった挙句、そうきめざるを得なかったのである。 「武蔵は逃げた、と申すか?」  思わず、興長は、高声を発した。 「いえ、決して、そのような卑怯者《ひきようもの》ではございませぬが……」  孫兵衛は、つよくかぶりを振った。     二 「ははは……」  不意に、興長は、笑い声をたてた。  怪訝《けげん》な視線を向ける六人に対して、興長は、 「武蔵は、すでに、当城下へ参って居るのだ。そうにちがいない。どうだ、お主たちも、そう思わぬか?」  と、云った。  新免六人衆は、そう云われて、ひとしく、  ——そうだったのか!  と、安堵《あんど》の喜色を、顔へ滲《にじ》ませた。 「それでは、われわれは、これより、当城下の彼処《かしこ》此処《ここ》をあたってみることにいたしまする」 「そうしてくれい」  興長は、奥へもどって、再び膳部に就き乍ら、  ——そうなのだ。武蔵は、いつの間にか、こっそり、当城下へ渡って来て居るのだ。  と、自分に云いきかせた。  子刻《ねのこく》(午前零時)——。  新免六人衆は、再び、長岡邸の表玄関へ、竝《なら》んで平伏した。  武蔵の姿は、小倉城下にも、見当らなかったのである。  旅籠《はたご》はもとより、神社寺院、その他、兵法者が身を寄せそうなところは、すべて、調べてみたが、武蔵らしい人物を見かけた者さえもいなかった。 「お主ら、武蔵は、逃げ出した、と思うか?」  興長は、行方をくらました武蔵に対して、かなり腹が立って来た。  六人は、顔を伏せたまま、こたえなかった。逃げたとは思いたくなかった。しかし、捜索が、必死であっただけに、武蔵がどこにもかくれていないことが判然としている以上、 「断じて逃げたりなどいたしませぬ!」  とは、こたえられなかった。 「よい、もうよい。明朝の刻限までに、船島へ現れねば、責任は、この佐渡がとる」  興長は、云った。  責任を取る、とは、切腹を意味しているようであった。 「いま一度、さがしまする」  内海孫兵衛が、云った。 「すてておけ!」  興長は、呶鳴《どな》った。  新免六人衆を去らせて、寐室に入った興長は、牀《とこ》に就こうとして、ふと、思いつき、用人を呼び、 「到津《いたつ》の浜へ、行って参れ」  と、命じた。  もしや、父|康之《やすゆき》の隠居所に、武蔵がいるのではあるまいか、と考えたのである。  しかし、その使いも徒労であった。  興長は、丑刻《うしのこく》(午前二時)をまわってから、やむなく、牀に就いた。しかし、目が冴《さ》えて、ねむれそうもなかった。  これは、ただの試合ではなかった。  佐々木小次郎をこの世から消すべく、当主|忠利《ただとし》とこの興長が相談し、そして、父康之が、宮本武蔵をえらんだ試合であった。  そして——。  この試合の儀は、諸方に評判となり、明朝は、試合場である船島のとなりにある彦島《ひこしま》には、毛利家からも、肥前の鍋島《なべしま》家からも、肥後の加藤家からも、播磨《はりま》の池田家からも、検分役が来る、という通報が正式にあったのである。  正式の通報がなくても、安芸《あき》から、讃岐《さぬき》から伊予から、豊後《ぶんご》から、薩摩《さつま》から、ぞくぞくと彦島へやって来るに相違なかった。  彦島から、船島の試合の|さま《ヽヽ》は見えぬとしても、その結果をすぐに知るべく、人々が蝟集《いしゆう》することはまちがいなかった。  いや、すでにもう、彦島には、幾十人かの見物衆が渡って、夜あかししているのは、確実であった。夜明けから試合刻限までは、許可なくして、海峡へ船を出すことを禁じてあるからであった。  ——もし、武蔵が、現れなかったとすれば?  興長としては、切腹するよりほかはなかった。  佐々木小次郎は、細川家の兵法師範であるから、牢人者《ろうにんもの》である宮本武蔵が、おそれをなして逃亡した、としても、べつに、表面上、国家老筆頭たる身が、責任をとる必要はないわけであった。しかし、他人は知らず、興長自身、この試合は、大きな賭《かけ》であった。武蔵が現れて、小次郎に敗れたのであれば、武蔵よりも強い兵法者をさがし出して、次の試合を行えばよい。試合を放棄して、武蔵に逃げられたのであれば、武蔵をえらんだ父康之の不明であり、その責任は、子であるこの興長がとらねばならぬ。  興長は、覚悟せざるを得なかった。     三  ——この切腹は、犬死にひとしい。  胸の裡《うち》で、呟《つぶや》いた——その折であった。  しのびやかな跫音《あしおと》が、近づいて来た。 「もう、おやすみでございましょうか?」  用人の声であった。 「ねむっては居らぬぞ」 「宮本武蔵殿より、返書が、とどけられましてございます」 「なにっ?!」  興長は、はね起きた。 「ここへ——」 「はい」  興長は、用人がさし出した手紙を、いそいで披《ひら》いた。 [#この行1字下げ]明朝試合之儀につき、私、其許様《そこもとさま》御船にて、船島へ遣される可《べ》き由《よし》、仰《おお》せつけられ、重畳おん心遣いの段|忝《かたじけ》なく存じ奉《たてまつ》り| 候《そうろう》。然《しか》れども今回、小次郎と私とは敵対の者にて御座候。然るに小次郎は、忠興様御船にて遣され、私は其許様御船にて遣され候ては、其許様が御主人に対し如何《いかが》かと存じ奉り候。この儀にはおかまい成されまじく存じ奉り候。この段お直《じき》に申し上ぐ可くと存じ候得共、ご承引なさるまじく候に付、わざと申しあげず、爰許《ここもと》へ参り居《お》り申し候。御船の儀は、幾重にもおことわり申し候。明朝は、爰許の船にて船島へ渡り候事少しもさしつかえこれなく御座候。能《よ》き時分に参り申す可く候。左様に思《おぼ》し召される可く候。以上。 [#地付き]宮本武蔵     佐渡守様  ——武蔵は、逃げては居らなんだ!  興長は、声を発して、叫びたい衝動にかられた。  こちらの手紙は、内海孫兵衛に持参させて、小林太郎左衛門宅へ、置いて来てあったのである。  返書が来たのは、いったん、何処かへ姿を消した武蔵が、再び、小林宅へ戻って来て、こちらの手紙を読んだ証拠であった。  ——どこかの山中にこもって、心気を冴えさせて来たものであろう。  興長は、用人に、 「新免衆は、まだ、城下をさがしまわって居るに相違ない。皆の者をはしらせて、武蔵の返書が来た、と報《しら》せよ。武蔵は、小林宅へ戻って参った、とな」  と命じた。  この夜——。  下関の小林太郎左衛門宅の離れには、武蔵ではなく、伊織《いおり》と妻六が、枕《まくら》をならべて、やすんでいた。  妻六は、寅刻《とらのこく》(午前四時)が近づいても、|びり《ヽヽ》とも睡魔におそわれるけはいをおぼえなかった。  ——どうなるというのだ? 武蔵殿の代りに、わしら二人が、ここに泊って、さて、どういう計略を為《な》そうというのだ?  伊織は、打明けてくれようともせず、睡《ねむ》っているらしい。  ——このままでは、ねむれんわい!  妻六は、 「おい! 伊織! 目をさましてくれい。もうすぐ夜が明けるぞ」  と、呼びおこした。 「まだ一刻《いつとき》あまりある」  返辞は、すぐになされた。 「よいではないか。起きて、仕度をしていれば、夜が明けようわい。いや、夜が明けぬうちに、彦島へ渡ろうではないか」 「小父御《おじご》は、どうして、そのように、あわてるのだ?」 「これが、あわてずに居られるか! ……いったい、武蔵殿は、どこにかくれておいでなのだ?」 「…………」 「試合は、今朝だぞ。もう、はっきりと、計略を教えてくれてもよいではないか」 「…………」 「伊織! まだ、黙って居るつもりか!」  妻六は、むかむかした。 「小父御、あと一刻、ねむらせて頂きたい」 「いいや、お主は、もう充分、睡ったぞ。それにひきかえ、わしは、一睡もして居らぬわい」 「それは、小父御の勝手と申すもの」 「勝手じゃと!」  妻六は、身を起すと、 「わしを一睡もさせぬのは、武蔵殿とお主ではないか!」  と、声をあらげた。 「ここで、小父御と喧嘩《けんか》をしても、はじまらぬ」 「あたりまえじゃ。喧嘩などしようとは思わぬ。しかし——しかし、じゃ。お主という奴《やつ》、なんとまあ、水くさい男か! 試合当日の朝を迎えようとしているいまになっても、何も、わしに教えようとはせぬ。くそ!」 「小父御には、船を漕《こ》いで下され、とたのんで居ります」 「それは、きいた。承知した。……だから、つまり、武蔵殿の計略の方を——」 「…………」  伊織は、しかし、妻六が、いくら、執拗《しつよう》に求めても、話そうとはしなかった。  いたずらに、妻六が苛立《いらだ》つうちに、四月十三日の朝が、しずかに明けて来た。   試合を待つ人々     一  船島。  佐々木小次郎と宮本武蔵との試合場に、長岡康之《ながおかやすゆき》が佐渡守《さどのかみ》興長にえらばせたこの島は、関門海峡の中でも、最も小さな、五千坪あまりの、船の形をした小島であった。(大正年間に至って、埋めたてられ、二万六千坪の広さになり、現在は、三菱《みつびし》造船はじめ各工場が建ち並び、そのむかしのおもかげは、全くない)  五千坪あまりの、丘陵ともいえぬほどひくい台地は、大松小松、竹藪《たけやぶ》で、鬱葱《うつそう》と掩《おお》われ、さらに台地の麓《ふもと》は灌木《かんぼく》と歯朶《しだ》類が密生している小島で、わずかに西端に——すなわち、海峡で最も大きい島である彦島に対する側に、わずかな砂浜がひらけていた。  漁師さえも、船を着けたことのない、見すてられた小島であった。  ひとつの伝説があった。壇ノ浦で、平家一門が、海の藻屑《もくず》となった際、三人あまりの武者が、潮流に流されて、この船島に漂着し、割腹自決をとげた。以来、海上を往来する漁師たちは、その砂浜に、血まみれの平家武者三人の幽霊が、現れては消え、消えては現れるのを、見かけたという。  その伝説が、人々を、船島に近づかせなかった。  長岡佐渡守興長としては、まさに、後世に名をのこす大試合としては、恰好《かつこう》の場所をえらんだといえる。  この小島に向い合う彦島は、平家の水軍大将であった|平 《たいらの》知盛《とももり》が、根拠地としただけあって、非常に広く、また、本土とは、浅瀬で徒歩《かち》渡りもできるくらいであった。(幕末には、英国が、この彦島を、九十九年間租借したいと、毛利家へ申し入れて、断られている。英国が、もし、彦島を手に入れたならば、香港《ホンコン》のような街をつくったかも知れぬ。現在は、本土と地つづきになっていて、弟子待《でしまつ》町となっている。その浜辺に、佐々木小次郎の道場の門弟たちが、蝟集《いしゆう》して、師の勝負の結果を待ったために、そう称《よ》ばれるようになったものであろう。船島が、試合後、小次郎の流名をとって、巌流《がんりゆう》島と称ばれるようになったように——)  慶長十七年四月十三日早朝——。  まず最初に、船島に渡ったのは、身分上下の家臣十余人と、足軽を五十余人、ひきつれた長岡興長であった。 「検分の場所を設けよ」  と、命じて、台地麓の灌木、歯朶類を伐《き》り払わせ、細川家の幔幕《まんまく》を、張らせた。  佐々木小次郎が、忠興の持船で到着したのは、試合時刻|辰 《たつの》|上 刻《じようこく》より半刻《はんとき》前(午前七時)であった。  小次郎は、べつに、あらかじめ、この試合場を、見さだめに渡って来てはいなかった。はじめて、砂浜に上ったのである。  興長に、かるく一礼すると、渚《なぎさ》に床几《しようぎ》を据《す》えて、どっかと腰をかけた。  その|いでたち《ヽヽヽヽ》は、大層はなやかであった。  染革の裁着《たつつけ》をはき、猩々緋《しょうじょうひ》の袖無《そでなし》羽織をつけ、背負うた物干竿《ものほしざお》をおろして、膝《ひざ》の間に立て、双掌《もろて》を重ねて、柄《つか》さきに置いた。  この日は、蒼空《あおぞら》に、雲影ひとつ見当らず、風もなく、海は凪《な》いで、いかにも初夏らしい爽《さわ》やかさであった。  小次郎の、肩に散らした根来塗《ねごろぬり》の朱漆《しゆうるし》のような総髪が、朝陽《あさひ》をあびて、光った。  海原へ向けた眼光は、鋭く冴《さ》えて、まばたきもせぬ。  小次郎の視線は、小倉方面へ向けられていたが、興長の視線は、逆の下関方面へ向けられていた。  小林太郎左衛門の店は、阿弥陀寺《あみだじ》町にあった。武蔵は、そこから、船を仕立てて、渡って来るもの、と思っていた。(ちなみに、当時は、赤間神宮は、俗間での名称で、阿弥陀寺の境内に、社があり、人々は、それを|あんとく《ヽヽヽヽ》様と呼んでいたのである。明治になってから、正式に、赤間神宮とつけられたのであった)  ……船島には、そのまま、重い深い沈黙が占めた。  海上には、一|艘《そう》の船影もなかった。  彦島の砂浜には、九州、四国、山陽各大名から遣わされた家臣や、新免六人衆や、佐々木小次郎の門弟や、その他、多勢が、  ——勝敗|如何《いか》に?  と、待機していた。  小倉側でも下関側でも、おそらく大半の人が、仕事が手につかずにいるに相違なかった。  この試合には、それぞれ、分に応じた賭《かけ》がなされているのであった。自分が賭けた方が勝てば、対手《あいて》の秘蔵の太刀をせしめる者もいるだろうし、漁師の中には、むこう一年間の漁獲高を提供せざるを得ない者も出るに相違なかった。  やがて——。  陣太鼓が、興長の後方で、ひとつ、打ち鳴らされた。  刻限の辰上刻であった。     二 「伊織っ! どうするのだ? どうしようというのだ、いったいこれは?」  狂ったように、焦躁感《しようそうかん》をむき出した喚《わめ》き声が、小林太郎左衛門宅の離れで、発しられていた。  辰上刻を、すでに迎えたのである。  にもかかわらず、伊織は、悠々《ゆうゆう》として、朝餉《あさげ》の膳部《ぜんぶ》に向っている。  小倉からは、長岡興長の飛脚が、早舟で、一刻前に来ていた。 「佐々木小次郎殿は、小倉をすでに発《た》たれましたゆえ、早々に、武蔵殿にはお出向き願いまする」  武蔵がここにいるものと思いきめた口上であった。  伊織は、太郎左衛門にたのんで、 「程なく参上つかまつりますゆえ、ご懸念《けねん》なく——」  と、返辞をさせていた。  しかし、武蔵は、ここには、いないのであった。  伊織は、妻六がどんなに苛立ち、怒ろうとも、平然としていた。 「では、そろそろ、参りましょうか」  伊織が、腰を上げたのは、辰刻を四半刻もまわってからであった。  浜辺には、太郎左衛門によって、船が用意されていた。 「わざと、約束の刻限をおくらせるのは、武蔵殿が、敵をじらせる兵法のひとつであろうが、あまりにおくれすぎるではないか。いまから、船を漕げば、一刻以上もかかるぞ」  妻六は、漁師から、この海峡の流れの激しさをきいていた。干満によって、一日に四回も変る、という。  干潮になると東流になり、満潮になると西流に変る。  いまから、船を出せば、流れにさからうことになるのであった。  しかも——。  浜辺に出ても、なお、何処にも、武蔵の姿はないのであった。  伊織は、微笑して、 「小父御は、漕ぐのは自信がある、といわれた。さあ、漕いで下され」  と云《い》って、さっさと、舳先《みよし》へ腰を下した。 「おい! お主は、わしに、武蔵殿を送れ、と申したではないか?」 「先生の代理として、この伊織を送って下さることです」 「なんじゃと?」  妻六は、唖然《あぜん》となって、 「お主が、師に代って、佐々木小次郎と試合をする、というのか?」 「いや、それがしは、見物するだけです」 「………?」  妻六は、おちつきはらった伊織を、凝視していたが、 「ふむ、わかった! これが、計略であったか」  にやりとした。 「ことわっておきますが、それがしは、いかに強敵との試合に於《お》いても、策を用いて、対手の心気を擾《みだ》すのは、好むところではありません」  伊織は、云った。 「お主なら、約束の刻限通りに行って、堂々と尋常の勝負をするというのだな」 「佐々木小次郎は、いかなる計略も用いず、兵法者の面目をかけて、試合に臨んで居るはずです。ならば、こちらも、それに応《こた》えて、時刻をおくらせたり、不意の出現をしたりすることは、卑劣とはいわぬまでも、後世にのこす試合としては、たとえ、勝っても、|しこり《ヽヽヽ》がのこります」  伊織は、堂々と云った。  ——立派な若者になったものよ!  妻六は、逆流する潮にさからって、櫓《ろ》のあやつりに力をこめていたが、船はなかなか進まなかった。     三  彦島の浜辺に蝟集した見物衆の中に、淡路の七助《ななすけ》夫婦もいたが、もう一人、武蔵となじみの者が一人いた。  若い雲水であった。  |まんじゅう《ヽヽヽヽヽ》笠《がさ》の下の顔には、しかし、青年らしい若い色はなかった。  かろうじてここまで辿《たど》りついたらしい疲労を、杖《つえ》でささえていた。  十年前——。  宇治の槇島城趾《まきしまじようし》にある「昌山庵《しようざんあん》」で、沢庵《たくあん》とともにくらしていた城之助であった。  少年時、不幸にも萎病《なえびよう》(小児|麻痺《まひ》)に罹《かか》り、ついに治ることなく、城之助は、剃髪《ていはつ》したのであった。  沢庵が、「昌山庵」を閉じるにあたって、城之助は、願って、頭をまるめ、雲水となったのである。  十年のあいだ、城之助は——いまは、慈念となっていたが、杖にすがって、日本全土を、流浪《るろう》して、生き抜いていた。  偶然であった。  下関の阿弥陀寺の先帝祭に、詣《もう》でて、この試合のことをきいたのであった。 「お前、もし、武蔵様が敗れたら、どうするぞや?」  かたわらで、おそろしく肥満した女子が、亭主に問うているのを、慈念は、耳にして、視線を向けた。 「莫迦《ばか》! いまになって、不吉なことを云うな!」  呶鳴《どな》りかえしたのは、淡路の七助であった。 「もし万が一、ということもなくはあるまいがな」 「ないっ! 宮本武蔵が敗れるなどということは、万に一もあるものか! ……これだから、女子という奴《やつ》は、ちぇっ、たとえ女房でも、しめ殺したくなるわい!」  慈念は、夫婦のやりとりをきいていたが、ふと、口をさしはさむ気になった。 「決闘のむなしさを知らぬ宮本武蔵殿は、敗北することは、よもやあるまい、と存じます」 「なに! なんと申されたな、雲水殿?」 「武蔵殿は、決闘のむなしさを、いまだ、さとっては居《お》られぬようです」  不意に——。  船島の渚で、床几に腰かけたまま、一刻半(三時間)、微動もしなかった小次郎が、さっと立って、長岡興長に向きなおった。 「御家老! 武蔵は、逃亡いたした、と存ずる!」  すでに、巳刻《みのこく》(午前十時)であった。二時間が過ぎてしまっていた。 「いや、決して!」  興長は、かぶりを振った。 「武蔵は、必ず参る」 「しかし、かくも遅参するとは、当方をじらせる小ずるい手段としても、あまりにも、無礼きわまる! 細川家をないがしろにしたものと、受けとられてもよろしかろう。……辰上刻と指定したのは、この佐々木小次郎が申し入れたのではなく、御家老がおきめになった時刻でござるぞ。御家老ご自身が、武蔵に愚弄《ぐろう》された、と申せますぞ。……それがしは、武蔵は、絶対に現れぬ、と思い申す。逃亡いたしたに相違ござらぬ!」 「武蔵は、必ず参る!」  興長は、確信をもって、明言した。  小次郎は、にわかに憎悪《ぞうお》の表情になって、興長の顔へ、眼光を射込んだ。 「御家老、よもや、お手前様は、武蔵にわざと刻限よりおくれるようにと、とりはからわれたのではありますまいな? それとも、武蔵から、ひそかに通報があって、おくれることを、すでに承知して居られるのではないか——?」 「左様な事実はない。おくれたのは、武蔵の勝手。兵法の一手であろう」  興長は、こたえた。 「おお! 来た! 武蔵の舟だぞっ!」  海峡いちめん、全く船影を絶っているのであった。  潮流にさからい、浪《なみ》にもてあそばれるように出現した小舟を発見しようとして、数千の目が光っていたのである。  最初にそれを発見したのは、彦島の浜辺に着けた数十艘のひとつの艫《とも》で、遠眼鏡を片目にあてていた佐々木小次郎の門弟の一人であった。  佐々木一門は、一斉《いつせい》に、いろめきたった。  待ちに待たされて、ようやく、武蔵の舟が出現したのである。  あまりに長く待たされたために、かれらは、武蔵に対して、強い憎悪を沸かせていた。 「おいっ! 武蔵の舟を包囲して、思いきり、遅参をなじってくれようか」  一人が呶鳴ると、一同は、わっと、喚声をあげて、舟へとび乗ろうとした。  とたん、 「待て!」  肺腑《はいふ》に、じいんとしみ渡るような一喝《いつかつ》をあびせた者があった。  躯幹《くかん》壮大——六尺二、三寸はあろう大兵の牢人者《ろうにんもの》であった。  顔は、頭巾《ずきん》で目ばかりに包んでいた。長槍《ながやり》を立てていた。 「お主がたが、宮本武蔵の舟の進むのを、邪魔するのは、止《や》めにせい」 「なんだ、貴公は——?」 「誰でもよい。ともあれ、お主がたは、ここで、おとなしゅう見物して居ることだ」 「邪魔すると、お主を血祭にあげるぞ!」  いきり立った一人が、喚いた。  その時、黒田家から遣されて来た家臣が、つかつかと、その前に寄った。 「後藤|又兵衛基次《またべえもとつぐ》殿!」  その名を、云いあてた。  九年前、黒田長政との確執から、筑前《ちくぜん》から退去した天下にとどろく武辺者が、いつの間にか、九州に還《かえ》って来ていたのである。  噂《うわさ》では、後藤基次は、豊臣《とよとみ》家の招聘《しようへい》に応じて大坂城に入ったということであったが……。  この牢人者を後藤基次と看《み》てとった黒田家の家臣は、武辺中の武辺を尊敬していた。  佐々木道場の門弟たちは、後藤又兵衛基次ときくと、ぎくっと身をすくませた。  基次が、九州に舞い戻って来たのは、徳川|家康《いえやす》の大坂城攻撃がまぬがれがたいと知って、九州一円にちらばる名ある牢人者を、説いて、大坂城の軍勢に加える目的だったのである。  曾《かつ》て——。  基次は、細川家大坂屋敷で、武蔵と立ち合って引分けていた。その縁もあって、武蔵の試合の結果を知っておくために、彦島に渡っていたのである。  武蔵が佐々木小次郎に勝ったならば、基次は、武蔵を説いて、大坂城の戦列に加えるつもりかも知れなかった。   小次郎敗れたり     一  ——来たか、武蔵!  佐々木小次郎は、潮流にさからい乍《なが》ら、ゆっくりと近づいて来る小舟を、見まもって、口辺に薄く笑みを刷《は》いた。一刻《いつとき》以上も待たされた苛立《いらだ》ちと憤《いきどお》りをふり払うために——心気を、常の状態にとりもどすために、小次郎は、まず、こちらをわざと待たせた武蔵の見えすいたやりかたを、冷笑したのである。  後方の幔幕《まんまく》の前に居並んだ検分役の長岡興長以下、随従の家臣、足軽一同は、ひそとして、木像か石仏のように、沈黙を守ったなりであった。あらかじめ、興長から、いかなる場合も、平静を保ち、絶対にさわいでは相成らぬ、とかたくいましめられていたに相違ない。  小次郎は、口辺に冷笑を湛《たた》えつつ、  ——この巌流《がんりゆう》佐々木小次郎は、吉岡《よしおか》清十郎や伝七郎とは、ちがうぞ。  と武蔵に対して、というよりも、おのれ自身に対して、云いきかせた。  近づいて来る小舟の舳先《みよし》には、編笠をかぶった姿があった。潮の流れにさからって、乗りきって来るため、ひどくしぶきをあびるので、漁師がつける鯨皮の筒袖《つつそで》らしいものを、はおって、うずくまっていた。  小次郎の双眸《そうぼう》は、ふと、その背中をまるめ、編笠を傾けて、顔をかくした姿が、なにやら、惨《みじ》めなものに映った。  ——おれに斬《き》られるために、武蔵はやって来た!  そんな気がした。  小次郎は、その小舟を沖に発見してから、再び床几《しようぎ》に腰をおろしていた。  小舟は、小次郎に向ってまっすぐには、進んで来なかった。  船島|唯一《ゆいいつ》の砂地のあるこの浜辺は、遠浅であった。  小次郎が床几を据《す》えた渚《なぎさ》にまっすぐに進んで来れば、かなりの距離を置いて、舟底が岩へ突き当るか、砂を噛《か》むことは、事実だった。  漕《こ》ぎ手は、それを知っているかのように、舳先を転じて、東へ向けた。 「水に濡《ぬ》れるのを厭《いと》うのか、武蔵ほどの者が——」  小次郎は、冷笑した。  小次郎自身、いま床几を据えている渚へ、まっすぐ船を寄せて来て、途中から水中へ降りると、膝《ひざ》までつかり乍ら、ざぶざぶと波をはねて、砂地へあがって来たのであった。  長岡興長の検分の場所が、そこに設けられていたからである。  検分の場所の前が、当然試合場となるのであった。  小次郎、そして細川家の人々が見まもる中で、小舟は、潮に流されるように、島の先端へ着いた。  そこは、波打際《なみうちぎわ》まで、嫩松《わかまつ》や灌木《かんぼく》や歯朶《しだ》類が密生していた。  小次郎は、舳先から渚へ降り立った対手《あいて》が、編笠もとらず、嫩松の枝を押しのけたり、灌木を踏みしだき乍ら、こちらへ歩いて来るのを眺《なが》めやった。  砂浜といっても、岩が砕けたような尖《とが》った石塊《いしくれ》がいちめんにちらばって居り、きわめて足場は悪かった。  距離が、二十歩あまりに縮まった時、小次郎は、床几から立ち、それを波へ蹴倒《けたお》しておいて、物干竿《ものほしざお》を抜きはなつや、その鞘《さや》もまた、投げ棄《す》てた。 「武蔵っ!」  編笠に顔が、かくれて、頤《おとがい》だけしか見えぬ対手に向って、小次郎は、叫んだ。 「わざと約束の刻限をおくらせて、敵の心気を擾《みだ》そうとする小ざかしい策は、余人は知らず、この佐々木小次郎には、通用せぬぞ!」 「…………」 「武蔵! おくれた理由が、他にあるとでも申すか。……これは、双方勝手な野試合ではないぞ。いやしくも、細川侯のおん名に於《お》いて行われる試合ぞ。笠をかぶったままの非礼、許せぬ。もはや、尋常の試合ではない。細川家兵法師範・巌流佐々木小次郎が、牢人宮本武蔵を無礼討ちにいたす、受けとれい!」  そう云《い》いはなった時、対手は、ものしずかに、頤でむすんだ紐《ひも》を解き、編笠を頭から、はずした。 「お!」  小次郎は、現れた顔が、武蔵ではなく、まだ二十歳あまりの凛々《りり》しい、気品のある別人のものであるのをみとめて、かっと、双眼をひき剥《む》いた。  流石《さすが》の小次郎も、この瞬間、脳天へ血汐《ちしお》が渦巻《うずま》き立つほどの激怒にかられた。 「おのれ、替玉かっ!」  呶号《どごう》した刹那《せつな》——それを待っていたように、背後から、声がかかった。 「宮本武蔵は、ここに罷《まか》り居り申す」 「な、なにっ?!」  ぱっと向きなおった小次郎と、十数歩へだてた砂地上に忽然《こつぜん》と、武蔵の姿があった。  旅塵《りよじん》によごれて模様も消えた小袖をつけ、革袴《かわばかま》をはき、渋柿《しぶがき》色染めの手拭《てぬぐ》いで総髪に鉢巻《はちまき》をし、そして、右手に、櫂《かい》を削った四尺一寸八分の木太刀を携《さ》げて——。     二 「うぬ、計ったな!」  小次郎は、叫んだ。  武蔵は、無表情で、こたえた。 「それがしは、昨夜おそく、この船島に渡り着き、あの小丘の松林の中で、睡《ねむ》って居り申した。……その編笠をかぶった若者を、この武蔵と信じ込んだのは、お手前自身の不覚。その不覚を、計られたとするのは、お手前の勝手でござろう」  流石の小次郎も、武蔵が昨夜のうちに、この船島に到着していたとは、夢想だにしなかったことである。  ——おちつけ、巌流!  小次郎は、おのれを叱咤《しつた》した。  しかし、その叱咤は、もはや手おくれであった。  見事に、武蔵の策略に乗せられたのである。  激怒の情を、瞬時にしてしずめるのは、不可能であった。  ただの決闘ならば、 「後日!」  と、叫んで、立ち去る方法もあった。  この試合だけは、武蔵が出現した以上、中止することはできなかった。  小次郎は、無言で武蔵を睨《にら》みつけつつ、迫って行った。  五歩の距離にせばまった時、武蔵が、おちつきはらった語気で、云った。 「佐々木小次郎、その巌流虎切刀は、すでに敗れて居る!」 「なんだと?!」 「勝負は、闘わずして、みえた」 「おのれがっ! まだ、この上、この佐々木小次郎を口先でまで計ろうとかっ!」 「その物干竿で、当方を斬る勝算なれば、なぜ、鞘を、海へ棄てた? お主は、意識せずして、愛刀を再び鞘に納められず、と知った」 「ほざくなっ!」  小次郎は、|とうとう《ヽヽヽヽ》と弁舌をふるう生来の才能を具備していたが、生涯《しようがい》に於ける最も重大なこの瞬間に於いて、武蔵のあざけりに対して、云い返す言葉が見つからなかった。その代り、長岡興長から、これほどの凶相を有《も》った太刀には、はじめて接した、ときかされた言葉が、ちらと、脳裡《のうり》をかすめた。  小次郎は、怒濤《どとう》をくらうような名状しがたい憤怒で、ぶるっと身ぶるいするや、武蔵に向って、猛然と奔《はし》った。  その疾駆に対して、武蔵は、なぜか、砂地上での闘いをきらって、一直線に渚へ——水中へおのが身をはこんだ。  砂浜は、小波《さざなみ》に洗われて居り、尖った石塊が白い水泡《みなわ》にもてあそばれているほどの、静かな凪《なぎ》であった。  時刻は、巳下刻《みのげこく》(午前十一時)を過ぎて居り、陽光の満ちた試合場に、影はなかった。  武蔵が、波打際へ達した時、小次郎は、そこへ至っていた。  充分に間合を見きった小次郎は、三尺一寸二分の物干竿をきえーっ、と横薙《よこな》ぎに送った。  刹那——。  武蔵は、その凄《すさま》じい刃風にあおられたように、小波の立つ海面へ向って、跳躍した。  固唾《かたず》をのんで見まもる長岡興長以下見物衆は、何故に、武蔵が、自ら望んで、身の動きの不自由な水中をえらんだのか、合点し難かった。  小次郎自身、武蔵の戦法を看破できぬまま、大きく踏み出した右足を海水に濡らしつつ、残心の構えから、虎切刀の構えにもどして、 「来いっ、武蔵!」  と、叫んだ。  武蔵は、膝までつかり乍ら、じっと、小次郎を瞶《みつ》めかえした。  その双眸から放つ光は、氷のように冷たかった。  右手に携げた木太刀もまた、二尺あまり、海水の中にかくしていた。 「…………」 「…………」  無言の睨みあいが、つづいた。  およそ、ゆっくりと十もかぞえるくらいの微動だにせぬ対峙《たいじ》であった。  ようやく——。  小次郎が、いったん振りかぶった物干竿をおろして、じりっと、動いた。  この対峙は、こちらから動かぬ限り、武蔵は、いつまでも、水中に立ちつくして待っている、とみたのである。  小次郎の飛燕《ひえん》撃ちの虎切刀は、脚を使う必要はないのであった。  間合をはかり、物干竿をふるう圏内に、武蔵を容《い》れたならば、絶対に勝つ自信が、小次郎には、あった。  そこで——。  小次郎は、自ら進んで、武蔵へ肉薄することにしたのであった。  武蔵は、動かぬ。  小次郎は、水底をさぐるように、用心ぶかい足どりで、ずぶ、ずぶ、と小波の中へ踏み込んで行った。  そして、ついに、小次郎は、武蔵を、刃圏内に容れた。  ——勝敗は、決定したぞ!  小次郎の眼光は、うそぶいていた。  武蔵は、あくまで、無表情であった。  小次郎が、物干竿を大上段に、ふりかぶるのと、武蔵が、膝までつかっていた右足を挙げるのが、同時であった。  武蔵の前に、海面すれすれに岩がかくれていたことに気がつかなかったのは、小次郎の不覚というべきであったろう。  武蔵が、その岩の上へ、すっと立った瞬間、当然のこと乍ら、小次郎は、その姿の巨大さに威圧感をおぼえた。 「うーむっ!」  小次郎は、一瞬裡に、おのが立場を不利にされた無念さを、ふりはらいざま、大上段から、閃光《せんこう》の迅《はや》さで、岩上に立つ武蔵めがけて、物干竿を放った。  と、同時に——。  武蔵は、岩を蹴って、六尺の身を三尺あまりに縮めて、宙のものとした。  次の刹那、小次郎の物干竿は、飛燕斬りの迅業《はやわざ》を継続させて、宙にある武蔵に送った。  ぱっ、と——。  武蔵の額から渋柿色の手拭いが、截《き》られて、飛んだ。 「あっ!」  検分役の長岡興長が、われを忘れて、床几から突っ立った。鉢巻を両断されたのは、すなわち、頭蓋《ずがい》を斬られたことと受けとれたのであった。  しかし——。  宙を翔《と》んだ武蔵は、波打際に降り立ったが、倒れなかった。     三  水中にあって、こちらに猩々緋《しょうじょうひ》の袖無し羽織の背中を向けた小次郎も、そのまま——飛燕撃ちの虎切刀の迅業を放った残心の構えのまま、石と化したように、微動だにしなかった。  双方、背を向け合ったなりで、動かぬ姿を、見まもる見物衆は、  ——終ったのか? 終らぬのか?  いずれとも判断しかねて、|ひそ《ヽヽ》としずまりかえっているばかりであった。  と——。  武蔵が、一歩踏み出した。  それと同時に、小次郎の巨躯《きよく》が、緩慢に傾いた。  試合は、終っていたのである。  飛沫《しぶき》をあげて、小次郎は、海の中へ仆《たお》れた。そして、口から流す血汐で、みるみる、海水を紅に染めた。  武蔵は、その小次郎を振りかえろうともせず、大股《おおまた》に、興長の前へ、近づいて、一礼し、 「この武蔵の方に、運があった、と上卿《しようけい》様(康之《やすゆき》)にお伝え下さいまするよう——」  それだけ云うと、興長の言葉も待たずに、非常な早さで、試合場をはなれた。  島の東端の渚《なぎさ》で、伊織《いおり》と妻六が待つ小舟へ、ひらりととび乗った武蔵は、はじめて、人間らしい息を、ふかぶかと吸って吐いた。 「お見事でござった!」  妻六が、櫓《ろ》で松の幹を突いて、小舟を押し出し乍《なが》ら、云ったが、武蔵は返辞をしなかった。  伊織は、黙って、武蔵を眺めていた。  妻六が、きかないでも、武蔵の行先は、小倉城下ときめて、西へ向って漕ぎはじめると、 「妻六、下関へもどってくれ」  武蔵は命じ、その時、はじめて、自分の右手に、勝利をもたらした木太刀がまだ握られていることに気がついて、これを波間へ、投げすてた。  それから、のびのびと仰臥《ぎようが》した武蔵は、 「勝ったぞ、おれは佐々木小次郎に……」  と、呟《つぶや》いた。 「左様、お勝ちなされた。宮本武蔵は、もはや、まぎれもなく、日本一の兵法者でござるわい」  妻六が、云った。  潮の流れが、変っていて、妻六は、やはり、漕ぐ手に力をこめなければならなかったが、そんなことは、なんの苦でもなかった。  大声を張りあげて、祝い歌のひとつでも唄《うた》いたいところであった。  伊織は、ちがっていた。師に対して、一言の讃辞《さんじ》もおくらず、沈黙を守りつづけていた。 「伊織——」  仰臥した武蔵が、呼んだ。 「はい」 「お前は、おれの指示通りにやってくれたが、この策略には、不服をとなえたい様子だな」 「べつに、不服をとなえはしません。ただ、わたくしならば、このような策略を用いはしなかったであろう、と思うだけです」 「洗心洞幻夢から学んだ正しい剣は、策略など用いる必要はない、というのだな?」 「そうです」 「それは、お前の云い分であろうが、このおれが、佐々木小次郎を討ちはたすためには、あれだけの策略が必要であった。尋常の試合をしていたならば、おれは、小次郎に敗れていたかも知れぬ」 「あるいは、そうかも知れません」 「勝つべくようにして勝って、なにがわるい? これが、宮本武蔵の兵法だ」  そう云いすてると、武蔵は、目蓋《まぶた》を閉じた。   その最後     一  草木が、|そよ《ヽヽ》ともうごかぬ油照りの蒸し暑さの中で、|きち《ヽヽ》は、一人で、田草取りに余念がなかった。  百姓にとって、田草取りが最もつらい仕事であった。新免家の留守居の身は、べつに田をつくる必要はなかったが、|きち《ヽヽ》は、屋敷から三町ばかり下方の二畝の田を、自分一人で、苗植えから、草取り、稲刈りまでしていた。  主人の武蔵が帰って来た時——いつ帰って来るか知れなかったが——自分のつくった米を炊《た》いて、喰《た》べてもらいたい女心であった。  無心に、せっせと取り進んで、畦《あぜ》まで達し、ほっとひと息ついて、身を上げた|きち《ヽヽ》は、むこうの桑畑をへだてた細径《ほそみち》を歩く編笠《あみがさ》姿を見出して、 「あ!」  よろこびの声をあげた。 「武蔵様!」  と、呼びかけてから、|きち《ヽヽ》は、それが別人と知った。 「やあ!」  編笠をあげて、笑顔をみせたのは、伊織であった。 「早いものです。この前、うかがってから、すでに八カ月が過ぎました」  夕餉《ゆうげ》の膳部《ぜんぶ》に就いてから、伊織は、云った。  伊織は、安芸《あき》で、武蔵と別れていた。武蔵が、福島|正則《まさのり》のたっての懇望に応じて、広島城に入り、幾日か逗留《とうりゆう》することにしたからであった。  伊織は、幻夢の一周忌をいとなむために、伊賀上野の山中にある「洗心洞」へ立戻ったのである。  武蔵は、安芸で別れる際、 「わしの家で、待って居《お》れ」  と、伊織に命じていた。  武蔵にとって、佐々木小次郎の次の試合|対手《あいて》は、伊織であった。  勝負は、おそらく、武蔵が生まれたこの美作国《みまさかのくに》吉野郡宮本村になろう。  伊織はもちろん、そんなことは、|きち《ヽヽ》にはもらさなかった。  せめて、武蔵が帰って来るまで短い日々を、|きち《ヽヽ》の心のこもった食事を摂《と》って、平和にすごしたかった。 「武蔵様は、きっと、お戻りになるのですね?」  |きち《ヽヽ》は、伊織からそうきかされていたが、まだ半信半疑で、あらためて、たしかめた。 「かならず!」  伊織は、うなずいてみせた。 「この前——五年前に、お戻りになった時は、一泊さえもなさらずに、さっさと出てお行きになりましたが、こんどは、伊織さんもおいでなのじゃから、しばらくは、おとどまりなさりましょうね?」  武蔵が、細川家兵法師範の、無敵を誇る佐々木小次郎と試合して、これを一撃で殺した報は、当日から十日も経《た》たぬうちに、宮本村にも、もたらされ、地下人《じげにん》たちを躍りあがらせたことだった。 「武蔵様は、お約束通り、日本一の武芸者におなりなされたぞ!」  一日、宮本村の住民がのこらず、無想寺へ集り、境内で、武蔵の勝利を祝って、飲めや唄えの大さわぎをしたものであった。  無想寺は、観道が疾《と》くにこの世を去り、まだ三十代の若い僧侶《そうりよ》が住職になっていたが、住職も大いに酔って、京都で流行《はやり》の念仏踊りを披露《ひろう》したことだった。  ただ、|きち《ヽヽ》だけは、その祝宴には加わらなかった。  その勝利を、  ——よかった!  と、よろこんだのはいうまでもなかったが、|きち《ヽヽ》にとって、武蔵がいつ帰って来てくれるかどうか——その方が、気がかりであった。  日本一の剣名を挙げたのであるから、あちらこちらの大名衆が召抱えようと、招くに相違ない。もし、どこかの大名に召抱えられたならば、武蔵は、永久に、この生家には、戻って来ないにきまっている。|きち《ヽヽ》には、その不安の方が大きかったのである。  伊織から、「かならず戻られる」ときかされても、その言葉をすなおには信じ難かった。 「かならずお帰りなさる!」  遠くへ眼眸《まなざし》を送り乍ら、自分に云いきかせる|きち《ヽヽ》を、伊織は、眺《なが》めて、  ——このひとのいる此処《ここ》では、師とは試合をしたくない。  と、胸の裡《うち》で、呟かずにはいられなかった。     二  武蔵が、帰って来たのは、それから八日後であった。  夕食をすませて、一刻《いつとき》ばかり過ぎた頃合《ころあい》、不意に、裏庭の井戸端で、水音がした。 「なんであろ?」  |きち《ヽヽ》が、そっと台所口から、すかし視《み》ると、月光の中で、逞《たくま》しい裸躯が、釣瓶《つるべ》の水を、頭からかぶっていた。武蔵であった。  衣服をつけて、座敷に上って来た武蔵の第一声は、 「湯漬《ゆづ》けをくれ」  それであった。  伊織は、非常な早さで、木椀《きまり》の湯漬けをのどに落す武蔵を、じっと見まもり乍ら、 「小父御《おじご》とは、お別れなされたのですか?」  と、不審を口にした。 「妻六は、死んだ」 「えっ?!」  伊織は、愕然《がくぜん》となった。 「どうして——なにごとがあって?」 「佐用街道に入った時、森の中から、十数本もの矢が射かけられて来た。妻六は、この武蔵をかばって、矢をあびて、死んだ。……襲って来たのは、小西行長の旧臣小西与五郎とその徒党であった。……小西与五郎は、わしが、斬《き》った」 「…………」  伊織は、小西与五郎の化生《けしよう》じみた凄惨《せいさん》な面相を、記憶によみがえらせた。  小西与五郎一統が、どれほど凄《すさま》じい復讐《ふくしゆう》の鬼と化して、武蔵に襲いかかったか——その光景も、想像することができた。  げんに、武蔵は、左肩と右腕と左の脛《はぎ》に、かなりの手傷を負うていた。  ——あの好人物の小父御が、死んだのか!  伊織の胸が疼《うず》いた。  それにしても——。  あれだけ、献身してくれた妻六が、討死したことを、こちらが訊《たず》ねなければ、教えようともせぬこの宮本武蔵という兵法者の五体には、いったいどういう冷たい血が流れているものであろう。 「伊織——」  武蔵が、視線を合さずに云《い》った。 「明日、お前と試合をするぞ。お前の二天一流をみる」 「しかし、貴方《あなた》様は、手負うて居られます」 「よけいな心配はするな。……おれは、洗心洞幻夢なる人物によって学んだお前の正しい剣とは、いかなるものか、知りたいのだ」  これをきいて、|きち《ヽヽ》が、双眸《そうぼう》をみひらき、なにか云おうとしたが、言葉が出なかった。 「承知しました」  伊織は、承知した。  その日も、油照りの蒸し暑さが、朝からつづいていた。  武蔵は、朝餉を摂ると、すぐ奥の一室にこもった。  伊織は、台所につづく広い板の間の囲炉裏端で、武蔵が出て来るのを、しずかに、待っていた。|きち《ヽヽ》は、田草取りは中止して、屋内の仕事をしていたが、何をしても、心がうわの空で、おちつかぬ不安の様子をみせていた。  武蔵が、姿を現したのは、午《ひる》近くになってからであった。 「伊織、庭へ出よ」 「庭での立合いは、おことわりいたします」  伊織は、云った。 「なぜだ?」 「|きち《ヽヽ》どのに、見られたくありませぬ」 「よし、では、わしが少年の頃《ころ》、独習した裏山にいたそう」  二人が、出て行く後姿を、|きち《ヽヽ》は、土間の中仕切りの格子戸《こうしど》の蔭《かげ》から、黙って、悲しい眼眸で見送り、そっと、合掌した。  武蔵は、木太刀ではなく、長船祐定《おさふねすけさだ》を腰に佩《お》びていたが、伊織の方は、ここへ来てから作った細身の枇杷《びわ》の木太刀二本を携えていた。長い方は二尺六寸、短い方は一尺八寸。当時としては、いずれも一尺ばかり短かった。木太刀は、剣の形に似せて、鎬《しのぎ》はせまく、刃の方は広く、反りもあるのが常識であったが、伊織の作ったのは、反りもなく、ただの棒のように円《まる》かった。  武蔵は、家を出がけに、その木太刀二本を、ちらと一瞥《いちべつ》したが、べつに、何も云わなかった。  段畠《だんばたけ》のあいだの切通しの小径を過ぎ、苔《こけ》むした墓碑のちらばった廃寺のわきを通り、桑畠の斜面を経ると、少年時、弁之助といった武蔵が搏《う》ちまくった赤松の林に至る。  十九年前と、その風景は、ほとんど変っていなかった。  その十九年前、弁之助は、養い親であり父母の敵《かたき》である平田無二斎と闘っている。無二斎は、弁之助が蹴《け》った岩が、斜面をころがり落ちて来て、その下敷きになって、押しつぶされたのである。  其処《そこ》は、弁之助に搏たれたために、赤松の大半は立枯れたとみえて、地下人たちに伐《き》られて、広い空地になっていた。但《ただ》し、伐り株が、いたるところにのこって居り、試合場所としては、きわめて足場が悪かった。 「構えよ、伊織!」  武蔵は、うながした。 「はい」  伊織は、大小の木太刀を、二本とも、地摺《じず》りに下げた。むしろ、それは、さり気なく佇《たたず》んでいる自然の立姿に等しかった。 「それが、構えか?」 「左様です」 「…………」  武蔵は、長船祐定を抜くと、上段につけた。  それなり……。  武蔵と伊織は、四歩の距離で対峙《たいじ》したなり、身じろぎもしなかった。  風はなく、油蝉《あぶらぜみ》の鳴く音だけがつづいた。  武蔵は、伊織の構えを看《み》た時、すぐに、いかなる迅業《はやわざ》を使うか、さとったに相違なかった。  大小二刀を、ダラリと下げた、一瞥きわめて無防備なその構えには、下から撃ちあげる太刀行きに、おそるべき迅さがある、と合点して、武蔵は、上段につけたのである。  武蔵が、青眼《せいがん》から斬りつければ、これは振り上げ振りおろす二拍子になり、これに対して、伊織は、下から撃ちあげる一拍子であり——その遅速の差の利点が、後者にあった。  武蔵が、上段につけたのは、当然の構えであった。  さらに、これは、武蔵の方から、仕掛けなければならぬ対峙であった。伊織は、ただ、待っている。     三  半刻近くも、|じり《ヽヽ》ともせぬ不動の構えで、睨《にら》みあい乍ら、両者は、この油照りの熱暑に、額に汗も滲《にじ》ませてはいなかった。  身も剣も、真空の中に溶け込ませて、ただ双眸《そうぼう》のみを光らせていた。  と——。  ようやく、武蔵が、すっと迫った。  伊織は、その動きに合せて、同じ歩幅で後退した。  武蔵が動いたことは、「撃つ!」と明示したことにほかならぬ。  間合を見切った武蔵が、宙を截《き》って斬りつけるのを、伊織は、その白刃の凄じい道筋から、おのが太刀行きを外《そ》らしつつ、刎《は》ねあげざま、もう一本の木太刀で撃ち込むことになる。  その迅業は、武蔵は、すでに、備前長島の海賊どもの死体を視て、知っていた。  武蔵には、伊織の二天一流を破る心算が成ったのであろうか?  武蔵は、進み、伊織は、退《さが》った。  そして——。  まず、伊織の後退が、止った。立枯れた赤松が、背中にふれたのである。  その枯れ幹を避けて、右か左へ身を移すことは、許されなかった。  横へ身を移すのは、その動きだけ立場を不利にすることであった。余人は知らず、武蔵が、その瞬間をのがすはずがなかった。  武蔵は迫り、完全に間合を見切った。  しかし——。  何故か、武蔵は、次の刹那《せつな》の一撃を放たず、上段にふりかぶった身構えを、ぴたりと固着させた。  ——何故?  伊織の脳裡《のうり》を、ちらと、疑惑が、翔《と》ぶ鳥影のように、横切《よぎ》った。  ゆっくりと十もかぞえるほどの時間が過ぎた。  一瞬——。  武蔵は、地を蹴った。  しかし、それは、まっ向から斬りつけて来たのではなかった。  伊織の頭上をすれすれに、横へ一直線に、きえーっ、と薙《な》いだ。  伊織の、その閃光《せんこう》に反射する神経が、目にもとまらぬ二刀の迅業を応じさせた。  もし、伊織が、そのまま、動かなかったならば、武蔵は、伊織の頭上の空間を一閃させるだけにとどめたであろう。  はっ、と伊織が、気づいた時、武蔵は、白刃を杖《つえ》にして、立っていた。  眼光は、そのまま、伊織の双眸へ射込みつつも、ぐらりと上半身をゆらめかせた。  伊織は、おのが長刀の方が、武蔵の頭蓋《ずがい》を搏った手ごたえを、その右手に感じていた。  ——何故、わざと、敗れてみせたのか、宮本武蔵ともあろう兵法者が……?  |※[#「手へん+堂」]《どう》と倒れる武蔵を、茫然《ぼうぜん》と見下して、伊織は、眉宇《びう》をひそめた。  その疑念は、すぐ解けた。  伊織は、武蔵に近寄ろうとして、一歩踏み出したとたん、足もとに、いっぴきの蝮《まむし》が、両断されているのを、みとめたのである。  武蔵は、枯れ松の枝から、伊織めがけて、飛びかかった蝮を、斬ったのであった。  そうと気づかずに、伊織は、武蔵の一閃を、意外の業を放つのだと、思いまちがえて、撃ちかえしたのである。 「先生っ!」  伊織は、二刀をすてて、武蔵を抱き起した。  武蔵が意識をとりもどしたのは、|きち《ヽヽ》の待つ屋敷へ、はこばれてからであった。  武蔵は、すぐに、牀《とこ》の上へ起き上った。頭蓋を搏たれた疼痛《とうつう》など、すこしもないかのように無表情であったが、その双眸の光は、うつろであった。   後記  宮本武蔵の決闘者としての生命は、この日を限りとして、熄《おわ》った。  伊織にかみつこうとして飛びかかった蝮を両断したために——なまじ、師として弟子を救ったばかりに、つまり武蔵ともあろう者が人間的になったばかりに、——武蔵は、頭蓋を搏たれて、その異常の業念《ごうねん》を喪失したのである。  もし、伊織に頭蓋を搏たれていなければ、武蔵は、さらに、後世にのこる大試合をしたに相違ない。  痴呆《ちほう》の状態は、一月あまりで癒《い》えたが、武蔵は、再び、そのあくなき闘志をとりもどすことはできなかった。  いわば、尋常の人間になり果てたのである。  壮年から晩年にかけての逸話は、いくつかのこされているが、すべて、後人がつくったものである。武蔵は、二度と、剣を抜くことはなく、無為の歳月をすごし、晩年、肥後|熊本《くまもと》に移った細川|忠利《ただとし》から、客分として、堪忍分《かんにんぶん》の合力米三百石をもらい、六十二歳で逝《い》った。  五十歳を過ぎた頃から、すこしずつ、頭脳の働きが狂いはじめ、六十歳になると、熊本郊外金峰山の山中にある霊巌洞という洞窟《どうくつ》にとじこもり、仙人《せんにん》のごとく孤座して、人知れず、この世を去った。  武蔵が、おのが兵法について著述したと称せられるものに、『兵道鏡』『三十五箇条』『五輪書』『二天一流兵法序論』があり、さらに、自戒の書として『独行道《どつこうどう》』があるが、これらは、すべて、養子である宮本伊織が、書いたのが真実である。  伊織が、武蔵に代って書いたからこそ、『五輪書』は、次のような文章になったのである。 [#この行1字下げ]「我若年のむかしより兵法の道を心にかけ、十三歳にして初て勝負を為《な》す。その相手新当流の有馬喜兵衛という兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬《たじま》国秋山という強力の兵法者に打勝ち、二十一歳にして、都に上り、天下の兵法者に逢《あ》いて数度の勝負を決するといえども勝利を得ずということなし。その後、国々所々に至り、諸派の兵法者に行逢い、六十余度まで勝負すといえども一度もその利を失わず。その程、年十三より二十八、九歳までのことなり。三十を超えて跡をおもい見るに、兵法至極して勝つにはあらず、おのずから道の器用ありて、天理に離れざるが故《ゆえ》か、又は他流の兵法不足する所にや、その後|猶《なお》も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れば、おのずから兵法の道にあうこと我五十歳のころなり。それより以来は、尋ね入るべき道なくして光陰をおくる。兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事に於《お》いて我に師匠なし」  このような文章は、よく読めば、自分自身の手で、記述できるものではないことは明白である。養子の伊織が筆を把《と》ったればこそ、書けたのである。  武蔵が、決闘者たる闘志を喪失していなければ、大坂冬の陣、夏の陣に、いずれに加わったとしても、目ざましい働きをしたに相違ない。その記録が全く残されていないところから推測しても、渠《かれ》が、廃人に近い兵法者になり果てた証拠である。  真の決闘者ならば、船島に於ける佐々木小次郎との試合以後、なお、いくつかの試合をしているはずなのである。武蔵は、それ以後、ただの一試合もしていない。天下には、一流の武芸者が、あまたいたにもかかわらず——。  たったいっぴきの蝮のために、武蔵は、決闘者としての資格を喪失し、剣名だけをのこした。  三十歳を境として、武蔵は、あとの三十年を、緩慢な悲劇のうちに、生涯《しようがい》を閉じた。  養子宮本伊織が、その剣名を後世にのこす記録を記述して、いまもなお、宮本武蔵を、代表的な兵法者として、われわれに認識させているのである。 [#地付き](完)    本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、底本どおりとしました。 [#地付き]〈編集部〉